宗教の代わりに何をなすべきか? no.2 空論、虚論の戒め

よく知られているお釈迦様の教え(原始仏教の教え)に、「毒矢の喩え」と言うものがある。マールンクヤという弟子が釈迦に、この世界は永遠か否か、霊魂と身体は同一かどうか、人間は死後も存在するか否か、この世界に果てはあるか無いか、と言うような質問をして、これに答えてくれなければ、自分はお釈迦様のもとから出ていく、と言うようなことを言った。
それに対して、釈迦は、たとえば毒矢に射られた人がいたとする。彼の友人は急いで医者を呼んで治療して貰おうとするが、本人は、自分を射った人はバラモンかクシャトリアか庶民か、矢がどんな形をしていたか、名は何と言うか、そういうことがわからない間は、治療をしないでくれと、拒んだとする。
そうすると、それが分らない間に、本人は毒が回って死んでしまうであろう。それと同じように、そのような質問に拘っているかぎり、無常の時は速やかにやってきてしまう。
そのような空理空論(戯論)に耽っていないで、粛々と自己のやるべきことをやりなさい、自分がそのような質問に答えないのは、それをそのまま、そのように受取るべきだと、諭したと言われる。

もしお釈迦様が、自分を絶対者とか、久遠の仏とか認識していたならば、きっと、宇宙は永遠で、私も永遠だ、私の教えに従えば、永遠の命が得られるとか、そこら辺にいる俗物カルト教祖のような出任せを言っただろう。しかし、彼の師はそのように言わなかった。
「そのように受け止めなさい」と、言うことは、永遠の生命とか、宇宙の支配者とか言うことは、語るでないと言うことである。

もちろん、科学的に宇宙を究明していくことは、人間の英知として当然の行いである。根拠のない空想ばかりで、戯論を語るでないということである。








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