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ノート・ル・ダム

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日記のような、エッセイのような、ポエムのような。それぞれの中間のような文章を書かせて頂いております。
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#日記

縁起でもないことについて語ること

「縁起でもない」という言葉が力がなくなっているように感じる。 もし飛行機が落ちたら、もし津波が来たら、もし自分が死んだら、とかそういうことを考えるのはタブーでなくなってきたように感じる。 自分が死んでしまうかもしれない、というのは考えるべきでないことだった。まあ、これは完全に個人の実感なのだが。 10年くらい前までは、死を口にすることは、「縁起でもない」と叱られているのをよく目にした気がする。 実際のところは、自分の考えの変化かもしれないけれど。 死について語ること

空白をつくる

自分が自分であることに疲れることがある。 人と関わりたくないときがある。 生きていることがめんどくさくなることがある。 そういう時にいったい何をすればいいんだろう? と思ってしまう。 僕の場合、だいたいそういうときには頭の中に情報が詰まりすぎている。 いつでもどこでも人と繋がれる、情報と接せられる時代になって、僕はいささかお腹いっぱいです。 いろんな物事を自分の中で消化できる速度がとても遅いのです。 世の中が目まぐるしく動いていくペースについて行くのがむずかしい。

生きるというのはこういう事じゃないか

 とわかった気になりました。  僕はまだ二十代で、まだまだ、まだまだまだ経験も足りていないとは重々承知しています。というか、生きていても分からない世界が残されたまま生きていって、死んでいくということじゃないでしょうか。  5歳の時よりも、15歳の時よりも、確実にこの世で生きていくということについて理解してきたんじゃないでしょうか。経験的な蓄積もそうですし、知識的な蓄積もそうです。  自分の理解できない人間を否定したりバカにしたりする人もいれば、最先端の技術を開発したりす

しあわせだと思う一方で

しあわせだと思いました。 そう思うと、この世の中には貧困で苦しんでいる人がいるし、戦争で苦しんでいる人もいるし、いろいろな理不尽を生きている人がいることが頭に浮かばなくもない。 世界の経済格差とか歴史的な背景とか、いろんな構造に思い巡らしはじめると、自分の生活はそういう人たちの犠牲の上に成り立っていて、しあわせだと感じているのは、浮かれているのではないか。 そんなことを思わなくもない。そういう物事のつながりや世界の関係性を考えることは大切だし、それらの事実を受け止めるこ