月組「桜嵐記/Dream Chaser」観劇感想

やっと見れたーーーーー!!!!やったー!!!

桜嵐記。美しい死に様ではなく美しい生き様として死を描くこと、散る花はその咲かせた花が美しいからこそ散っていくのだということ、終わっていくもの終わらないもの、それを見つめる他者の瞳。続いていくとはなんなのか、残していくとはなんなのか、美しく生きることこそが、夢を見せることだと、トップスターという姿で証明するような珠城さん。これは本当に、別れの作品として、これ以上ないものですね。素晴らしい、素晴らしいし何より、この演目に、正行という人物に説得力をもたらす珠城さんが素晴らしいですね……

珠城さんは目がすごく「本当」で、その目が見つめる先ならば、きっとどれほど遠くとも、必ず行き着くのだろうと感じる。正行は筋の通ったまっすぐな人物で、しかしそれはただ生まれ持ったものというよりは、父親の影響・後天的なものがとても大きいと感じる。もう死んで去ってしまった、立派な人物の跡を継ぐ、その意思を継ぐ、ということは、「呪い」なのか、そうではないのか。この問いへの答えを見つけるのは、それこそ去った人の「死」ではなく、「生」で。父が教えてくれたこと、父がどう「生きた」かの記憶で。それらを思い出すことで、非業の死であった父の最後を無念だとか、その雪辱を果たさねばとか、そんな自らの人生への枷にすることなく、その向こうにある父の生き様、今もまだ見えるその背中を、まっすぐに追うことができるんだろう。

兄たちの亡骸の下に娘を隠した母親は、その娘に復讐してほしかったのではない、幸せに生きてほしかったのだろう。そして、主人を裏切ることなく、主人に従うことで、戦って死んだ父親は、その死を無駄にしないために子供達に戦ってほしいのではないだろう。父は何を見ていただろう、父は、平穏が人々に訪れることを願っていた、争うことや利益を得ることではなくて、忠義や自らの美徳ですらなくて、ただ、人と人が共に生きていくということを「そうなるのが自然でそうであってほしい」と当たり前に望んでいた。人を人として見つめ、誰であろうと、誰かからもらったものにはありがたさを感じ、何かを返したいと考える、全てがそうして繋がっていけると信じる強さを持つ人だった。だから、未来のために、父は戦い死んでいった。その姿が最初から正行の中にはあり、彼の父の死への疑問には、父と、それから自らのこれまでの生き様こそが、答えとなって現れる。わからないと思いながらも、悩みながらも父のあとをつぎ、同じように考え、同じところを歩んできた彼は、その自分の歩みが、答えであったのだと知る。その時幼い頃に父が教えてくれたこと、自分に積み重なってきた、父がくれた言葉を思い出す。自分が、敵兵を助けてきたこと。人を人として見る、ということ。全ては一つのことだったのだ。父の死も、そして自分がいつ死ぬのかも。

(私は現代の人間だから、死なないでほしいと願う、どうやっても、生きてほしいと思う。けれど、どう生きるかという問いが、どこまでもどう死ぬかにつながっていく時代の話なのだ、これは。)

美園さんの弁内侍が、「敵を助けるなど」というあのシーンは、見ていてボロボロ泣いてしまって、あれは正行の懐の深さを見せるシーンでもあるけれど、でも私はどこまでも弁内侍の側だなあ、と思う。どれほどまっすぐに、自分の中にある先入観や偏見に囚われず、生きていけるだろうか、ほとんどそれらに気づかずに、自分がとんでもない間違いを犯そうとした時に、やっとそのことに気づき、すべてが恐ろしくて、戸惑って、それでも刀を持たされて、そこで「違う」と言うだけでとてつもない勇気がいること、わかる、わかるよと泣いてしまった。ただ敵を救う、というシーンではなく、あれは弁内侍を諭すシーンだからこそ、正行の本質が見えて良いですね。彼にとっては、まっすぐに人として人を見ることは当たり前のことで、それは父親から与えてもらった大きな教え、ギフトであると私は思うけれど、そのことに特別だとは思っていないと言うか、意識して器を大きくしようとしているのではなく、もっと本質的な無自覚な器があり、大きな心を持つ人の「厳しさ」がだから現れていて良いのです。ただ優しいのでも、全てをわかっているのでもない。彼にはただ弁内侍の言葉は矛盾だらけに思えて、だから「じゃあ斬りますか」と問う。弁内侍からすればあまりにも厳しい言葉だが、しかしそれこそが、正行の大きさを示していて、ここすごくいいですよねえ、この優しさではない「大きさ」。これが人間の本当の器だよなあ。救いだとか愛だとかそういうのじゃないんですよ、この巨大な、無垢とはまた違うけれどまっさらな心よ、強さよ!寡黙すぎて理解されないこともあるだろうし、「うつけ」だと言われることもあるだろう。けれどそのまっすぐさの根っこを共有している弟たちは兄の背を追いかけるし、弁内侍も彼の言葉を信じた。それは、彼女にも大きな傷口があり、憎しみがあり、けれどそれに飲まれまいとする意思もあったから。彼女が受け取ってきた彼女の家族の生に気付けるのは、正行のような人だ。憎しみを果たすべく共に戦いましょう、でも、傷を癒すため愛を知りましょう、でもなく、あなたのその苦しみとして残った家族の死は、本当に「苦しみ」でしかありませんかと、問う。死を、残された人にとって「呪い」にしない、「傷」にしない。死は、生きてきた人の人生の最後で、生の一部であると、思い出させてくれていた。

(それにしても美園さんの弁内侍もすごくよくて、公家らしい偏った思考の持ち主ともまた違う、さまざまな個人としての痛みを抱えながら、抱えきれない世界のことに全て一人で向き合うことはできず、武士をけだものというしかなかった、公家としてそうやってなんとか視野を狭くして生きようとしてきた女の人の、か弱さに満ち満ちた悲しみと、それでもそこに屈しない逞しさがあって、この儚いけれど消える火ではない、その強さが軽やかで愛らしかった。)

どうやっても理不尽なことの多い人生において、悲しみが、恐ろしさが、それまでの日常を忘れさせ、大きな呪いとなることを、まっすぐな瞳で「本当に?」と尋ねられる。答えを知っている人としてではなく、まっすぐに生きることで苦しみ、今でも悩む人だからこそ、できること。この役を演じられるのは珠城さんだけだろうな、と私は強烈に思っていた。

演者のその人の存在感や、得意とするトーンというもの、その人がそこにいることで生まれる文脈が、舞台にも引用され、生かされている、と思うことは宝塚の舞台にはとても多いです。特にトップスターは、その人を主演とする前提で作品が用意されるから、何よりその引用は多いし、その人のためにある、と感じる作品がほとんどです。スターはその人自身が濃いキャラクター性を持ち、その芸名で舞台に立つことが、すでにフィクション的であるから。けれどこの舞台は、そうした「キャラクター性」というよりは、それこそ珠城さんの生き様そのものを借りてきたような強さがあり、そうして、我々にとって既知の「要素」の引用を、作品に発見するというよりは、死ぬその時にこそ、生き様の美しさが問われる武士のように、退団公演という場で、最後の公演でこの役をやり遂げるというその姿でもって、珠城さんのジェンヌ人生の美しさを証明するような、我々はただそれを目撃していくような、そんな素晴らしさがあった。引用ではなく証明で、そして完璧な素晴らしい舞台でそれに応える珠城さん。ただ、見送るための脚本ではなく、最後の最後に大きな問いを上田先生は珠城さんに投げかけ、それにまっすぐはっきりと答えていく。寡黙で厳しく、そして大きな器をもつ正行がしかしそこにいた、はっきりといたのだというその事実があまりにも、珠城さんのジェンヌ人生の美しさを証明していて、その一切の妥協のない、ぴんと張った弦のような舞台に、もう儚さとも別れの悲しみとも違う、ある一人の完成を目撃してしまった息の詰まるような思いを感じたのです。

私は、ドリームチェイサーのデュエダンのあと、珠城さんが男役さんたちと踊りそして最後に一人で軽やかに踊るあの時間が好きです。最初に書いた「美しく生きることこそが、夢を見せること」というのは、この姿を見て思ったことです。まっすぐに自分の道を、ただ歩み続けることがどれほど過酷なことか。けれどその、地に足のついたコツコツとした時間こそが、それ自体が「夢」そのものなのでしょう。こうやって書いてしまえば、理想論のようで、抽象的でもありますが、その事実を、強烈に「そうだ」と確信させてくれるのは、夢のような舞台のあの輝きなのです。

と、いうことでここからは様子が少し変わりまして私の好きなドリームチェイサーのシーンごとの話をどんどんしていくぞ〜!燕尾〜!スパニッシュ〜!スーツ!イェーイ!!!(元気)まずデュエダン!デュエダンすごくよかった、しかも何がよかったのかわかるという感じではなく、ただただ二人の全ての細やかなやりとりが全部、全部、私にはきっと理解できることのない様々な感情がそこにあることがわかって、なんだかもう……もうよくわかんないけどもう素晴らしかったな……その実感だけが残った。その途方もなさこそがなにより美しい時間だった……。なんだろう、ダンスや歌や芝居の素晴らしさはもちろんあるけれど、そうじゃなくて、これはなんなんでしょうね、人と人が巡り合って、同じものを目指し、互いに支え合い、頼り、頼られ、そうやって歩んできた人たちの、本当にささやかな目を合わせた時の表情や、手を取る仕草全てがね、美しくて、儚くて、ささやかで、でもだからこそ、複数の人が一緒に舞台に立つというそのことの奇跡を感じました。すごく特別なものを見たなあ……。あと、私は月組の黒燕尾が大好き!!!!!!!なんです!!!!(黒燕尾はもういつだって全部好きですけど、黒燕尾が好きになったきっかけが月組だからそれはどうしてももうね……)どうして私は黒燕尾が好きなのだろう、とよく思っていたのですが、これはもう今回やっと分かったのですが、「めっちゃ踊ってくれるから」なのだと思います。特に月組の燕尾には「抑圧」のようなものをすごく感じて、それは表情とか振り付けとかもそうなのかもしれませんが、クラシカルで正統で、絶対的な規範の中に生きる人の息苦しさのようなものが色気として現れており、その中でしかしめっちゃ踊るという、その、その心の荒々しさ、意志の主張がくっきり出る、という対比がめっちゃ良いのだろうなと思います。みんな一言で一企業の株価を暴落させられそうなやばさ(何を言ってる?)があって、そのピリッとした緊張感を、緩めるのではなくそれをそのままに踊ることで、息苦しさや規範に風穴が空き、それ自体もまた美しい夢に見えてくる。逆転こそが美しく、この軽やかさは、演じるのが女性だからというのもあると思います。この現実にも多々ある規範の苦しさがロマンティックな虚構になるということのカルタシスももしかしたらあるのかなと思ったり。あと、あと、ほんとこれは書かないとなんですけど、鳳月さんのスパニッシュ、鳳月さんのスパニッシュ!!かっこよ……かっこよが私の死因になっちゃうからやめて……ってぐらいかっこよ……。あれなんなんですか?私は何を見たんです?男役、というか「鳳月杏さん」、としての良さがバッチバチに完成されている……。この人にしかないものが、回り回って男役としての完成度となっているのを見るのが私は本当に好きです。芸とは技術と鍛錬ですがそれが突き進むとその人にしかないものになる、というのは、やはり身体的なものであるからでしょうか……。そしてそこに何より「人が何か表現をすることの良さ」が詰まっていて。舞台が生なのもまた、人として存在に帰結するこの芸の道が美しいからでしょうね……。一人の人がその人だけの「王道」に行き着くときの、すばらしさよ。私は、特にレビューはほんとそういう瞬間のためにあるって思っています。美しい……美しさがもう全ての瞬間において満点で、しかし絵ではなく、人としてそこにある、変わり続け、描き続け、語られていく、そのことにとてつもなく痺れるの……。見ている側さえも肯定されていくような、存在すること自体が美しく感じられるような、そんな強さがありました。

書きすぎ!おわり!