再解釈、シュレディンガーの猫


ここに箱がある。箱の中には猫とスイッチが入っている。スイッチを押せば猫は毒ガスで死ぬ箱だ。

さて、この箱に注目しよう。外側から中の様子は一切わからない
鳴き声もスイッチを押す音も聞こえないし分からない。


この前提のとき、この箱の中には猫が生きている状態と死んでいる状態の2つが重なって存在しているわけだ。


だが現実として考えてみよう。そんな状態はありえないのだ。矛盾なのだ。なぜならこの世に存在するのはどちらか片方だけである。同時には存在しえない。

物理現象としてどちらも存在するという事は決してない。だが人間は矛盾を持った生き物だ。
矛盾を既に手にしている。だからこんな阿呆なことを考えるわけだ。


わたしには矛盾がない。


という人間は断言するがいない。太ると分かっていてもお菓子を食うし、ワタクシ的な話で例えるならば、戦争は嫌いだが人間のようなものを撃ち殺すゲームは大好きだ。

どうだろう、実感出来ただろうか

人間は日々矛盾と戦い続けている。
わたしは辛いものが好きだ。だが翌日尻がヒリヒリする度に二度とあんなもの食わんと決意する。
だが二、三日もすれば決心した気持ちを辛味を摂取したい気持ちが侵食するのだ。

わたしは映画を見るのが好きだ。感銘を受ける。
セリフや演出の奥に作り手の意図して隠したものすごいナニカがあるのではないかと考えるとワクワクする。


もちろんこれも矛盾だ。
なぜならそんなものあるかもしれないがないかもしれない。シュレディンガーの猫と同じである。同時に存在するはずのないことが同時に存在しているのだ。


つまり人間は矛盾が好きなのだ。底抜けの阿呆だと思う。
だがそれこそが他の動物にはない”人間らしさ”なんだと思う。


シュレディンガーの猫を再解釈しよう。

人間は矛盾を愛す動物である。シュレディンガーの猫はその証明なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?