宗教の代わりに何をなすべきか?No.1 大我、梵、絶対者(及びその偽物カルト)からの解放

宗教の問題がますます明らかになっている。昔からの宗教戦争、宗派戦争は、一向に止むことがない。新興宗教も次々と誕生している。中には反社会的活動をして、功徳とか先祖の霊とかを語り、不当に金を集めて、批判を受けている組織もある。しかも政治権力と癒着して、政権与党の運動員として入り込んだり、票を工面したりして、民主主義を危険に晒している場合もある。

一体、人はなぜ宗教にハマるのか?なぜ一つのドクマに染まってしまい、他の見方ができなくなるのか?そして全財産も、命さえも捧げようとするのか?単に自分を捨てるだけでなく、そのドクマを信じない者を(サタンとか仏敵と決めつけて)殺すことも正義と思い込んでしまうところが恐ろしい。

最初は美辞麗句を信じて、純真な心で入っても、やがては自縄自縛になってしまう。

その根底には、
この苦しみの世から、強い力で救われたいと言う願い、
神や仏とかいう絶対者に救われたい願い、
最愛の人を亡くした悲嘆の中で、絶対者のいるあの世での冥福を願いたい気持ち、、、

ここで、【絶対者】が一つのキーポイントになる。

どの宗教も絶対者を想定する。しかし、相対的にその依存性が少ない教えも存在する。
それは、本来の釈迦の教えとされる原始仏教の教えであり、この世を絶対者の造ったのものとせず、縁起による組み合わせの産物とする。
大我=ブラーフマン、梵、宇宙の根源とかの観念にとらわれず、そのような不毛な議論に耽らず、「法を灯明として、自己を灯明として」、犀の角のように強く歩めと教える。
そこには、絶対者への依存主義から、近代的人間主義への転換がある。





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