雪組fff/彩凪翔さんのゲーテについて。

才能を持つ人間、ただ一人が世界を変えうる時代だった。今はそうはいかないだろう、技術が進歩し、行き交う情報が増えた今では、一人の人間が世界を塗り替えてしまうことは難しい。激動のあの時代において、人間たちが変わろうとしたあの時代において、才能によって世界を変えようとした個々の人間の物語。それを示すプロローグは、雄々しく、大砲とともに現れる彼らは才能こそが、巨大な武器であったことを証明するようです。

この物語について、私はゲーテという人の視点から書きたいと強く願っています(彩凪さんのゲーテが素晴らしく、美しく、そして何よりわたしは彩凪さんがとても好きなので……)。

彩凪さんの演じるゲーテは、ベートーベンとナポレオンの観測者として描かれますが、ある意味では全てを知っている人間であり、しかし二人や人類に答えを「教える」「授ける」ことのできない人間でもあります。これは芸術や才能のもどかしさを、表すものでもあると思う。切り開く人間のもどかしさそのものでもある。

ベートーベンとナポレオンの二人は「人間の勝利」を目指す、と語るが、ゲーテは「勝つ。だが、何に?」と問う。それはゲーテが彼らの対峙するものがなんなのか、わからないからではなく、わかるからこそ、それに「勝つ」ために我々はいるわけではないと思っているのだ。二人が対峙しているのは、「人間の不幸」だ。ゲーテは、ウェルテルの中で、失恋によって自殺まで考える若者を描いた。そしてそれは自らをモデルとした作品だ。ウェルテルは自殺する。では、なぜゲーテは生きている?ウェルテルを書き上げ、そして彼はまだ、現世にいる。彼が自らの作品を朗読するシーンは、死が不幸から解き放たれる手段であることを表しながらも、彼はそれを選ばなかったこと、彼はその「甘美な自由感情」に抗ったことを語ることなく示している。
悩み苦しみにおいて答えはないです、私は以前萩尾望都先生との対談で、自らの問題を物語に昇華することで、その問題から距離を置くことが出来た、という話を聞いた。ウェルテルは最後に自殺をする。自殺を免れるための答えに、物語が到達したわけではない。けれど彼は、書くことで、受け入れたのではないか。不幸であるという人生を。不幸を打ち破る答えはなく、不幸に勝つことはできない。「だが、何に?」は、そこに裏打ちされた言葉だったんじゃないかな。

ベートーベンは理不尽な親を持ち、幼少期から不幸だった。けれど、彼は死んでしまいたいと思っても、世界を憎むことはなかった。あくまで自分を痛めつける人間だけを恨んだ。彼には手を差しだす人も現れる。死にたいとさえ思った彼は、その感情が解決したわけではないが、優しい人々によって生き延びた。でも、まだ、本当は生を選んではいない。希死念慮に別れを告げたゲーテとは、全く異なった状態だと思う。

ベートーベンは人に救われ、だから、「みんなの幸せ」を願う。みんなの幸せはなんだろう、と考え続け、そのためにあるのがこの物語における「勉強」だろうと思う。才能がきみの人生を照らす、とゲルハルトは言う。才能がどの方角を照らすべきか、それを支えるのは勉学として描写される。(めちゃくちゃこの描き方好きです、上田先生。)自らの美学や満足を超えたところに作品を、高いところまで研ぎ澄ますために、音楽は、誰もが耳にできる音の集合体だ。文学は、誰もが使うことができる単語の集合体だ。それらを研ぎ澄まそうとする時、自我と世界の境界が薄れていき、世界そのものが主語となるような、そんな芸術のひらめきがある。勉学はそれを支える。高いところへ、というのは、世界を俯瞰できる、ということも指す。激動の時代、価値観が絶え間なく揺さぶられ続けたあの時代において、世の中を俯瞰することすら本当はとても難しかっただろう。ゲルハルトは革命によって「人間の時代」がくる、と言った。しかし、このことをあの時代のすべての人が理解していたわけではないだろう。自分たちを飢えさせる絶対王政を倒してやった、ぐらいの気持ちでいた人も多かったはずで、それは、ナポレオンの敗北の際の市民の反応からしてそうだった。幸福になりたいとおもう。しかしどうすれば幸福なのかはわからない。血が出ているところに応急処置をして、それで済ますような、そんなものしか多くの人はできない。そのなかで、勉学は、怪我をする原因まで突き詰めようとするものだ。革命の意味を端的に理解し、そして音楽の革命までも提案するゲルハルトはまさに「勉学の人」であり、それはベートーベンに多大な影響を与えた。

この勉学があったからこそ、ベートーベンは「みんなの幸せ」という漠然なものを、漠然なままにせず、具体的に追求しようとし続けられた。諦めず、達観する素振りを見せずに冷笑的になどならず、いつまでも愚直に正直にあり続けた。しかしそれは、政治的な態度を取り続けることにも等しい。そしてゲーテは、その彼の勉学に下敷きされた態度を、非難したわけではないと思います。

ゲーテにとっても、「人々の幸福」は重要な問いだろう。そして彼は作家だ。ペンを武器とする人間だ。ナポレオンが皇帝となった時、比較されるようにゲーテが現れる。彼は、言葉がもたらすものを信じている。武力よりもペンが勝る瞬間を知っている。言葉は時を超える。自らが死んだ後にも届く人がいる。
彼が、芸術は政治からも解き離れた純粋なものであるべきだ、というのはそのためだ。どのような時代になろうともその時代に生きる人の源となるような、そんな作品を作ろうとしている。そうして、どんな時代であろうともそこに生きる人々の精神が成熟していればきっと良い方向にいく。彼は信じることができるし、それはたぶん、一度乗り越えた人だから、だと思う。

ナポレオンとゲーテの会話において、人々の精神はまだ未成熟で、言葉でナポレオンの理想を伝えても理解されない、という話が出てきます。ナポレオンはだから武力でまず結果を見せるのだ、と語るけれど、ゲーテは言葉と精神で成し遂げるべきだと告げていた。これは時間を越えることのできない天才と、時間を越えることのできる天才の対峙だなあ、って思います。武力は、ナポレオンが去れば失われる。しかし文学は失われず、いつの日か届くことができる。ナポレオンはこの作品の中で、まさしく早すぎた天才で、彼は作品を残せたベートーベン以上に不幸であったと私は思います。めちゃくちゃ悲しいです、この作品の中で、一番悲しい人物だなって思う。彼は才能を持ち、また、勉学を愛し、自らのなすべきことが分かっていながらも、それを自分の人生で間に合わすことができなかった。

最後のベートーベンとナポレオンの語り合いにおいて、ナポレオンは思いついたら絶対にやりたい性質なのだ、と語った。それによって人々が幸福になるならまあいいが、それが第一の目的であるわけではないと。けれどどんな世界が、より調和の取れたものなのか。「調和」とは彼にとってなんなのか。その価値基準を司るのは、彼のこれまでの勉学によるものだ。外を見ず、自己しか見えていなければ、彼はまた違う選択をとっただろう。彼は、人々の幸福を望んだわけではない、というけれど、勉学を積み重ね、人々を知り、世界を俯瞰した時、世界における「調和」は幸福の方へ傾く。全てを荒廃させるのではなく、全てをそこそこに幸福にすることこそが、調和だ、と感じる彼には、人々の一つ一つの顔が見えている。それは、勉学によってこそだと感じるのです。


ゲーテが、ベートーベンに言った「本当に歌うべきこと」は、自分自身の不幸を乗り越えること、ではないのかと思います。それはゲーテが行ってきたことでもある。彼は自分の自殺をもとめるほどの絶望を作品にすることで乗り越えた。そしてその作品は、多くのひとを救っている。たとえその結末が自殺そのものであっても、一つの悲しみや苦しみが作品として現れることで救われる人もいるのだ。ゲーテが書くことで生き延びたように、それを読むことで生き延びる人がいる。
他者を救いたいなら、まずは自分を救わなくてはならない。

ナポレオンは「人生は不幸だ」と言った。彼ほどに「不幸だ」と言える人もいないだろう、才能があるのにそれによって完成させることは叶わない。それでもその才能とともに生きるしかない。彼は、しかしだからこそ、自分の不幸を受け入れた。ゲーテと話した時はまだそのことに踏ん切りがついていなかったのかもしれないが、ロシアでベートーベンに会ったあのとき、彼は全てを受け入れていた。
それは、不幸の象徴である「謎の女」に、形見として、自らの才能の象徴である銃を渡していることから明らかなんじゃないかって思う。彼は、彼女を愛そうとしていたし、ともにいてくれたことに感謝している。謎の女とナポレオンにはまた別の愛の物語があり、2番手としてトップ娘役を見つめるその宝塚的なあり方を、こうした「あえて描かない」ことで見せるのがとてつもなくオシャレで、「すてき〜」ってなりました(急なゆるゆる表現)。実は、三角関係なのですね。そして謎の女と三角関係となり得た、という事実こそが、ベートーベンとナポレオンの二人を「友達」と呼ぶ理由でもあるの、ですね。美しい〜。ここの宝塚的な文脈をハックしたやりかた、新しいのに古典的にも見え、大変大変よかったです。

ベートーベンは自らの不幸に対しては無頓着だ。なぜ、こんな親の元に生まれたのか、なぜ、女に裏切られるのか。なぜ、耳が聞こえなくなるのか。苦しみはするが、その原因をみつけだし、それを呪うことはしない。好きだった女は裏切られても、憎めない。死にたいとは思っても、生まれたことそのものを否定しない。なぜ、生まれたのだろうか、と自分のそもそもの命を疑問に思ったのは、ロールへンが死んだ時。彼女が、自分をずっと心配していたことは、ゲルハルトに言われなくても(あの言葉が聞こえていてもいなくても)わかっていただろう。改めてその事実が、彼にあの瞬間、のしかかってきただろう。自らの不幸に無頓着だからこそ、愛してくれる人々に気づかない。ベートーベンはロールへンがいなくなったことで絶望したのではなく、自分が、彼女と会わなかったこと、それによって彼女を心配させ、彼女の不幸の一部として自分の不義があったことに気づき、絶望したのではないか。取り返しがつかないことをした。みんなを救うどころか、自分を救ってくれた人まで不幸にした、という事実がベートーベンを追い詰めたのではないか、と感じる。彼は最後まで自らの不幸より、他者の不幸によって絶望をするのです。そうしてやっと、自らはそしてロールヘンは、みんなは、どうして生まれたのか、と、生まれたそのこと自体を否定し始める。
未来を否定し、不幸から逃れるために行うのがウェルテルに象徴される「自殺」であるとするなら、この絶望は、自らの生そのものを、これまでも含めて否定するものだ。

この戯曲には素晴らしい場面が数多あるけれど何よりもその威力を表すのはラストの「ロールヘンの最後の手紙を送ります!」というゲルハルトの言葉から始まるあのシーンだと思います。あのロールヘンの手紙があそこに挟まること、その意味を即座に理解することは難しいけれど、理解よりも早く、私は泣いていたし、あのシーンはほんとうに「全て」を表している。それは、精神の成熟、人類がいつかきっと、その時を迎えると言う予感の全てです。

「いつも全身全霊で働く、私たちの英雄へ!」

ロールヘンは、ベートーヴェンが作った音楽を聞き分けられる。でも、彼がしようとしている仕事の全てを理解はできない、彼の孤独や健康の方が彼女にとっては心配で、けれど彼女は全てが分からなくても、彼が利己的ではなく、なにかのため、誰かのために働こうとしていることがわかっている。ナポレオンの畑を耕したという行動の意味がロールヘンには完璧には分からないだろう、ヨーロッパ統一の話をもし聞いても、うまく返答できないだろう。でもロールヘンは、ナポレオンが畑を耕したというその話を、ベートーヴェンに伝えたい、と思った。ベートーベンのことを、ロールヘンは「英雄」と呼ぶ。どれほど心配しても、音楽よりもあなたのことが心配だと語っても、それでも彼女は彼が英雄だと知っている。それが、なにより美しくてこんなの、こんなの才能があるものとないものが同時代を生きることのそれ自体の肯定やん、残酷なはずのことを、なんて美しい希望に切り替えてしまうの。才能を持つ人々が見る理想を、才能を持たない人類が正しく理解することは難しい。けれど、それでも、信じることはできるのかもしれない。なぜなら今でさえ、全てを知るわけではないまま、何かを感じ取れる人が天才達のそばにいる。彼らの才能がもたらす何かを受け取ろうと、手を伸ばせる人がいる。全てを把握することよりもっと大切な「理解」がここにはあって、だから、才能が孤独になることはない。

このシーンがここにやってきて、そうして物語が終わっていくことにとんでもないパワーを感じる。なぜならここが一番、文脈として難しく、離れ業で、でもその不明さが、ロールヘンが才能に手を伸ばせるそのことと同じ、人類の可能性を表していて。泣いてしまえる喜び。ロールヘンは、なぜこれを伝えようとしたのか、本人だってちゃんとは説明できないのかもしれない。でも、それでも肌が、内臓が「伝えたい」と思った。それは、簡単に説明できるような「理解」とはかけ離れたもの、人の才能を信じ、ともに進化していこうとする、人の本能のようなもの、善性のようなもの、才能がもたらすものがなんなのか分からなくても、全貌なんて見えなくても、天才を、英雄と人は呼べるのだ。信じられるのだ。それこそが、人の学びの明るさ、人類の未来を照らす炎を感じるんです。なんて、気高い戯曲だろう。

雄々しく始まったあのプロローグの、一人の魂が孤独なままで世界を塗り替えようとするあの力強さと、このロールヘンの手紙は対となっている。天才たちの孤独が、ここで人類そのものの可能性によって包み込まれていくんです。私は、この作品をこの時代にやることに猛烈な意味を感じるよ。そうして信じさせる才能そのものが、肌でわかる歌声によって描かれているのも素晴らしくて、わからないはずの言葉が、わかってしまえる。気高いのに豪腕すぎるこの脚本は、まさに望海さんのためのもの、という気がした。絶望そのものの美しさもそうだけど、何か巨大な価値観をひっくり返す荒技が脚本にはあって、それは普通ならほとんどの人は困惑する強烈さを放つのに、美しい歌声で、それを押し通している。美しい人々によって描き切って、押し通している。ここで宝塚の生徒さんたちの美しさと一貫性によるパワーを借りるの、めちゃくちゃかっこいい、ロックすぎる。脚本が宝塚に対して、ロックすぎるよ……。

とても大切な場所に大きな余白を作って、けれどそれを飛び越えて、その余白をそのまま希望や未来に変えられる、そういう力を感じる演目でした。望海さんがいることで完成するような、そんな脚本だと思います。その人にしかできない役、というのはありますが、演目自体がそうであることが宝塚のトップスターの退団公演として、本当に、本当に最高のものだと思います。望海さんの「これまで」を出し切るだけでなく、美しい「これから」を、強く予感させるもので、そんな作品をここで見られてよかったです。決して難しい話ではないのですが、語ることや説明することでは証明できないもの、それこそ物語がある理由でもあるけれど、希望や、可能性というものを、証明するために、そのときのエネルギーを、望海さんというトップスター、そして退団公演という場、ファンの思いを巻き込んで作り上げていると思います。こういうのを観ると本当に、舞台とは生であり、現場で感じるべきだ、と思うし、それをやり遂げてしまう望海さん、真彩さん、雪組の皆さん、そして上田先生、素晴らしいです……。退団という、とても寂しい出来事のその源にある巨大な愛情や未来や過去が全部作品になっていて、宝塚という文化の熱がこもって、見れて、本当に良かったなあ。もうなんか気持ちが忙しいです。話したいことはたくさんあります。


彩凪さんのゲーテ。
ゲーテの作品を読んだナポレオンやベートーベンは、「本物の人間だ」とゲーテのことを語った。だからこそ彼に意見を求めたし、自らへの理解がそこにはあると期待していた。けれど、ゲーテは全てを解決できた人ではなくて、作品を書いて、自らの問題を乗り越えて今がある「人間」だ。人間として全身全霊で創作に向かっていく、誰よりも人間であることに妥協しない人物だ。神ではないし、完璧ではない。答えをまだ彼は持たない、彼はだからまだ書き続けている。そして、だからこそ作品に救われる人がいる。たとえ悲劇でも、悲しみが悲劇として完成するなら、読者もまた自らの悲しみとの関わり方を変えていけるだろう。どうやってもそれを解決せねばならないと思い詰めることはなくなるだろう。遠くで別の悲しみが悲劇として完結する。そのとき、どこかで諦めがつくのかもしれない。糸口などないと。解決することがないと気づくとき、それはむしろ、救いになることもあるだろう。

ひとが、別の誰かにできることはそれぐらいであるのかもしれない。あなたの悲しみを消すことはできないし、あなたがそれをどうするか決めていくしかない。という、そのことを寂しいと思うのか、冷たいと思うのか。一つの作品を完成させたゲーテは、冷たくも寂しくもなく、むしろ誰よりも自らの流れる血のような痛みを見せて、そうして沈黙している。人が自らの力で、答えを出すことを信じる人であると思う。それこそ、最後のあのロールヘンが見せる希望の兆しを知っている人だと思う。彼らが望むことを言わないゲーテは、だから、そうした意味で「本当の人間」だ。そしてそれによって関係が決裂することが私は悲しく、でもたまらなく好きだ。

彼は答えを差し出さない、答えなど一言で言えるような答えなどないことを知っている。すべてがわかるとしても、そのわかるという事実が相手にとって大して意味も持たないこともわかっている。だから、聞かれたら答えるけれど、たとえば互いの理想を共有したり、もしくは思想について語り合うことで極めていこうとする素振りを見せない。「真実しか態度に出さない人だ」と、貴族にお辞儀をしないベートーヴェンに言うように、彼もまた「人は皆平等」と思っているけれど、でもそれをどう扱うかは人それぞれの問題だと捉えている。彼はこういう点でとても孤独に描かれているし、でも、その孤独が、乗り越えた先にある、完璧でも正解でもない人生を生きる人そのもので、頼もしくさえ見える。彼は一つの苦しみは乗り越えたけれど、それに対する答えは見つけていない。それは痛みや苦しみにもがきそこから脱しようとするようなものとは違っていて、もっと耐え続けるような、自分がやるべきことがわかってしまった人、そしてそれ自体には疑問を持つような甘えはもはや許されていない人の、貫いていくしかない作家人生があり、その巨大な炎、消すことも許されないようなそうしたものに、体を委ねている人の孤独を感じます。そのゲーテの美しさよ、永遠と続くような美しさよ。すべてを理解するような言葉を述べ、それでいて沈黙を貫くゲーテの存在。それを決して「人を超えたもの」としてではなく、成熟、培ってきたものの末にある姿だとして演じる彩凪さんは素晴らしかった、美しかったです。

美しかったです!!!!

もうめっちゃきれい、ゲーテ。もうどうしたらええんやろ。これは、なんなの?男とか女とか関係ない領域にきていらっしゃらない?美しさで性別の壁を超えてしまった、それがしかも成熟した人物として現れるとか、私はこのゲーテがとても好きで、なんかもう、よくわかんない、職業が似てるからこんなに好きなのか?彩凪さんだから?いやもうこんな美しい人がいるんですね……。こんなに美しくても「人」そのものの美しさがずっと真ん中にあって、本当に道を極めた人の美しさですよね……。

ゲーテは不用意な発言をしない人で、質問には答えても自らの思想をあまり強く主張しない。だからどうしても表情や見た目が雄弁に見えてしまう、はずなのに、そこに決して余分な情報をもたらさず、むしろ内面にあるものが強烈に見えた気がして、叫びそう。あのプロローグで踊るゲーテは、本編の物静かなゲーテと、運動量(運動量?)が全く異なるのに、でも本質的に同じだ!ってめちゃくちゃ感じるんですよ。あれすごくないですか?あんな荒ぶることが本編にないゲーテが、あの荒々しいダンスのところで、むしろゲーテらしさを感じるってなに。なんだろう。ゲーテの「静」が単なる、「静」ではないもっと荒々しいものとして、本編で描かれているからではないかと思う。めちゃくちゃ美しいけど、彩凪さんは「美しい人」役ではなくて(文豪ゲーテなので外見について全く言及されない)、ひたすら美しさが役の外見のためではなくて、役の内面のために100%力を発揮していて、もーそれがすごいんだよー、なんなんですかーもー、それに圧倒される。なんでこんな綺麗なんだろうって途中で不思議に思ってしまいました。彩凪さんは女性的な美しさがすごくある人なのに、男役をやっているとき、100%それが男役として輝いているのですよね。ゲーテを見ていて、より強くそう思った。最も美しくあろうとしたときに、結果的に男役としてそこにいた、というような、自然さと完成度の同居があって、美しさが極まっているのに人間らしくて、人間らしいって言っても、見たくない「人間らしさ」はそこにはなくて、完全に透き通っているのですけど。私は、彩凪さんのそういうところがとても好きなのだと思います。あの黒いリボンとか、なんかもうすごい。あれがあのゲーテの、強さの一部と見えるのもすごい。もとからあるもの、何も捨て去っておらず隠しておらず、全てがその場のために輝いて、役を内側から構築していくような。そんな美しさです。

美しい人、というのは、見ている人(「自分は美しくない」と思い込んでいる人)のコンプレックスを刺激したりすることもあるのかもしれないと、時に思うのですが、彩凪さんの美しさはむしろそういうことから解放する。簡単に世の中は「内面の美しさ」とか言いますが、それは建前では?と思ってしまうようなそういう隙だらけの世界とは違って、心の底から内側にある美しさというものを信じてしまえる。自分も美しくありたいと願うことがとても自然で、「自分なんかが」と思うようなことはない。そういう、美しくありたいと思えることの喜びそのものをその人は、くれるんです。それは、宝塚そのものの話でもあるのですが、彩凪さん、今回の彩凪さんは、とにかくその象徴のような美しいあり方で、途中で泣いてしまった、もうなんかあかんかったわ。女も男も美しいも美しくないも、私には関係なくて、わたしは美しくありたい、それだけ、って思えた。思える、そんな、すごく、うれしい思い出になった。

ゲーテ。成熟した、運命にあらがうのではなく、作家として魂を全て捧げることを完全に受け入れた(というかそうならざるを得ない)ゲーテを、彩凪さんが演じるのは本当に最高で、それは、彩凪さんの美しさはとても近いところにあるというか、真っ直ぐに培って、そうして完成した人に相応しい役だと思うからです。男性でも女性でもあるところまで、美しさを完成させること。苦しみを乗り越えた後の人物としての一面、絶対的な答えを人にもたらすことはできないどこまでも「人間」である一面を、どちらも研ぎ澄ましたゲーテという役。彩凪さんの美しさで説得力が強烈に増して、もうなにがなにやら、もう私は……一介の詩人としてこのゲーテを見られて幸福にも程がある、と思っております……。
また、美しさが若々しさや苦悩ではなくて、成熟として結実する、そしてその成熟が単なる「成功」ではなくまた別の孤独として描かれることも個人的に惹かれる点で、綺麗と言うのは刹那的なものであるはずなのに、どうしようもなく永遠にそこにあると、彩凪さんのゲーテを見ていると信じられる。この、美しさの強度は本当に男役としての完成なんだなあって、思います。

宝塚の美しさは、自らの「女とは男とは」とかいうものを全て、とんでもない美しい鐘の音で破壊してくれるような、そんな開放感があります。それは、この物語にある、才能そのものに出会い、その全貌が理解できなくてもその眩しさに手を伸ばせる、数多の人々の本能にも近いと思います。美しくて、あまりにも美しくて、どうしてか自分のことさえ誇りに思える。特別に彩凪さんが綺麗なのに、人間そのものもまた綺麗だなって感じられる、それは、彩凪さんの美しさが偶然のものではなくて、一つ一つご本人の意識と研鑽によってあるものだとわかるかもしれません。いや……にしたって綺麗すぎるやん、なんでそんな、そんな綺麗なのか……。なにもかもが奇跡のようなのにどこまでもそこにいて、一つ一つがその人の意識によるものだとわかる。極めて人間であり、本物の人間。この喜びって、めちゃくちゃに舞台そのものの美しさにつながると思うんです。ああ、すごい、すごいな、もう私は全てが空っぽになり、全てが満たされました!(←もう意味不明だと思うけどそう思ったから書いちゃお!)ありがとうございます!!!

このままシルクロードの話をすると大長文になりかねないので今回はここで終わりにします。雪組fff素晴らしかった!彩凪さん、素晴らしいゲーテをありがとうございます。ファンになれてよかったです。あなたは、半端なくきれいです。本当の意味で、舞台から放たれる美しさとして、完璧です。千秋楽おめでとうございます!!!!大千穐楽まで雪組の皆さんが走り抜けられますように!


余談 


Über allen Gipfeln
Ist Ruh,
In allen Wipfeln
Spürest du
Kaum einen Hauch;
Die Vögelein schweigen im Walde.
Warte nur, balde
Ruhest du auch.


  旅人の夜の詩

この世の山は、今、沈黙し
この世の梢には
吐息ほどの風もなく
森では、鳥たちの歌声がやむ
待っていて
すぐに、あなたにもやってくる
安らかな、その時

(ゲーテ 最果タヒ訳)


荒ぶりすぎてゲーテの詩を訳してしまいました(仕事をしろ)(いやむしろこれは本業では)。短い詩はどうしても原文の単語の持つ複数の意味のぶれみたいなものが、訳によって消えてしまうので難しいですね。Ruhは静寂でもあり、穏やかさや安らぎのようなものでもあります。ここを「憩い」と訳されているのもよく見るのですが、死が背後にある詩ではあるのもあり、沈黙としました。あと最後のところは永眠する方への「安らかに」という言い方に合わせたいのと、死を意味するが決して明文化しないこの詩のスタイルを尊重し、なおかつ日本語は遠回しがデフォでもあるので、より遠回しにと「憩い」や「安らぎ」といった直接的な名詞ではなく、「安らかな」という形容詞の形を選びました。冒頭は「すべての山」とか「すべての梢」っていうのが直訳だと思うんですけれど、すべてっていうのもなんかこのテンションの詩だと違う気がして「この世の」としています。多分、現代の文脈では「すべて」がそこまで重い意味を持たないからだとおもいます。グーグルアースもなく、地球の遠い国の絶景を簡単に見ることも叶わなかった時代の人の「全て」に、いまの「すべて」は追いつかないわ。
ちなみにこの「あなた」は、だれかへの呼びかけではなく、詩の主体「私」が、自分自身に呼びかけているものだと思います。彩凪さんのゲーテにすごく合う詩で、訳しました。ゲーテにこの訳を見せてワクワクした顔で感想を聞きたい。そしてダメ出しされたい。(もう何を言ってんだろ私)

それでは!