宙組「夢現の先に」感想


「夢現の先に」千秋楽おめでとうございます。

 目を見て「ありがとう」と言うことは大事!と教えられ、背中を押された僕(アベル)が、目を見て「ありがとう」と「言われる」までの物語。

 この作品は「言わないこと」の選択が本当によくて、希望のあるセリフがたくさん語られるけど、でもどれも良く聞くと「希望です」という顔をしていない。言われたその人にとって救いなだけで、底抜けの明るい希望なんて誰も投げかけていないのではないかと思う。
 父親の死に間に合わなかった過去を持ち、それを10年経った今でも引きずる自分を恥じるアベルに、エマが言う言葉も、いつまでも忘れることなんてできないし、いつまでも傷は塞がらないはずだ、というもので(記憶違いがあったらすみません)。そう言ってくれる人がいることはアベルにとってきっと救いで、でも、言葉そのものはとても絶望的なものでもある。お話としては柔らかで希望を持たせる万人のための作品だけれど、実はうわべの都合のいい希望はなくて、人生はうまくいかないし、理不尽な悲しみに襲われることもあるし、不幸があれば幸運もあるみたいなこともなく、辛さの方が多いままの人生も当たり前にあるんだと示しているように思う。アベルにとって父の死に間に合わなかったことはエマに出会えたことや、バルウィンに出会えたことで埋まるものではないし、彼の不幸は不幸のままで、それでも生きていくしかない、そしてそれ以外のところで幸せな時間もあるし、楽しいこともある。人生はそもそもそんなものだし、そういうところを伏せて、大きな希望を描いたり、それこそ夢を見せたりすることがない物語だ。見終わった後は「何もかもがうまくいった」ように見えるけど、実は何にも「何もかもがうまくいっ」てはいなくて、ハッピーなんて本当はそんなに描かれてないのにハッピーエンドに見えるのがこの作品の綺麗なところだなぁ。その容赦のなさがあるのに、砂糖菓子みたいに優しい。この優しさは多分、容赦のなさを作品のチャームポイントとしていないからだろう、人の人生を描く上での当たり前の礼儀のようにあるからこそ、その冷静さが強調されず、むしろそれでもハッピーを描くことの優しさがずっと染み込んでくるんだろうな。

 バルウィンが入院したのと、アベルの父親が死んだ時期は同じ10年前だけど、この2件は関係するんだろうか。でも、もしバルウィンの過去の話を聞いたアベルが「ハッ」と気づく反応を見せるとか、二つの運命が絡み合っていたような見せ方をしていたら一気に作品のもつ、本当の「うつつ」の部分が崩れていただろうなぁと思う。この物語にある「現実のうまくいかなさ」や「理不尽さ」は、それこそ不条理によって作られているものが大半だからだ。感動的な物語なら間に合うはずなのに、急いだのに父の死に間に合わなかった息子。感動的な物語なら両親の諦めない看病によって目覚めるはずなのに、10年経っても目覚めない息子。何か悪いことをしたり因果があったわけでもないのに突然死ぬことになる父親。物語のように都合のいいことなど現実には起きない、というその厳しさがこの話にはあちこちに点在していて、たぶんそれぞれがひとつだけ話にあったのならそれは物語の「ご都合主義」にも見えたのかもしれないけど、そうではなくあえてそうしていると見えるからこそ、どれもが「現実」の象徴のようにそこにあり、それが夢の世界の対比でもあるのだと思う。(二人の事故が本当に関係あるのかどうかは描かれていないけれど、でも被害者がいる事故なら関係者の息子であるアベルが知らないはずもなく、私は、2件は時期が近いだけで、同じ事故とかではないのでは……と思いました。というか、それくらい「偶然」ありきの物語だといいなぁっていう個人的願望です。世の中にあるフィクションには辻褄合わせがあまりにも多いと思うし、なんでも出来事に因果関係がありすぎるけれど、その前提で現実で生きると、期待した都合の良さや伏線回収が現実にはなくて、がっかりしたり大失敗することが結構あります。この作品は特に、夢のフリをして現実的すぎる場面が多いから、普通の物語なら絶対つなげてきそうなところに、そういう「ただの偶然」が盛り込まれているんだとしたらすごくいいなぁと思う。し、とにかくそこについて言及されていないというのが好きでした。ただ想像に任せているだけなのかもしれなけど、この「言わない」という選択が綺麗だな……とすごく思います。)

 お話がどれくらい夢を見せるものであるべきで、ハッピーエンドはどれくらいハッピーであるべきか。この作品はタイトル通り、お話(というか宝塚かな)が見せるべき夢や希望の「フィクションだからこその」クッキリ感を、全部一回リセットして、リアルなのかフィクションなのかをあえて曖昧に戻して、それこそ夢現の先にあるものとして希望を描いているような気がする。お話は完結することができるから、すごく輪郭がクッキリしてるデフォルメされたハッピー!とか希望!とかが描けるのかなって思います。人生にさもゴールがあるように描くことができる。でも本当は人生は死ぬまで続くし、何かが解決したり恋が実ったりしてもその先で別の問題が起きるかもしれないし、考えも変わるかもしれないし、得ていた答えがしっくり来なくなることも、恋が冷めることだってあるかも。だから、絶対的だったり永遠のように描かれるハッピーや希望って現実としてみれば「嘘」でしかなく、それでもそれを信じさせるパワーを持つフィクションもあるのだけど……それが無意味というわけではないのだけど……。でも、この作品はそういう「フィクションだから」の言い訳をものすごく厳密に許さないでいて、そこが独特な魅力になっているのかなっておもいます。お話のようには完結せずいつまでもダラダラ生きる人間の面倒臭い感じを受け入れ、その姿のためにお話が作られている。人間のめんどくささのためにある「フィクション」って感じです。

 この物語のゴールって、エマとの恋が実ることでも、バルウィンが目覚めることでもなくて、たぶん、アベルが人に「ありがとう」って言われる喜びを知ることなのだと思います。すごく、最後のシーンいいですよねぇ。バルウィンにありがとう!って言われた時のアベルの反応がこの作品の描きたかったもので、そしてここにある希望や幸せは、絶対的でも永遠でもないもので二人だっていつかは忘れてしまうシーンなのかもしれないけど、でもこの嬉しかったという経験が、アベルのこれからの人生をより良いものにすることは確かです。人の目を見てありがとうを言える勇気を彼はこれから持つことができる。ありがとうを言うのは大切だよ!と周りは言うけど、その大切さを一番実感するのは「言われた」ときで、やっとアベルにその時が訪れたのだと思います。それこそがこのお話のハッピーエンド。そのありかたがすごく美しいなと思いました。