雪組『蒼穹の昴』感想(久城さん桜路さん朝月さん一禾さんの話)

 蒼穹の昴、出ている人たちが素晴らしいな、これは本当に雪組の皆さんと専科さんたちの総力戦だな……という気持ちでいっぱいになった後で始まるフィナーレが最高で、本当にここに出ている人たちへの想いがマックスになってからのフィナーレなので、あとめちゃかっこよくて美しくて可愛いので雪組への愛が増幅されて爆発して私は……。みたいな感想をいつまでもしたためてしまいそう。雪組の人たちが好きだなぁ。ブログはいろんな人のこと細かに書くときりがなくなるので本当に本当にめっちゃ好きな人のことだけ書くことにしているけど、色んな人についての話をずーっと誰かに聞いてほしいくらいだ。蒼穹の昴はそれこそ何度か読んだことあるんですけれど、小説だと、その場にどれくらいの人がいるのかって描かれてないこともあり、今回、ああこの場面ってこんなに居合わせた人たちが多かったのかとか気付かされることもすごく多かった。普通に生きていて想像する限界ってあり、それを超える豪華絢爛な宮中の姿を出演者が個々の存在感で担っているのが好きです。装置も衣装も素晴らしいですが、あれはタカラジェンヌの「存在」の力で成立してる豪華さだなぁと思う。読み手の想像力をひたすら超えていく宮中であり、そして「国」なんだろうなぁ。一番に思ったのがこの、出演者全員によって、この物語が「国」を主役とした話として立ち上がっていくことの凄さで、私は雪組そのものが好きだからそういうのに「雪組……!」となって、初めて見た日は空っぽになってしまった。国を背負うとか、そういう話はよく宝塚で出てくるけど、ああいう話に説得力を持たせるのって本当に難しいなと思う。なぜならもうそんな人や事変が起きる時代では(今のところ)ないから。革命ものとかもよくあるけど、歴史のものとしてやっていてもやっぱりファンタジーとしてしか受け止めれない。ただ、今回の話って戦争とかで反乱とかではなくて、思想における変革なので、それこそ歌うその人の瞳の強さがすべてだったりするのですよね。そこに説得力を持たせる一幕最後の彩風さんはさすがで、また、国を背負おうとする意志って、トップスターだからこそ演じられるものでもあるのかも、なんてことも思った。宝塚は役者がただ集まっている劇団ではなくて、かならずスターシステムとともにあるんだけど、スターシステムが単なる出番のバランスとかだけでなく、役の説得力にまで関わっているの面白いなあと思います。彩風さんの意思そのものがかっこよくて素敵だった。そうやって描かれるからこそ、組全体で「国」を作っているという見え方もはっきりとあるのかもしれないなぁ。にしても……フィナーレが素敵です、フィナーレ、彩風さん挟んで久城さんと桜路さんなの私にとって幸せそのものだったし、嬉しくてすぐ宝塚好きな知人に連絡した。この二人が本当に私は好きだなぁって雪組見るたびに思い知るなぁ。今回もとても好きだったしそれは後でたくさん書きたい。

 まずお話のことひとつずつ書いていこう!今回の公演、一禾さんの王逸が素晴らしすぎる。一禾さんの表情っていつだってライブなんだよなぁ、繰り返し繰り返し公演しているはずだからそんなことないはずなんだけど、その時その瞬間に生まれた表情って感じでお芝居がうまれているのが凄く素敵で、舞台は生だからこそ余計にその表情の鮮度がそのままこっちに伝わってきて、役というより王逸そのものとして怒ったり笑ったりしている、そうとしか見えないしそれを目撃できてるってことにワクワクできる。王逸は血気盛んで直球で、でも優秀で思慮深い人でもあって、「頭の良さ」をお芝居で描くなら言葉の少なさや表情の少なさで表すことが多いと思うのですが王逸はその真逆の人物であり、どんどん表情を出していきながらその優秀さを証明していかなくちゃいけない。表情がビュンビュン変わっても軽率に見えてはならなくてでもそれがものすごく表情の「わかりやすさ」と「厚み・鮮度」によって成立していてびっくりする。楊先生の家で、康有為の話を聞いてる時の表情がすごくいいんですよね、その話に納得しきっていないのが露骨に出ながらも、その「納得のいかなさ」が単なる反発ではなくて色んなことを今その時にすごいスピードで考えてそうで。賛同はしてないけど見切りもつけてない感じがすごく王逸の本当の意味での「器の大きさ」も感じていいし、一番人柄としてはすごい人であるので、それがああいう親しみやすさで演じられているのも見事すぎると思う。「王逸すごい人だな」と「一禾さんすごい人だな」が相乗効果でより役をキラキラさせて見せていて、こういうときの舞台って本当に見てて楽しいし、役者さんって最高だなぁって、役者さんを見つめることの喜びで心がいっぱいになります。演じるその人への心からの賛美と、役そのものの完成度によって別世界に連れていかれる心地良さで頭がいっぱいになり、現実と舞台の境界がなくなっていく。両方があるからこそ見られる夢ってあって、私はそれが好きだから宝塚のお芝居を見るのが好きなんだろうなって思う。素晴らしいな……、王逸は小説の時点ですごく魅力的な役なんですよね、でも一禾さんのお芝居もすごく魅力的で、舞台化で起こりうる幸せと奇跡が満ちている。原作が好きで王逸が好きな人は宝塚見たことがなくても絶対に見た方がいいです。これはほんとにほんと!
 小説は、読むことで想像させる余白があって、それはそれで完成しているし、足りないものを補うために実写化や舞台化があるわけではない。ただ、とても幸福な舞台化の場合、自分が今そのキャラクターと同じ世界にいると実感することで、物語を鑑賞ではなくて「目撃」できることがあり、セリフには決してなることがない淡いわずかな感情が目の前で一瞬きらめくことで、そのキャラよりも作者よりも神よりも、その人の全てに肉薄したような錯覚に飲まれることがある。そういうとき、物語は自分の人生の一部になるというか、観劇体験が単なる「作品を一方的に受け取る」以上のものになるのかなって。舞台独特の物語への向き合い方だと思う。その場でじっと舞台を見ることで「私だけが知ってる何か」を、物語の中に見出してしまう。
 袁世凱を睨んでいた王逸が、李鴻章が文秀を誉めるのを聞いて少し顔を緩める時の表情が、単なる喜びでも、単なる袁世凱への憎しみでもなくて、そして過去に「同期の誉れ!」と言ってたあの明るいただ晴れやかな気持ちでもない、今だからこそ出る少しだけプラスでいてそれでも暗いものが渦巻いている気持ちが、お芝居として現れていて、はっきりと表情が見えるしその方向性もよくわかるのに、それでも簡単に読解させないお芝居で素晴らしかったのです。「よくわからないから考えさせられる」のではなくて、わかるの、わかるのに、わかりきれない気がして、いつまでも何度も思い出してしまう。あの笑みで、どうやっても晴れない苦しみ(仲間の死)を王逸が背負ったことがじわじわと見ている側にも伝わってきて、本当にすごい、あれは舞台の人にしかできない「感情の表現」だと思う。(観客がその人をじっと見ていないと気付けない表情の変化でもあり、どこを見るべきか固定されていない舞台らしいあり方だなぁって思う。自分はそれを目撃してしまった、という体験でどうしてもその変化が忘れられなくなる、自分と無関係だと思えなくなって、一瞬の表情のことをいつまでも考えてしまう。そうなってしまうからこそ深まっていくお芝居ってあるんだと思います)

 久城さんの岡さんは、あの物語の中で数少ない島国の人なんですね。舞台の中国も、トーマスのアメリカも大国で。日本は明治維新を終えた後でもあるから余計に中国とは真逆の状況で、岡さんの人柄はその対比をより引き立てるものとして作られているのかなって本を読んだときに思いました。国で人柄が決まるわけではないんだけど、でも単なる優しさではなくて、生まれて育ってきた場所や、今の母国の状況が違うからこその、感覚の差が久城さんのお芝居の柔和さや親切さにはあってそこがすごく面白いなぁと思った。自国のことではないからこそ、エゴのない親切を人に向けられるのかもしれないし、それでも自国のことではないからこそ言えないことやできないことがたくさんあって、たぶん今作での岡さんの表情は、日本が舞台の別作品に登場するとしたら見られないものだと思う。あれは隣国にいるからこその「岡さん」で、この少しの「お客さん感」が親切さや優しさとして現れるのが、岡さんの本当の「キャラクター」なんじゃないかなぁと。単なる優しさとか親切ではなく。もちろん、すごくいい人なんだろうなとは思うけど。隣国にいること、自分が立ち入れない事情を持つ人たちと関わること、どんなに心を寄せても、同じ運命は辿れないことを記者としてよくわかっていて、だからこそ出会う人に誠実でいようとする人なんだろうなって思う。礼儀としての柔和さであって、そのわずかな距離をあのお芝居から感じるのがすごいなって思います。こころからすべてをうちあけて、友や仲間として思いやってる優しさではないというか……。すごく柔らかな人だけどそこに感じるのは「親切心」や「誠実」であって、親愛とかとはちょっと違う。異国の人だって、あの物腰でなんとなくわかるのは本当にすごい。とくに白太太とのシーンは、明らかに違う国から来た人だなと思った。でも、その後で記者会見の後、文秀の無事を願う岡さんはすごく素に見えたんです。本当に僅かな違いだけど、あの瞬間は人と人で、それは多分岡さんが「ジャーナリスト」の範疇を越えた行動を取ったからだと思う。久城さんのお芝居は台詞と表情だけでなくて、もう一つ空気感のようなものがすごくいろんなことを表していて生で見ると本当に面白くて好きです。

 フィナーレの 私はあの男役群舞がすごく好きで、あんなにも色んな魅せ方がありえる振り付けと衣装ってなかなかないなぁ……って思いながら見てます。衣装や振り付けに合わせるというより、その人のらしさがすごく出るように作られているのかなぁと思うし、男役の「その人らしさ」って、その人の魅力を出すことでもあるけど「男役」というあり方の美しさを打ち出していくことでもあって、後者の「美しさ」って、正解があることではなくて、本当に色んな方向性があって、それぞれに突き詰めることがとてつもない強さになるんだなって思う。本当に久城さんと桜路さんのシンメはそういう意味でとてつもなくすごいよ……。二人はかなり見せ方が違うのですけど、その二人がシンメでいるとこの振り付けの美しさがはっきりわかる……異なることがむしろ一つのまとまりに見えるのはなんなのだろう。貫かれる強度がどちらも完璧だから? 衣装がまた良くて少しの体の動かし方で見え方が違うのでそれがまたかっこいいんです。違うというのがかっこいいの、でもその違いがバチバチに対立してるかというとそうではなくてどちらもハッキリ自立してる強さだから、違うものと反発し合わなくて、ぶつかったりしてなくて、くっきり存在しながら共存している。そのあり方があまりに美しいんだなぁ、どちらもパキッと「その人の男役」がある、そしてそこに誇りがある。そこがとても好きです。
 ものを作る上で「傑作」を目指すなんて言葉を聞くことはあるけど、「傑作」という答えがすでにあるわけはなくて、結局行こうと決めた道をまっすぐに行くしかないんだよなぁと思うことの方が多いです。まえにとある画家の絵画展に行ったときに、本当にその人の画風そのものの絵がずーっと描かれ続けており、その執念深さは年を重ねるごとにより強まり、答えを模索するのではなくて、一本道を歩むことでしかないんだなぁと思ったりした。作風というものをひたすらに信じてひたすらにそれを確信し続けることでしか作り続けられないってのもあるんだろうなあ。そういうことを思い出す。なんの話だ?作風がある男役さんが好き。作風を信じている男役さんが好き。それこそが「男役」というものの美しさを作ると思うのです。

 桜路さんの常蓮忠は小説『蒼穹の昴』で一度しか出てこなくて、最初読んだとき、これからたくさん出てくるんだろうなぁ…と楽しみにしてたら一切出てこなくて悲しかったキャラなので(私は悪役と対になる善人役(ヒーローではなくあくまで一般サイドの善人)が大好きです)、今回舞台に出ていて嬉しかったです。常蓮忠、立場上罰を受ける可能性が低くて貶められる可能性もあまりなくて、なおかつ私利私欲に関係ない役職なので、紫禁城の中でエアポケットみたいになっている人なのかなって思う。お城での騒動にいつもかなり素朴に反応していて、それが他の人たちとの対比になっているというのもあるし、あとお芝居の公演変更にものどかに「いいですね」みたいな反応してるのとか、光緒帝が珍妃だけを気に入ってることに結構後で気づいて気まずそうにしていたりとか、ちょっとおっとりした感じの人のように見えてそこが私は好きでした。ぴりぴりした宮中の空気がそれでより引き立つ、というのもあるし、多分察しがよかったりしたら、李蓮英あたりの人に消されていた可能性もあるから、おっとりさはおっとりさでなんというか出世した根拠に見えていいなぁって。(悪役との対比キャラらしく)とてつもなく聖人であるというより、工作や策略に気づかないで、いつまでも権力闘争と無縁でいられるマイペースさがある人として常蓮忠っているんだなぁと思って、その方がずっと「宦官として出世した人」らしいなぁと思ったのです。それにあの空気の中自分のペースを守れるのはすごいことだと思うし、おっとりといっても単純に鈍いという感じでもないと思う、というか、心臓が強いんだな……とすごく思いますし……。この人はこの人でなんかすごい人なんだなぁって思って見てました。あんな世界でマイペースでいられるなんてそれだけで大物すぎるんじゃないかって。
 小説では賄賂を渡しても効果がない人として書かれ、ているのだけど、そこでも潔癖さより素朴な無欲さが描写されていて、そこが好きだったのでそういう等身大の穏やかさがそのまんまで嬉しかったです。(あと個人的に好きなのが、女官たちが文秀を取り囲んでいる後ろで李蓮英と常蓮忠がすれ違うのですが、李蓮英が一切視界に入ってないって顔で、一方常蓮忠がかなり気まずそうにしてるのがめちゃ好きです。この二人って宦官として同期なんですよね)
 話は変わるのですがOnce upon a time in Americaで桜路さんのフランキーが葉巻を吸ってるんですけど、その葉巻の吸い方がうますぎて、大好きだ……ってしみじみしちゃった。私はやっぱり男役の人が男役という仕事に対して誠実で真摯であるのを感じれば感じるほど好きだなぁと思う。

 本人が自分のやろうとしていることを心から信じて突き詰めてないと出てこないものってきっとある、って、これはものを書いていて思うことなんですけど、宝塚もすごくそういうところがあるんだなぁって思います。絶対の答えはないし、男役の型はあるけど、それが全てでは全然ない。むしろ結局は舞台に立つ限り「自分」ではあり続けるので、すべてが自分の選択でしかなく、そこを「自分の答え」にするために必要なのって選択の正しさというより、そこにある意志の強さなんじゃないかと思う。どれくらい自分がやろうとしてることに確信を持ってるか、作り出されるものの説得力がそれで変わったりするんじゃないかなぁと思うんです。結局まっすぐまっすぐすすんでいる人の舞台が好きだ、見てて励まされる。おーじさん葉巻がうますぎる……と思ってからそんなことを考えてしまった。
 今回のフィナーレ、桜路さんあまりにも似合ってて、あの硬質な良さが詰まってて最高だったなぁ〜。桜路さん、0.00001秒も「男役の桜路さん」じゃない瞬間がなくて、その強度が本当に好きなのです。群舞のときって男役さんが男役として1番華やかに、そして強度を1番上げて自分の「男役像」を演じて魅せる時間なのだけど、桜路さんはこの時「強度を上げてる」って見え方をもはやしなくて、ずーっと生まれてからずーっとそういう強度の人なんじゃないかって錯覚させてくれるぐらい強さが自然なのです。明らかに強いのに。その揺らがなさがほんとかっこいいなぁと思う。

 この作品で忘れられないのは、朝月さんの玲玲です。本当に素晴らしかった……特に北京に行く前の玲玲。
「玲玲の片手には、日がな街道を右往左往してかき集めたにちがいない畜生の糞が握りつぶされていた。 見よう見まねで兄のしていたことを、この幼い少女は毎日続けてきたのだろうか。拾い集めた糞をこねて乾かし、多少はゆとりのある民家のかまどに持って行く。かわりに与えられる一椀の粥か一握りの麦は、決してその対価ではない。自分が物乞いをしていることにすら、玲玲は気付いてはいないのだ。」(蒼穹の昴2巻)

 夢を見ることさえ許されていないような人生を生きている子供の、希望ってなんだったのか。銀橋の朝月さんのソロの場面、「自分が物乞いをしていることにすら、玲玲は気づいていないのだ」という小説の一文をどうしても思い出してしまう。「優しくて素敵で立派な文秀さん」のことを、玲玲はきっと希望だと思ってて、文秀が科挙に受かるのも立派な大臣になるのも信じていて、それが自分に関係ない世界の出来事でも、そうなってくれたという事実だけで玲玲は幸福に思う。富貴寺の人たちが春児たちにお前たちが立派に出世することが1番の恩返しだと言うのと同じではある、同じではあるけれど、玲玲はまだ幼い子供だ。何かをしようと挑んだことさえもなく、夢を追いかけたこともなく、そんなときから誰かの未来のことだけを夢見ている。
 自分は夢を見られないから、文秀を通じて夢を見ている。そんな不幸なことがあるか、と思う。そしてその透き通った希望を、優しさとも恋とも絶望ともせずに描くのはとても難しい。「自分は全部最初から諦めてるんだ」ということに自覚的なわけがなくて、自覚なんてできないからこそあんなに澄み切ったままでいられるわけで。客席で第三者として見ているからこそ彼女の悲惨さがわかる。でも、玲玲は気づかないのだ。
 そんな玲玲の本人が気づかないところですっかり人生を諦めていることの、その自然にさえ見える静かな閉ざされた心がふいに朝月さんの表情にはあって素晴らしかったです。兄と違って夢を恵んでもらえなかった玲玲は、文秀を通して文秀の夢を見て、春児の未来を心配し身を案じ、自分の人生をいつまでも直視しなかった。けれど譚嗣同に出会ってやっと自分の人生を見つめ、自分と共にいることを望む人に出会って、自分の人生のことを「いいことなんてひとつもなかった人生」って俯瞰で見つめることができたのだと思う。あなたの未来に私の夢があります、と言ってくれる人がいて、やっと玲玲は自分にも夢が見られることに気づいたのではないかなぁ。そうだ、譚嗣同は玲玲に「人生」そのものをあげた人だと思います。