ミュージカルゴシック『ポーの一族』について

『ポーの一族』、先月観劇できてからずっと棘が抜けないで身体の中に残っています。不死身というテーマは私にとって20代前半に最も囚われたテーマでもあり、それは萩尾先生の『ポーの一族』による影響が大きかったと思うのです。

エドガーは少年のうちに吸血鬼になってしまって、だから何年も同じ土地に住み続けることができず(成長しないので怪しまれる)、より刹那的な関わりしか人と築けなくなってしまって、永遠の時を生きることの孤独だけでなく、刹那という孤独さえこの作品は描いてしまっている。

不死としての孤独、成長しない子供としての孤独は、一致するようでそれぞれが枝分かれして存在し、そしてこの二つがあるからこそエドガーは、人でない存在でありながら、日々を生きていく人間にとって、無視できないものであり続けるのかもしれない。いつか必ず別れが来るという悲しみも、他者とはわかり合えないが一人きりは寂しすぎるという痛みも、どれもが、見覚えがあるものだ。けれどこの作品ではそれが、死や成長を言い訳にできないところまで描かれていくから、だから恐ろしく美しいのではないか。見覚えがある痛みが、人あらざる姿で現れる、ということ。それを、美しいと人は思える。舞台でやるというのは、この生々しさをさらに研ぎ澄ますということなのだろう、と観る前、考えていました。

明日海さんがエドガーとしてそこにいることで、この美しさには五感がうずまき、体験として不死が現れていく。私が20代の頃不死身に興味があったのは、それが強烈な孤独をもたらし、でもその孤独が、他者に同情されるものというより、生きる人にとっては「羨む」ものですらある、ということです。もちろん化け物として恐れられることはありますが、人は死をとてつもなく恐れるが、それを克服したはずの存在もまた反転するだけで痛みや恐怖から逃れらない、という構図に興味がありました。(若干話はそれますが)私は幼少期から死がとても怖く、当たり前に、みんな死なないでほしい、と思っていました。死を否定することは生を否定することにもつながるのですが、死を受け入れることは死が忌み嫌われるこの世の中では、とても難しいことだと思います。けれど、そうした憧れの対象としての不死は、あくまで死からの逃避でしかなく、不死そのものではないのです。不死そのものに触れてしまった時、むしろ、自分がそれを恐れる本当の理由、つまり手放したくない生や、変化に目を向けることになる。舞台で不死という概念が現れることで、ここがより顕著だと思いました。

そうして、夢咲さんのシーラ、綺咲さんのメリーベルの、恐ろしくなるような儚い美しさが、本当に萩尾先生の漫画を読んだ時の、ペンで描かれたあの線を思い出し、二次元や三次元という分け方がくだらなくなるような、描かれていく瞬間を今目撃しているような心地がしました。いやほんま娘役さんってすごいんやな……ということを思い知りました。わかっていたつもりでしたが……。美しい、とは「人が夢見ているもの」であり、現実にそれを降ろしていくのではなく、現実に風穴を開けるようにして、その美しさを非現実のまま見せていく。いや、この『ポーの一族』では、作品そのものがそういうあり方をしていたようにも思うのです。