福島へのまなざし

ひょんなことから経産相の方々に案内いただいた帰還困難区域を含む福島のまちと福島第一原子力発電所の構内。千葉に生まれて育った私は当日を迎える前から、被災地を眼差すことへの自信がなかった。被災された方々の苦しみを軽くすることが出来ないうしろめたさが立ち上がるからだ。

実在の恐怖を目の前にしたとき、うしろめたさを感じる。見る権利がある人は、苦しみを軽減できる者のみだ。

スーザン・ソンタグ『他者の苦痛への眼差し』

被災した当事者の痛みだって完全に分かることができない。かつて暮らしていた彼らが戻れなくなった場所を眼差し、数日後には千葉で楽しく笑っているような私には涙を流す資格すらないと思った。

最初に訪れた帰還困難区域に佇む立派な児童館は2011年3月11日まで生活していた子どもたちの気配が漂っていた。

くままち児童館

下駄箱に残る上履き、ホワイトボードに書かれた3月の予定表。2011年小学生だった私は2024年、23歳になった。扉の向こうで滞留している2011年の空気を前にして2024年を生きている自分がいる。震災から目を背け、生きてきてしまった自分の輪郭をはっきりとさせた。

ずしんと重たくなった足を一歩ずつ動かし、車に乗り込む。続いて案内していただいたのは、海の近くにあったひらめの養殖場。津波の被害を大きく受けた場所だった。壁がちぎれている。鉄骨の通る頑丈なコンクリートがぐにゃりと曲がっている。こんなに痛みを感じる建物に出会ったのは初めてだった。児童館とは反対に、養殖場で働いていた人たちの面影はまるで残っていない。建物自体が叫んでいるように感じた。

ひらめ養殖場の外部
ひらめ養殖場の室内

被災地とうまく関係を結べないまま1日目が終わり、2日目は福島第一原子力発電所の見学に向かった。資源エネルギー庁の職員で、福島第一原発の廃炉汚染水対策官を務める木野正登さんが開催するツアーだった。

原発の仕組みや、推測される事故の原因、廃炉に向けた動きなど解説いただき、質問にも丁寧に答えてくれた。厳重なセキュリティを一つひとつ通過している時は「エヴァのNERVに入っていくようだ……」と思ったし、バスツアーに組み込まれる工場見学をしているような気持ちでもあった。携帯やカメラを持ち込めない私たちに代わって記念撮影をしてくれるときはどんな顔をしたらいいのか分からなかったけれど、最後に処理水と共に記念写真を撮った時には観光客の顔をしていたはずだ。非日常性を楽しむ観光客だったのだ。

5号機原子炉の真下

被災地を見て痛みを感じた。手放しに無関係だとは言えない何かを感じた。だけど、私は当事者にはなれない。いま東電と闘っている人々と同じように東電を倒したいという怒りを持ていない。そんな私は被災地とどのように関係を結んだらいいのだろうか。非当事者の私は、当事者の痛みをコンテンツとして消費しているのだろうか。ずっともやもやしていた時、小松理虔さんの連載記事を紹介してもらった。

小松さんは昨年、同じ木野さんが案内するツアーに参加していた。ここで私は「共事者」という概念に出会った。この概念を通して、小松さんは非当事者が他者の痛みに関わる可能性を書いている。

 ぼくにとって「共事」いう概念は、自分が近すぎるときには離れ、離れすぎているときには近づく。つまり、対象とズレた距離感を諫め、修正し、ピントを合わせていくような言葉だと言えるかもしれない。

 ぼくはすぐに距離を見誤ってしまう。何か問題が起きると、正しくこの問題を理解しなければ、当事者たちに連帯しなければ、などと思ってしまうタイプの人間だ。そんなとき、共事は自分に「ちょっと冷静になってよ」と距離を保たせる。

 一方で、この問題はオレに関係ないよとか、当事者がなんとかしたらいいんじゃない? と無関心を決め込んでしまうこともある。そうしたときほど、自分の心の中にあった無意識の差別や加害性が潜んでいることが多い。だから共事は、無関心だったことを自分に引きつけ、その問題についてしっかりと考えさせる、つまり距離を詰めるための言葉になる。そうしてその都度、自分の距離感を修正しながら、自分の立つ位置を確認するしかない。

そんな共事者として視点が「悲劇の土地・福島」のイメージを変えるという。当事者に連帯して「被害者/当事者のレッテルを貼るのでもなく、無関心な他者でもない、共事者が持つべき使命を示唆してくれた。

未曾有の原発事故を引き起こした福島第一原子力発電所。この場所で起きたことを語り継ぎながらも不幸の土地に固定しない。深刻な影響を受けた場所でありながら、たくさんの学びを与えてくれもする。そういう場所であるためには、多様な人たちに開かれることが欠かせない。その人たちが「悲劇の土地・福島」のイメージを変える回路を開いてくれるかもしれないからだ。人間は、たった1本の木から想像してしまう。その想像から、これまでの考えが改められたり、次なる思考に促されたりすることがある。この場所は、やはりぼくたちの観光資源でもあるのだ。

非当事者が他者の痛みに関われば、「貧困ポルノ」だと批判されることだってある。24時間テレビも運営体制やコンテンツの取り上げ方が最善なのかは分からないが、やす子が走り4億3801万円集まったことは事実だ。46年間の寄付金累計額は433億2,769万3,640円だという。他者の痛みに非当事者がどう関わればいいのか未だに分からない。しかし、社会で起きている問題について「真面目」な当事者だけに留めるのではなく、あらゆる人を巻き込むことで社会は変わっていく。不真面目な共事者が新たな活路見出す可能性があるのではないか。今はそう信じてみたい。


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