雪組『双曲線上のカルテ』千秋楽感想/チェーザレさんとフェルナンド先生

『双曲線上のカルテ』で停電が起き、モニカ(華純さん)がチェーザレさん(桜路さん)の病室にやってくる時、いつもチェーザレさんの目には涙が一粒溜まっていて、それが流れている日もあれば、体を起こす前にゆっくり流れることもあった。その前の場面で、チェーザレさんが看護師に触れてしまうことについて、モニカもフェルナンド(和希さん)もランベルト(縣さん)もどこか誤解をしていて、ただ「死にたくない」と縋りたいだけであることも伝わらない中で、妻に自分の命が残りわずかであることを悟らせないようにじっと、病室の天井を見つめていたであろうチェーザレさんの孤独のことを考えてしまう。

 千秋楽の日のことを書きます。
 モニカとランベルトと話した後のフェルナンドが、チェーザレさんの病室にやってきたそのとき、千秋楽はその場面で、すでにチェーザレさんは涙を流していた。それを見てしまった時のフェルナンドの気持ちって、どんなものだったのだろう、千秋楽は今までで1番泣き出しそうな声の「わかっていますよ」、だった。
 二人は、自分が抱えている「本当のこと」を語り合うことがない。フェルナンドのついた嘘をチェーザレさんが「優しい嘘」と思っていたことも、伏せられているし、そしてフェルナンドはチェーザレさんの病のことも余命のことも、そして自分の命の残り時間についても話していない。けれど、同時に、私には、二人がそれぞれ抱えている「死への不安」が、寄り添うことも、共感することもないまま、ただ黙って共鳴したように見えた。真実が語り合うわけではないのに、確かにあの時二人は、真実よりずっと底で何かが通じ合っていた。

 フェルナンドは別の場面で「人は分かり合えない」という話をしています。その人の全てが分かるなら人は人を好きにならない、というセリフも登場していた。そしてこの場面のチェーザレさんとフェルナンドは、わかりあうどころか、たくさんのことを互いに伏せてもいて、でも、それでも、共鳴があった、むしろ共鳴だったからこそ、二人が抱えてる「孤独」にまでそれは到達したんだと思う。「わかりあうこと以上のもの」がそこにはあったと思うのです。
 チェーザレさんは、フェルナンドをはじめとした医師が自分の本当の病名を伏せていること、そして自分の体がもう限界であることを察していた。私は、停電シーンの最初、いつも涙を溜めているチェーザレさんを見ながら、モニカが病室にくる前、もしくは眠る前、一人で天井を見つめ、いろんなことを一人で考えていたであろうチェーザレさんのことをずっと考えてしまっていた。家とは全く違う、病室の天井。妻には、本当のことを言えず、死にたくないというその気持ちを吐露する相手もいない。ずっと帰ることのできない入院生活。死の気配。誰かに、不安を聞いてほしかっただろうし、わかってほしかっただろうし、言えないことの苦しさが、あの時のチェーザレさんには溢れて、きっともう限界だったのだと思う。(だから、モニカに最後に言えた言葉が「ありがとう」でよかった、と心底思います。)

 チェーザレさんの孤独と、フェルナンドの孤独が、(決して同じものではないのだけど)はっきりと共鳴したように見えて、私は千秋楽のあの日、ああ、だから天国のシーンで現れるのはチェーザレさんなんだなぁ……と幕間でずっと考えていました。天国の場面のチェーザレさんはきっと、フェルナンドが抱えている問題のことは何も知らないままです。真実を知らないままで、それでも、彼を迎えにきて、質問をし、彼の答えに安堵した顔を見せた。私はこのシーンのチェーザレさんが大好きです。チェーザレさんはいつも、フェルナンドが質問に答えようとする時(それから自分は死んだんだと察した時)、フェルナンドがどんな言葉を発するのか、本当に穏やかに待っている。ただ正解を答えるのを待つというより、どんなふうな答えが出てきてもそれを受け止めようとするつもりでいるような、そういう繊細な、何も決めつけないで待とうとする表情が桜路さんのお芝居にあって大好きだった。チェーザレさんの繊細さがここに詰まっていて、停電の場面の涙も、手術を頼もうとする時の表情も、自分は大丈夫だと思えてからやっと「翌朝死んでるんじゃないかって」と不安を吐露する優しさと儚さのすべてが繋がっていて、そういう一つ一つのことが、「がんばったなぁ」を特別なセリフにしていたと思います。チェーザレさんは自分の人生を、最後のあの日々を「がんばった」とおもえたんだな、とわかる。私はそれが一番嬉しいです。そして、何も知らないはずのチェーザレさんが「がんばったなぁ」とあの質問の答えから言えることも大好きだった。あの病室のシーンを見ていたから、それが本当に特別なことに思えてならなかった。
 人は、お互いのことを完全に知ることがなくても、何もかもを打ち明けてもらわなくても、心から思いやり、労うことができる。人と人は決してわかりあえないとしても、それでも人と出会うことは奇跡的で、むしろわかりあえないからこそ、人の出会いは美しい優しさを描いていく、その優しさに気づくこと、優しさを届けられることは、「わかる」ことよりずっと大切なことなのかもしれません。
 私は桜路さんが大好きだから、今回の舞台が本当に特別でした。千秋楽を見る前からそれはずっとそうだったのだけど、千秋楽を見たときに、作品そのものの大切なところにここで触れられた気がして。あの瞬間の時間が今もあのまま冷凍されたみたいに心に丸ごと残っています。

 千秋楽おめでとうございます。
 全ての公演の幕が上がって、本当によかったです……!心から、おめでとうございます。