星組「ディミトリ/ジャガービート」綺城さんの話

 ギオルギのことを考えると落ち込む、尊敬されていて神格化されているギオルギという人の姿は、ギオルギ自身がなりたかった「自分」ではないと思うし、彼は王として育てられたからこそ自分を捨て、「王」になることを選んでしまった。それは他人の理想や自分の理想や学んだ理想をかたどったものであって、彼そのものの姿ではない、ないけれどみなその作られた「王」をギオルギとして見ている。でも、自分のために生きることが許されなくて、それを確かにやりとげて、でも、本当にそんなことが平気な人だったんだろうか。ディミトリはルスダンの結婚についてギオルギに伝えられた時、「王族の結婚とはそういうもの」と言った。この言葉を聞いた時のギオルギの本当に僅かな表情の変化は、私の勘違いなのか、本当にあったものなのかわからなくなるほどかすかだけど、多分あったんだろうと思う。「そういうもの」と決められることがどれくらい己を縛ってきたか、そしてそれで自分の周囲を縛ることが、どれくらいギオルギにとって不本意なことなのかが見えた気がした。けれど、そうした「王族らしさ」に抗うことが他者を裏切ることだとギオルギは知っている。ギオルギは本来奔放な人であるはずだが、星組版はそうした自分らしさを抑える選択をした末の姿だけが描かれるので、こうした少しの表情に本当のギオルギの弱さを察したりする。
 綺城さんはベンヴォーリオの時も思ったけれど、完璧で達観しているように見える人を「弱い人」として演じるのが本当によくて、ギオルギも多分そういう演じ方をしているんじゃないかなぁって思っていた。他の役でもそうだけれど長所として描かれるところを手放しに肯定的に見ていない感じがあって、そこが役の人間味を作っていて好きなのです。あの世界の中では理想像のように語られるギオルギだけど、でもそれは早世したから、でしかないのかもしれず、少なくとも彼は生まれつき完璧な王ではなかった。自分に足りないものを、自分を縛り、気持ちを抑えることで補ってきた。彼だけは、ギオルギという王が少しも完璧ではないと、知っていたのではないかなぁ。「王族とはそういうものだ」という認識がどれほど当事者や周囲を苦しめるか一番知っているのはギオルギで、それなのにそれをディミトリやルスダンにまで課さなくてはいけない。その重要性を知っているのもギオルギなんた。この抗えなさこそがギオルギの弱さでもあり、優しさでもあり、あの一瞬の表情にそのことを感じたりしていた。
彼は己を貫いて、次に続く人たちのために自由を勝ち取るより、王であることを選んだ。それは屈したというよりも、多分民や仲間たちのためであり、彼にとっては勇敢な選択だったはず。でもそれでも自分がそうやって苦しい道を選んだら、そこに巻き添えになる人がいる。そこに鈍感になれる人でもないし、ギオルギはああいう立場になるには優しすぎるし繊細すぎるし柔軟すぎたんだろうな。死に際にルスダンとディミトリを結婚させたのは彼にとってはせめてもの償いだったんじゃないかなと思う。それが最善でないことは最初からわかっていただろうしこれからルスダンが苦しむことになるのだってよくわかっていたんじゃないかな。

 彼が最後まで「理想の王」であることが、何より彼の悲しさであるように思う。弱い人だということをわかっている人はいたのかな。(宰相イヴァネはわかっていそうだな、と少し思ったけれど。)

 ギオルギがルスダンに王位を継ぐよう告げるときより、私は、その話をする直前の、寝室に来た妹を安心させるためだけに微笑んだギオルギの演技がすごく好きです。王位の話をする寸前まで、ギオルギとルスダンの関係は王族とか関係のないものだった。たぶん、ギオルギは妹という存在にだいぶ助けられていたのではないか、と思う。王として存在しなくてもいい人がいるというのは大切で、いつまでも妹にとってはただの兄でいたかったのではないか、と思うし、だからこそ妹を後継者として扱っては来なかったのではないか。王位の話なんて最後までしたくなかっただろうなって。(でもだからルスダンは苦しむことになるのだろうな)
 ギオルギは自分勝手に生きるには冷酷さが足りなくて、王として自分を律して生きるにはあまりにも柔軟で視野が広すぎたのではないか。それはある意味では弱さだけど、そこがギオルギの人間味で……ジャラルッディーンが出てきた時に対比でそこを感じたりしました。ジャラルッディーンは王であることが本人の人間味と完全に一致している気がします。全く別の「王」だと思うけど、でも、ギオルギに理想を見出しているとそこが同じに見えるのかもしれません。

 ジャガービート〜!!!!
 すんごく良くて初めて見た時から誰に見せるべきだろうか、誰を誘おうって他人に浴びせることばかり考えてしまった。私にとって宝塚ってこうなんですよね……このぐちゃぐちゃでどこを見ろというのか……となる一瞬こそが宝物。フレンチのフルコースじゃなくて、お子様ランチなんですよ、宝塚は。一つの場面にいろんなとにかくおいしければ同じ皿に乗せてええやろのテンションのメニューがどんどん出てくる感じ。それが雑さやバラバラのまとまりのなさに感じるのではなくエネルギーの渦に感じられるのは宝塚。こんなものを見せられたら人類愛が芽生えてしまう……!という気持ちで……、私は綺城さんが好きなので、星組最後の公演かぁとか切ない気持ちになりながら見に行ったのですけど、そんな悲しみは一気に光にかき消されてしまった。綺城さんがタカラジェンヌになったことを私は本当に「ありがとう!」と思って生きているのですが(急に何)、斎藤先生もそう思ってるのかなって勝手にシンパシー感じるくらい「ありがとう!」に溢れてて、嬉しかった。やっぱり「あなたがここにいてくれることが嬉しい」という声が聞こえてくるくらいその人の輝きを大前提にして作られた場面を見るのは幸せです(綺城さんだけでなくみんなに対してそうだからすごい)。私はもともと綺城さんのお芝居の中で歌が好きなのですが、ショースターなんだ!!!綺城さんって!!って気付かされたショーでした。(というか、全てのタカラジェンヌをショースターだと信じて疑ってないのかもしれない、斎藤先生。)綺城さんはショーで輝くことこそが天職なんじゃないかってくらいきらめいてて見てて私はすごく嬉しかったです。好きな演者さんご本人が、自分がそこにいることを最高だと感じているんだって、こちらが見てて勝手に信じられるのって嬉しいことです。本当はどうなのかわからないけど、そう信じさせてもらえるってありがたいことですね。私はもう最初から「この人はここに立つべき人」と思っているから余計に、その気持ちを本人に大肯定された錯覚があり、幸せな気持ちになります。
 ジャガビーはショー作品というより、ショーに出ているタカラジェンヌを見る時間、という感じ。それがいい、それでいいんです。舞台に立つ人を好きになると、その人が舞台に幸せを感じているのが分かった瞬間、何よりも幸せな気持ちになります。今回、そんな瞬間がたくさんあって、それこそがこのショーの偉大さで、このショーの綺城さんの素敵さだなと思う。星組ラストがこの作品でよかったなぁって心から思います。

もうすぐ、千秋楽!