宝塚レビュー作品のススメ/雪組「シルクロード」と彩凪さんについて

※レビューとは宝塚の作品の一種で、お芝居ではなく音楽とダンスによって構成された舞台作品です。大作の一本ものを除き、基本は1幕芝居、2幕レビューという2部構成で上演されます。


宝塚のレビューは、精神のサウナだと思っています。お芝居とは違って、レビューはジェンヌさんが芸名のままで登場する、とも言われますし、私も「レビューは刺身」と以前書いたりしました。これ以上の素はない、というぐらいご本人の魅力が出るのがレビューであり、しかし、男役も娘役も、ただ素の自分を磨くのではなく、芸名を背負った概念としての自分を完成させていて、そこにフィクションがあるからこそ、完璧が真の意味で「完璧」でありえる。それがレビューです。生身の自分でないからこそ徹底できるものがあり、際限なく求め続けられるものがある。そうしてその非現実的な存在が、けれど舞台の上では役ではなく唯一の「自分」であり、彼らの生身としてある、ということが美しいのです。
男役は女性が男性を演じる演者、ではあるのですが、本当はそれは入り口でしかなく、性別さえ異なるものに、「自分」を自分のままで変容させていくことで、「自分はこれぐらいの人間だ」という現実的な自己認識をとっぱらい、無限の可能性を追うことに近いです。ジェンヌさんが退団される時、私は感謝しかないような気持ちになってしまいましたが、あれもたぶん彼女たちの美しさに魅了されればされるほど、その無限に全てを注いで向かい続けていた彼女たちの青春が、尊く儚く思えるからでしょう。レビューとはその煌めきごと目の前にあり、けれど、不思議なことに、個人の人間の努力や成長といった、生々しい物語性は排除されています。こんなに成長して素晴らしいね、とおもうより、「ああなんて美しいんだ!」という感動ばかりがやってくる。これは、芝居ではないが、ジェンヌの人柄をそのまま出すトーク番組でもなく、レビューという場だからこそだと思います。美しい人を美しいと思うためだけに用意された音楽と舞台なのです。美しい人を美しいと思うことがどれほど尊いことかを思い知らせてくれる場なのです。それは決して自然な流れで知らせるものではなく、いつも力技でした。「考えるな、感じろ」とありますが、レビューの間、客席は言われなくても考えませんし、五感だけの存在に成り果てます。そこまで行き着く力をレビューはもたらすのです。だから、精神のサウナだと私は思う。ほっといても勝手に第3の目が開眼しそうな、そんな場なのです。

雪組「シルクロード」現在東京宝塚劇場で上演中のレビュー作品です。
トップの望海さんが最初に一人で登場するシーンは、あまりにもその舞台が、望海さんに掌握されて見え、それだけでこの方が本当に完成された演者さんなのだと思えます。レビューでは演者が素の姿よりも素に見える、というのは、たぶん、その人が積み重ねた研鑽とか、舞台や場への理解、お客さんに対する考え方、そういう「見えないはずのもの」も全部見えてしまうからなのだろう。こういうことを書くとちょっとファン目線のようですが、そうではなく、事実としてそれをわからせてくるようなところがあります。たとえば、レビューは芝居と違って演者の目には常に観客が見えている想定で進みます。芝居の間は目が合ってもそれはそれで話が進みますが、レビューの間は、むしろ舞台の上の方は常に誰かと目が合っているような状態で歌い、踊ります。特にトップの望海さんは、多くの観客が彼女を観ているからこそ、でもありますが、全ての視線に対して眼差しで答え続けている。こちらが一方的に観ている、なんていうふうには絶対に思わせないし、目が合うことを確かめて、時には喜んでいるような、そんな目をこちらに見せてくる。第一幕が芝居だと、余計にこの目の違いに気付かされます。そして、目が合った時の「肯定された感じ」が、上演中、望海さんの視界に入った全ての人に訪れているのだ、という実感が、彼女の舞台への意志を強く感じさせます。つねにどんなときも「見つめ返す」ための目をしていて、全ての視線に答え続けている。歌はとにかく素晴らしいし、私は望海さんの最初の盗賊の姿が、男役としての美しさそのもので最高だと思うのですけれど(ターバン姿って、アイメイクや口紅がとてもはっきり見えるので、男役のあの男と女を超越した感じが引き立ちますね)、そうした芸事の積み重ねだけでなく、舞台をどのように愛してきて、男役というものをどのように貫き、育ててきたか、が、その目に現れていて素晴らしいのです。レビューが生身のその人が現れる場所だというのなら、このレビューは望海さんの男役としての完成を、技術だけでなく人生における作品として、人という器として、隅々まで教えてくれるものなのだなあと思います。

それから私は彩凪翔さんがとても好きで、シルクロードは彩凪さんがたくさん出てくるのでとても嬉しいし、全時間美しくて、その美しさが「なぜ美しいのか」を考えることができなくなるぐらい言語を絶する美しさであることが、たまらなく好きです。きっと美しいということよりも、この「言語を絶する」感がたまらないのです。美しい人が男役になった、というだけでなく、男役として磨き抜いたからこそ、舞台で美しさが最も表出する人となったのだ、と実感できるのが彩凪さんです。こんなふうに書いても何一つ伝わらない気がしていますが、しかしシルクロードのキャラバン隊で出てくる彩凪さんは、男なのか女なのかということを超えたところ、もっと現代でも過去でもなく、現実でも幻でもなく、ただ今見ている瞬間のその姿だけが全てだと感じられるような、そういうあり方をしています。今回は緑のアイシャドウが美しく、赤いルージュが美しく、それは確かに見えていたのに、終わってしまうと幻を見たような、けれど確かに目の中に見惚れた記憶が残っているような、そんな華があるのです。舞台を見た後の、心の在り方としてこんな幸せなことはありません。
舞台は虚構です、役や芸名は現実ではないし、性別さえ舞台の上では変わっています。でもそれは虚しいことではありません、夢は夢であるから良い、ということもあります。現実にしたい、と欲するものだけが「夢」なのではなく、もっと現実にばかり拘る自分を解放してしまうような、現実離れした「夢」に五感を振り回されたいと願うこともあります。現実だけを認識するためだけに五感があるだなんて、あまりにもくだらないことです。さまざまなことを感じ取れる、心や肉体を持つ喜びは、夢を前にした時ほど現れるのかもしれない。生きていることの生々しい喜びにつながるのかもしれません。彩凪さんの美しさは、そうしたところの「夢」に属していて、そこにいたのに、幻のように感じるし、でも決して、気のせいだったとは思わせない、心に痕跡を残していきます。この人の美しさは、ただ美しいから、というわけではなくて、一つ一つの視線の運び方や、見せ方によるものが大きくて、それが、見ている人の心の中に花を咲かせていくようなのです。(ただのファンレターみたいになってきましたが……)その人の存在そのものが作品のように完成をして、現実と幻のはざまにさえ辿り着き、けれどそれはその人の手によって成し遂げられた「完成」だからこそ、そこにいる、生きている人として在る、とも強く印象付け、心臓を鷲掴みにしていきます。遠くにある、無関係な美しさではなくて、自らが客席に座り、彼女を見つけない限り、その幻には出会えなかったという事実が、一つの生の刺激として胸を撃つのです。レビューの間って「私は生きている!」と実感することが多いんですが、これもその辺りが関係していそうです。

シルクロードはとても好きなレビュー作品ですが、それは彩凪さんが主に着ているキャラバン隊の衣装の存在の影響が大きいかもしれません。この衣装はカジュアルめで、でもそれを彩凪さんが着ると、カジュアルとノーブルのどちらでもないところにスイっと入り込んでしまうような良さがあります。もう私は褒めることしかしないマシンと化していますが……時空を超えて全てを知っているようなそういう人物の目をしながら(実際そういう設定なのです)、客席をただ個人として愛おしく見ているような目にも見える。舞台に立つ人として完成しきったからこそ、個人の中にある「舞台に立つ」ことへの意思が見えてくるのは、やはりレビューの独特の良さだと思います。それが「完璧」さを崩すものではなく、むしろ「完璧」の象徴となっている。ここまで書いてどこまで「ファン目線」ではなく事実であると伝わっているのかは分かりませんが、芝居とレビューの違いは何より「こちらを見る」ことにあると私は思っていて(芝居にも見るタイミングはあるけれど、見つめ合うことが芝居に影響を与えることはない)、客席を演者さんが進んで見る、それをコミュニケーションと捉えている、というのは、露骨にわかってしまうのですよね。だから、どうやっても「演じる」という行為を剥いでしまう、けれど、そこにいるのは素のその人ではなく、芸名のその人で、概念としての男役と娘役で、だから、芸名の中で積み上げてきたもの、お客さんの前で見せてきたもの考えてきたことだけが、「自分」として現れる。見せるためにいる自分、しか、そのときの「自分」にはなく、だからこそ、容赦のないほどの美しさや気高さが貫かれ、人にはありえないような完成に行き着く。だから、こちらは「美しい」としか言えなくなる、消費になんてならない「美しい」という形容詞が頭の中を占めてしまう、こんな幸せなことはないと思います。

つらつら書き過ぎてしまいますね。

雪組の皆さんが、最後まで走り抜けられますように。