フライングサパ考

フライングサパ……。
フライングサパ、素晴らしすぎる……。酸素が失われそうになるまで以下に感想を書きなぐりました。宙組さん、上田久美子さん、すばらしい作品をありがとうございます。(ネット配信で見たので見逃している部分もあるかもしれません)


国を、言葉の違いを、信仰の違いを、取り除き、破壊衝動、憎しみ、怒りを忘れさせられたのなら、そこに平和は訪れるのか。過去の蓄積として人は現在を生き、未来に全てを賭けるように現在の痛みを乗り越えようとする。過去という時間の奴隷であり、未来という時間の狂信者とも言える。けれど、あなたには今がある、というこの瞬間のことを、この作品においてたったワンシーンで描いた。オバクがミレナにマジックを見せるところ。

わかりあえなさ、自分が抱えるもの、他者が抱えるものの不明瞭さ、それでもそれに従わずにはいられず、未来のために生きる、という思考を美しいと捉えてしまう。わたしには今がある、というその事実は当たり前のことのようで、それだけを信じることは恐ろしくてできないんだ。
他者が、いなければ。

他者と向き合うとき、他者には、今の自分しか見えない。過去の自分も未来の自分も、その人の瞳には映らない。そこで語られる言葉も、本当は、その瞬間だけのものであって欲しい。

オバクの「語り合えば」というのはそのことを指すように思う。意見が違うなら語り合えばいいといっても、無理なものはある。血は流れる。でも、語り合うことで、人は「今」を見る。抱えてきた過去の問題の妥協点を他者と探ることができるなんて、楽観的なことは言えない。けれど、「語り合えば」、目の前にいる人間の痛みが、わかる。あなたは生きている、ということが、その人自身よりも強く、伝わってくる。
そうして思う、過去のためだけにあなたはいるわけではないと。

憎しみのためにともに生きることも、愛のためにともに生きることも、もしかしたらこの、「瞬間性」を否定していくことであるのかもしれない。けれどその愛と憎しみの始まりだっていつも、こうした瞬間にあるのだ。オバクとミレナのあのワンシーンは、永遠の始まりでもあり、それから、彼らが「今」を手に入れた瞬間でもあった。

オバクの、それまでの自分の知らない過去に対する戸惑いは、過去を知らないということより、自分の「今」を誰も見ないことにこそあるように感じた。過去を取り戻すことは自分を取り戻すことだろうか? オバクの、4歳から卒業しなければという言葉は、核心をついている。記憶を失ってから生きた時間は嘘でも偽物でもない。タルコフとの時間は嘘ではなく、タルコフに地球時代の名前があるとしても、タルコフがタルコフだった時代は嘘にはならない。オバクは、決して過去を失うことが自分を失うことだとは思わない。

ディストピアSFであることについて、憎しみを持ったまま人は平和を手に入れられるのか、という主題について、書くべきことは多くある気がするが、この作品は二人のマジックの瞬間に、愛の話となり、人と人の関わりの話となり、オバクの美しく強い決断を、自然と、作品の真ん中に連れていくことができた。わたしはこのシーンが、この作品の肝なのだとおもう。二人が、「人間である」ということがここで突然鮮やかに、露出するから。(そうして、それは「偶然」によって起きるから美しいんだ。)

総統の言葉に「人間の本当の姿」という言葉がある。ディストピア社会で管理された人々にとって、舞台を観る側の私たちは「本当の姿」であるはずだろう。憎しみや怒りに支配され、他者を傷つける人間。それから人を愛する人間。この作品は近未来SFといえるものだけれど、この形式は宝塚のジェンヌさん達のあり方に非常にマッチしていた。男役も娘役も、リアルな男性やリアルな女性ではなく、夢の世界における「男役」「娘役」としてそこにいる。それは現実離れした存在感、人を超えた別の何かのようにも見え、それは美しく、舞台の上で最も輝く。このあり方は、ディストピア社会になじんだ新たな人類の姿としてもぴったりきており、また、ダンスの揃い方が、「社会として一つとなり、個を失う」人々の姿としてあまりにも生々しく、「そのもの」だった。女性でも男性でもないからこそ、踊るとき、男性だったはずの存在、女性だった存在が、重なり、境界が消えるように見える。そうだ、境界を失うことこそこの作品のテーマでもあったはず。すべてが演出として考えられているように感じる。
タカラジェンヌというあり方が、近未来SFとしてマッチし、その不気味さを増幅させ、「違いを消し去る」という大きなテーマが「性別」においてさえも、実は舞台装置として展開しているのが面白かった。

その上で、彼らが他愛もない会話で、「生身の人間」のように見える瞬間を描いたことが効いているのだろうと思う。


この作品はディストピア社会の描写と、そこから逃れたレジスタンス達の描写が交互に現れるが、このレジスタンス達の生々しさは、しかし、総統のいう「人間の本当の姿」ともまた違っている。彼らは、支配されること、奪われることを拒絶する。自由を求めているとされるが、自由の先にある欲望を達成するための冒険に出ることをせず、逃れたその先で、未来から目を逸らし、今を浪費している。彼らにオバクは「運命に飛びこみ、望むものを獲れ」と言う。暴力的な支配から逃れるためだけだった彼らは、けれど「今」を生きることができず、彼らは彼らで、過去に支配されていた。オバクの登場は、彼らに「今」を取り戻させるきっかけとなる。

また、芹香斗亜さんはわたしが初めて宝塚を見たとき、「これが、男役なんだ!!」と強く衝撃を与えてくれた人だった。美しくて、男でも女でもある、その二つのあり方が重なって、どちらかを否定することなくどちらでもあり続けるその先に、人ですらない何か別の次元に向かう美しさがある。男役という存在の美しさを最初に教えてくれた人だ。(芹香さんを見てから、宝塚という人の美しさがよくわかるようになりました。)
芹香さんはなので、「近未来SF」の人類というあり方がとても似合うジェンヌさんだと思うけれど、彼女の役「ノア」はどちらかというと非常に人間らしく、そして観客席に座る我々に一番近いところにいる人物だと思った。つまり戦争を知らず、紛争の匂いを知らず、親を殺されたことがない我々。

「そんな必要はなかったじゃないか」
という、イエレナに向けられた言葉は、我々の言葉でもある。投降してきた敵を撃たなくてもいい。なぜなら我々は、親を殺されたことがないから。恨んでないから。そう思う。そう言いたくなる。あのシーンは、どうやってもノアがまともで、イエレナが過剰だ。そう見える。でも本当にそうなのか?イエレナのノアへの怒りは、我々にも向いている。
このイエレナの存在は重要で、総統の言いたい「人間の本当の姿」とも言えるだろう。けれど、イエレナにはノアがいる。ノアは、愛することができる。「本当の人間」として。そうしてイエレナはノアによって、自分の「今」を取り戻していく。過去に囚われた彼女が、ノアによって、ノアとの未来と過去を繋ぐため「今」の自分を手に入れる。

重要なのは、それがイエレナと同等の痛みを持たなくても、憎しみを知らなくても、同じ地獄を過去に見ていなくなって、できるということ。「あなたは親を殺されたことがないから」と言われても「でもきみを愛している」と答えられる。あなたの過去の地獄は知らない、わからない、けれど、これからの地獄かもしれない未来へ、ともに向かえばいいはずだ。

ここに、「憎しみを持ったまま人は平和に生きられるか」という作品の問いへの答えが詰まっている。そうしてそれをさりげなく、トップスターではなく二番手の芹香さんに演じさせることに意味があるんだろう。芹香さんの非現実的な立ち姿と、現実的な愛の選択は、不釣り合いなようでいて、そうしたたった一人の人を過去を超えて愛していくことこそが、現実の私たちにとって向かわなければならない「理想」、現実と地続きの理想であることを示している。そして、真風さんとの対比においても、ノアの選択は物語を現実と繋ぐ重要なものであったと感じる。

オバクは、最初から決意できている存在だ。現実を前に苦しむこともあるが、でも彼には人間として、特別な資質があるように思えてならない。それは、「良いリーダーだった」という過去ともつながっている。過去を失い、「今」の自分を誰も見ない間、戸惑うことはあるが、過去を無闇に知ろうとしても虚しいだけで、しがみつこうとはしなかった。
これはミレナが自分を傷つけるような行動に出るのと対比関係なんじゃないかと思う。ミレナは過去がわからないが故に自分のことがわからなくなり、それによって今の自分を傷つけていってしまう。オバクは、今を生きるために、過去を知ろうとするだけだった。過去がわからないからといって、自分の今を否定することがなかった。彼は、自分のことがわからないという、他者のことがわからないという。でも、自分のわからなさによって、自分を見失うことがない。わからなくても、自分はここにいる、と、オバクは知っている。彼はまず、わからないということを自分の中で受け入れ続けている存在なんだ。


「他者と本当の意味でわかり合うことはできない。」このことについて、私もこれまでいくつか原稿を書いてきたし、自分の活動の肝になる考え方であると感じている。まさにインタビューでも話してきたことでもあるから、勝手に異様にシンパシーを感じてしまって、深読みしすぎているところももしかしたらあるかもしれない。でも、どうしてもこのことについては書きたくなる。「わからなさ」とオバクというキャラクターについて考えてみたくなってしまう。

人と人は分かり合えない、どんなに語り合っても、違う人生を生き、違う心を持っている、共有しても共感してもそれは自らと他者の心情をデフォルメして近づけているだけにすぎない。他者には決してわからない部分が自分にはあり、どんなに愛した人だって、自分にはわからない部分を持つ。でもだからこそ、その人は「その人だけの存在」と言えるのだ。誰かに全てがわかってもらえるなら、その人は、存在する意味がない。わからないけれど、それでもわかろうとし続けるとき、その人の視界に「私」がいて、「私」の視界にその人がいる。そんな一瞬があるなら、きっとずっと生きていける。私はそう思っている。

総統のように、どれほど他者との違いを奪い去っても、本質的に互いは異なる存在で、「わかり合う」ことなどはできない。わからない存在同士であることは、さみしく、けれどそれそのものが、本当は相手と自分の存在を確かにしているのだ。総統は、さらに心さえも同じにして「わかり合う」ことを望んだ。それは、総統もまたさみしさから逃れたかったからだ。けれど、オバクは。オバクは、奪われた「違い」を取り戻すことを望んだ。オバクの「さみしさ」は同じようで真逆のものであったと思う。彼は、憎しみや愛情を取り戻すことを望んでいる。わかりあえないことは変わらない、けれどだからこそ、わかろうとして向き合い続けられる。不要な「違い」なんてないと、彼は思うし、その違いを見せてくれと願っている。「同じ」なんてもので現れる「さみしさ」を消したいと願っている。過去が失われて、互いのことが分からなくて、でも、過去が戻ってきてもわからなさは変わらないだろうと感じる。それなら、この失われた過去を取り戻して、わからなさそのものをそのまま受け止めたいと、彼は思うのではないか。わからないことは変わらないのに、互いのわからなさを消し去ることこそがさみしいと、彼は感じているように見えた。

彼は、「今」を信頼しているんだろう。諦めに近いものであるのかもしれない(最初はそのように演出されている)が、もっと強靭な精神がこれを支えているように思えてならなかった。なぜならミレナは耐えられないからだ。自分の過去がわからないこと、それでも自分であり続けること。物語が進むにつれ、ミレナの崩壊とともに、オバクの「特別さ」が明らかになっていく。彼が、「話し合えばいい」と言えることに、納得をする。彼は、自分のわからなさを本当の意味では恐れていない。他者のわからなさを、だから受け入れてしまえるんだろう。

この「資質」を主役に備えさせ、それが作品において自然に見えるのは、宝塚というジャンルではむしろ王道のやりかたに思う。トップスターという存在が、この「特別さ」に説得力と必然性を与えている。そして、この作品が面白いのは、このトップスターとしての説得力が、「特別さ」だけでなく、描かれることのない「孤独」や「無関心」にも行き渡って見える点にあるように思った。

この作品を見ていて思ったのは、サーシャは、(つまり記憶を失う前のオバクは)、実は「孤独なリーダー」であったのではないか、ということだった。一つも描かれていないことではあるけれど。でも、なんだか急に、オバクが記憶を失ったことが、サーシャのある一つの解放につながってしまっているようにも思ったんだ。

サーシャは、サーシャのままで総統のところにたどり着いたら、総統を殺してしまっただろうか。父親似の性格であるなら、殺すことが正しいと彼は思えなかっただろうが、それでも、仲間のために殺すのではないか、と思う。そうするしかなくなるのではないか、と。サーシャであったころ、彼は、八方塞がりだったように思えてならない。

オバクの、登場時の「他者と自分に興味がない」という態度は、「守るべきものがいるとき強くなるサーシャ」から、「守るべきもの」が跡形もなく消えたときのあり方としてみるととても自然で、急激にそのキャラクターに奥行きが出る。この、「守るべきものがいるとき強くなる」というのは、真風さんが背負っているトップスター像のようなもので、基本はその部分を陽として強化して作品の軸にすることが宝塚作品なのだろうけど、サパは明らかにそれを陰として同時に用いているように見える。自己や他者に対して無関心である様は、それだけではアンニュイなキャラクターにしか見えないが、記憶を失う前「仲間のために自らが犠牲になる」「良きリーダー」であったとするなら、話は別だ。自分より他者を優先し、仲間の目的のために仲間を率いて、時には人々を立ち上がらせるための言葉を吐いただろう。過去の復讐として立ち上がるレジスタンスのリーダーとして、サーシャは仲間たちの願いを叶えようと進み続けなければならなかった。そのことにどこまでも自分を犠牲にしたはずだ。けれど彼は、彼ならば、過去のために立ち上がる仲間たちの「今」を、誰よりも案じてもいたはず。「過去」に囚われ続ける仲間を見て、よしとは思えないこともあっただろう。それでも自分は仲間を戦いへと導く立場にいる。仲間たちが、それを望んでいる。だから、苦悩は仲間に打ち明けられることなく、仲間を率いるリーダーとして、過去に親を殺された子供として、いつまでも生きる必要があった。彼が捕まるころ、それはすでに11年も続いていた。

仲間のために立ち上がり、仲間の過去さえも抱えて進もうとすることは、物語として美しいが、でもそれは、その人物が個人として、過去ではない時間を生きる権利を奪う「美しさ」であるのかもしれない。ミレナは総統に「憎しみすべてを抱えている」と言った。レジスタンスにおける、サーシャはどうだったのだろう。総統に家族を殺された青年。仲間たちの思いを背負いながら、何度も立ち上がろうと、強い言葉を投げかける。哀れで、誰よりも健気で、そして強くなければならない。彼に、過去ではなく今を生きろと、言える人はいたのだろうか。彼が総統の前に立った時、「総統を許す」という選択肢を選んでもいいと、言える人はいただろうか。きっと彼はイエレナのように、「過去」だけを見ることはできなかった。引き金を躊躇せずに引くことはできなかった。彼は、自分の矛盾を誰よりよくわかっていたはずだ。そして、そのサーシャが、自分の苦悩を打ち明けるとしたら、それはきっとノアだったはず。オバク以上に、サーシャにとってこそ、ノアは、唯一「未来」のことだけを語れる相棒だったのではないかと思う。

オバクは理想で、ノアは現実だ。ノアは現実としてこの問題を超えていく。世界を変えるのはオバクかもしれない。オバクのような、特別な性質を持つ人間かもしれない。けれどノアは一人の人を救い、それが、オバクの理想を現実のものへと変える、一つの力になっていく。綺麗事なんて一つもないね、ノアは地獄にだって行くと言った。しかし、だからこそ、ノアの存在は愛の賛歌だ。

宝塚らしくないのに、まごうことなき宝塚作品で、そこがめちゃくちゃ面白かったなあ、サパ。オバクの強さは、混沌として答えを複雑化するSF作品に、真っ直ぐに光を当てている。オバクの持つ答えは最初からくっきりとしていて、(その対比としてサーシャの孤独が、小さな火のようにあちこちに感じられ、辛かった)、その答えと現実がぶつかり合うとき、オバクは苦しむが、けれどミレナの存在によって、それを乗り越えることとなる。世界の問題であるけれど、オバクという存在の強靭さによって、世界の問題がオバク個人の問題にまで降りてきているように見えた。

そして、そのミレナとの関わりは、美しい点と点が出会う偶然のようなやりとりによって、現れ、過去でも未来でもない「今」だけを描いていた。人と人の出会いの話、非常に小さな規模の、等身大な話にまで、世界規模の物語を落とし込んで、ついには過去も未来もない一瞬のささやかな時間を到達点とする。マジックができず、ペンダントを投げつけるミレナ。人間が、人生という歴史のために生きるのではなく、歴史には残らない一瞬の風のような時間を、なによりも必要としていること。この作品のテーマに最もふさわしい、美しいシーンが、とても丁寧に、そしてささやかに描かれていたことが、作り手が一つの答えを強く、強く信じている何よりの証明のようで。繊細なのに、確かだった。美しかったです。

千秋楽、本当におめでとうございます。

日生公演も無事、幕が上がることを祈ります。