星組ロミオとジュリエット/瀬央ゆりあさんのベンヴォーリオについて

星組ロミオとジュリエット、先日A日程を見ることができました。瀬央さんのベンヴォーリオが凄くよくて……キャトルで写真を買った……そんな日でした(どんな日)。普通の人が環境によって狂わされていくことが自然な形で見えていて、だからロミオとマーキューシオの三人がとても「悪友」として成立している。彼らの関係性がどう見えるか、というところにそれぞれの演じ方の違いは一番よく現れると感じていて、この三人は、三人のうち誰が欠けてもバランスが崩れてしまう、みたいな危うさというよりむしろ長年の培われた関わりが何重にも見えて、それがとても良かったです。今出会った、というよりも、長い時間影響し合ってこうなった三人なんだろうと。マーキューシオとベンヴォーリオの関係が非常に複雑であるのもいいな。それによってロミオが三人の関わりに深く絡んできているように見える。


マーキューシオは欲望に忠実で、怖いもの知らず。その粗暴さが抑えられているわけではないんだけど、そういう粗暴さを持つマーキューシオと、温和なロミオが非常に対等に見えるのは、ベンヴォーリオの人間味によるところが大きいのではないかと思う。幼い頃から一緒にいたから、という理由だけで友人関係を説明するのは難しい、というより、関係性が本人たちの性質に関わりすぎていて、陽と陰だから補い合って仲良くなるとか、同類だから仲良くなるとか、そういう話ができなくなっていく。共に成長し、互いの特性が独立し切らず絡み合っていて、だから友達としているのだ。瀬央さんのベンヴォーリオはマーキューシオの悪事や企みを面白がっているけれど、そういう態度があるからマーキューシオはさらに拍車をかけて悪事を試みていくようになったのかもしれない。大人たちによって刷り込まれた悪意が、単純な殺し合いに繋がるよりは、揶揄うことやその対立を遊びに変えてしまう方がマシだという発想も私はとてもわかる。マーキューシオは自らを危険に晒すことに抵抗がないから、地獄を「楽しむ」という方向に生きる。むしろそれ以外にやりようがないから(そしてそれはマーキューシオの幼さでもあり素朴さでもある)。ベンヴォーリオはその部分の価値観を共有できているから、友達なのだ、同じ環境で生きて、同じ地獄を生きているから、「楽しむ」しかないし、それに同意している(けれど危険に晒されそうなときは友達を止めたりもする)。マーキューシオを狂人にしていないのがこのベンヴォーリオのおもしろいところで、なんか、ロミオの方がやばい人にだって見えてくる。あの環境で生きて「揶揄うのはやめろ」「そういうのは良くないと思う」みたいなことが言えるのは、だいぶとんでもない精神力で……そのことに無自覚的に見えるのもまたロミオの強烈さがあって、こんな話だったのか……と改めてびっくりするのだった。ロミオとジュリエット、二人を見ていると、ジュリエットはどこかしら激情を抱えている少女だと思うし(家庭に修羅場を持ち込むのがうますぎる)、ロミオは無垢で穏やかな青年に見える。だから、ジュリエットの激しさにロミオがのまれていくようにも感じたんだけど、ベンヴォーリオやマーキューシオがいると、むしろロミオも激情の持ち主では?と思う。こんな世界で恋に恋して、みんな自由だとまっすぐに言えるのは、だいぶおかしいことである。そして、そのおかしさが、二人の愛をロマンチックにしている。めちゃくちゃ物語の陰陽がはっきりして、キャラクターの光が影を濃くし、影が光を引き立て、A日程とてもとても面白かったです。

(かといってロミオが異質な人間として描かれているかというとそうではなくて、ちゃんと幼い青年としてヴェローナの街に等身大でいるのも面白かった。)友達という存在がいて、仲間がたくさんいて慕われている、という構図があって、彼は街に馴染んで見えているのだろう。そうしてロミオの純真さについて、マーキューシオもベンヴォーリオも深く言及しないのがいい。「恋に恋している」とはいうけれど、争いを好まないロミオの穏やかさをあまり揶揄しないのだよね(仮面舞踏会には誘うけど)。このあたりの、自分と相手で考え方が違う部分に対して、「距離をとっている感じ」「理解している感じ」のバランスがすごく友達、というより家族っぽさがあって、私はこういう演技に弱いなあ。不思議だけれど、全く性質が違うマーキューシオとベンヴォーリオがいたからこそ、ロミオがこんな純真なままで成長したんだ、と思えるのだ。二人がロミオの言葉を全否定したり、無視したりしなかったから。ジュリエットとの恋については「甘い」と告げたけれど、多分彼らは、ロミオの穏やかさに対しては「甘い」と思っていない。不器用だ、とは思っているだろうが、穏やかでいる方が茨の道だとわかっている二人なのだ。だから、ロミオはロミオのままで成長し青年になったのだろう。ロミオの穏やかさは街にとって浮いた存在なのではなくて、むしろロミオ単体の問題ではなく、三人が絡んだ問題となっている。単体では残ることが難しがったベンヴォーリオとマーキューシオの穏やかさは、ロミオの中で残っている、とも言えるのではないかな。だから彼らは、ロミオの穏やかを揶揄したりはしない。

価値観ばらばらの3人の友人関係が、セリフではなくてもっと曖昧なもので演じることを、全編で求められているのかなあ、と思った。よい友達なんだなあ、なんてことを節々で感じる3人で、だから結末が非常に生々しく苦しくなる。悲恋、では言い切れない悲劇として、後半は立ち上がってきてしまう。

ジュリエットの死をロミオに伝える時、瀬央さんのベンヴォーリオは自分の無力感よりむしろロミオが抱える痛みに共鳴していて、それはずっと長く一緒にいて、考えていることだってわかる、そういう友人の顔であったし、そうしてその顔になってしまうということが、この問題について何もしてやれないことを証明もしていて(ロミオの痛みと同化するから、痛みを救う側になれない)、とてもよかった。どれほどの絶望があるかなんて伝える前からわかっていて、それでも伝えるしかないベンヴォーリオは、その「伝える」という痛みを感じることもできないぐらい、ロミオが受ける傷に共鳴している。

友達、というものがとても強烈にあるのがA日程だった。ジュリエットと結婚なんてやめろというふたりも、結局は、傷つくのはロミオだ、とわかっているから諦めろ、と言うのだ。甘い、というのも、愛があっても大人はそれを引き裂く、とわかっているから。自分達が引き裂くわけではない。三人の仲の良さってあまり描かれていなくて、設定だけがあると感じるのだけれど、このロミオとベンヴォーリオとマーキューシオは、家族より魂の部分では繋がっていて、もはや個々を別々に捉えることのできない、そういう運命共同体のようなものを感じる。特にロミオは家族とのやり取りのシーンがないから、この三人が「家族」の枠なんだろう。こういう人と人の繋がりの気配を、一人の人の演技が作り上げているなと思うと嬉しくなる。瀬央さんのティボルトも、現地で見たいな。ていうか見る。見ます。

以下は見終わった時のメモです。

憎しみの氾濫するヴェローナにおいて10代という年齢は今の私たちが考えるよりは大人で、それは世界を狭まれていること、選択肢がないことからある「大人」なのだけれど。ベンヴォーリオは真っ当な人間であり、でも真っ当な人間は狂った街では狂うのです。異常なほど強い人間だけがまともさを維持できるのであり、争いをやめるよう促す女性の言葉より、マーキューシオの悪巧みの言葉の方が届く。なぜならいま、彼は憎しみの渦の中に生きているのであり、我を忘れずに生き延びることがまずは重要だから。当たり前のことだし、それは弱さとか狂気とかではないです。それでもロミオの自由に生きていいという言葉だって、彼には届く。それはロミオの言葉だから、というのもある、ロミオと友達であるからこそ、彼もまた渦の中にいると知っているからこそ、届く。ベンヴォーリオは、マーキューシオが殺されたことと同じくらい、ロミオが人を殺してしまったことに傷ついていた。あれは、ロミオの今後を案じてのことというより、憎しみの渦の中にいても強くあり続けたロミオが、その連鎖についに捕まってしまったこと、なによりもロミオが「人を殺した」という現実に耐えられる人ではない、とわかっていたからではないか、と思う。暴力と憎しみにある程度慣れて、それを振るうことで生き延びてきた自分達とは違って、ロミオはそこに慣れていない、耐えられない。共感はしていなくてもロミオが持っていた純真さを黙って、見守っていた友達だからこその反応だったように思うし、そんなロミオがそばにいたからこそ、暴力や憎しみに慣れても、一線を超えず、自我を失わずにベンヴォーリオは生きてきたのかもしれないなと感じた。それはたぶん、マーキューシオだってそうで、だから愛を貫けと最後に言ったのだろう。彼らにはほんとう、語り合わない言葉が多すぎる、でも、それでよくて、その語り合わなさを埋めていくように3人が持つ空気があり、本当に友達そのものの関係性があった。それが私はとても好きだなあ。


最終的に、フィナーレの話をすると、星組のフィナーレ、めちゃくちゃ色気が鋭利でキラッキラしててすごい……もはや色気が可視化されている前提で話してますけど……色気が眩しい……何事。組の中でもひとりずつそれぞれ全く個性が違うのに、集まっているとちゃんとカラーがあるのは本当に面白いです。特に色気に関しては組ごとに全然違う、星組は色気に特化したディズニー、って感じがする。何言ってんのかなわたしは。大丈夫かな?しかしそう思いましたからそう書いておきましょう。色気が盛り上がりの渦の中央にある、というか、盛り上がる場の中に潜ませる色気というより、あえて抑制された気配を感じさせる色気というより、色気そのものが舞台の軸を作っている瞬間があって、これが星組!、と思いました(私は上記どれもが好きです)。それで、ディズニーなのだと思います。夢を見せる、の夢が、色気を中心にして作られている。
男役の色気というのは、男役が男役として振る舞うことで生じると思うので、レビューやフィナーレでそれが軸になると、ザ・エンターテイメント!と強く思う。色気って例えば「隙」や「綻び」に生まれるものと語られがちなのですけれど、男役の色気って完成度が高ければ高いほど生まれるものだと感じます。舞台の人が芸を磨くために男役になる、というのはだからめっちゃ腑に落ちるし、女性が男性を女性のままで演じる、ということがまず巨大な矛盾をもたらしていて、それを徹底すればするほどズレが明確になり、でもそれが色気として現れる、ということなのだと思う。たとえば男役の赤い口紅とか、天才的に似合う人を見ると震えてしまいます、あと目元の化粧とか。今度出る某ファッション誌に宝塚の化粧について書いていて(←隙あらば宝塚の話を書く人間)、そこでも触れたのですが、宝塚の人の化粧って自分の欠点を隠すとか、そういう一方向的なものじゃなくて、自分が行きたいところに行くための化粧、「どこにだって行ける化粧」なのですよね。いろんな可能性があり、何者にだってなれる、というような。それでいてその目指す場所にどう行くべきかがいくつも試みられていて、その試みた過程も感じられるようなそういうお化粧、全ての色に線に意識があるそういうお化粧を見るのが幸せです。見ていると、化粧自体がとても好きになれる感じがします。正解が一つしかないのではなくて、むしろ無限に正解はあり、試みて試みて、していくうちにその無限はさらに増えて、可能性が膨らんでいく。そういう徹底の中に見えるものが「色気」だっていうのが最高だし、私は最強だとも思う。人の魅力というのは難しいです、隙があると色気がでるとか、完璧すぎるのはつまらないとか、そういうよくわからない説も世の中にはあるし、しかし私は無自覚な魅力が自覚的な魅力を越えるとしたらそれは人類の敗北で、美しさがとてもつまらんものになる、と思ってしまうのです。人が他者を魅了するなら、その魅了にはどこまでもその人の意識が絡んでいてほしい、そうでなければ、魅了された人は美しさを見つけながらも自分がとても孤独で、独り相撲をしていることを同時に思い知るんじゃないかと。もちろん、それを好む人もいます、美しくあるつもりのない人を美しいと思う良さもあるのだと思います。でも私は、そういう「無自覚な美しさ」に本当に興味がなくて、だから、ずっと「美しい」と他者に思うことが苦手で逃げ回ってきていました。美しい存在を美しいと思える喜びが、そう思った人間の自己満足でしかないなら寂しすぎます。けれど、宝塚には、徹底され磨き抜かれ、そして現在進行形で進化し続ける、彼女たちの「自覚」が作る美しさがあり、それは本当に心地がよく、今はとても幸福です。美しい人を美しいと思える喜びがある、美しい所作で心を簡単に掬い取られてしまうような瞬間、嬉しくなる。美しくなろうとし続ける人が美しいのです、とても当たり前なこと、でもとても信じ抜くには難しいことが、貫かれている宝塚が、私は、やはり大好きだなあ。(あと、瀬央さんの目力はとても素晴らしい……)