雪組『双曲線上のカルテ』 桜路薫さんのこと。

(※『双曲線上のカルテ』のチェーザレさん周りのエピソードのネタバレをします。物語の2幕以降の結末は書いてません。)

 配役が出た時からすごく楽しみにしていました。私はいつもここに書いてるけど雪組の桜路薫さんがすごくすごく好きで、『双曲線上のカルテ』が上演されると知った時から、桜路さんのチェーザレさんが本当に見たかったのです。チェーザレさんは高齢の末期癌患者。医師からの病名の告知をされていません。説明された「胃潰瘍」という診断を信じ、そして日常を取り戻したい一心で、医師フェルナンドに手術してほしいと申し出ます。フェルナンドはチェーザレさんの気持ちが前を向くならと、偽りの手術をすることを承諾。一時的に病状はよくなるものの、やはりすぐ容態は悪くなり、彼は次第に自分のすぐそばに死があることに気づいていきます。
 死の恐怖の中で、自分が何の病気なのか、チェーザレさんは改めて医師に聞くこともできない。そして、自分と同じように、病名は胃潰瘍だと思い込んでいる妻に、最後まで「打ち明けない」と彼は決めている。死への恐怖と一人で向き合わなければならないその孤独感で、彼は次第に取り乱していきます。

 人はそれぞれ違う人生を生きていて、違うものを見ていて、だから、その人の気持ちが完全にわかる、なんてことはきっとないんだろうなと思います。他者は簡単に理解できるような存在ではないし、それでもどこまでもわかろうとし続け、関わろうとし続けることが人が他者にできる唯一の「尊重」であり「親愛」なのかなって。特に自分が知らない苦しみの中にいる人の感情を、慮ることは難しいです。自分が生きたことのない人生を生きる人、全く想像のつかない苦しみの中にいる人。そういう人の気持ちは、「わかった」と簡単に思うことなんてできないし、でもその人の気持ちを聞こうとすること、受け止めようとすることが人にはできる。というより、それしかできない。チェーザレさんが胃潰瘍の手術をフェルナンド先生に頼む時、チェーザレさんは先生から目を逸らしています。この時の彼の感情や、それから手術を承諾された時の「優しい先生だ」という台詞のトーン。その人そのものの感情の機微が、そのまま舞台の上にあり、簡単に「こういう気持ちなんだろうなぁ」と決めつけることだけはできない、と思いました。そこで見えた表情や言葉は、チェーザレさんがその入院生活の中でずっと考えて、感じ取ってきたことの、その蓄積のほんの一部が表出したもので、その一部で全てがわかった気にはなれない、とおもったのです。ただ、ひたすら、「ここにこの人がいるんだ」ということを強く強く実感し、見つめていくことができた。わからないからこそ、わかろうとしたい、その人の感情をできる限り受け止めたい、と、思うことができた。この最初の場面で、一人の人としてチェーザレさんを見つめることができたのが、ものすごく特別な観劇体験に思えて、初日、すごくすごく嬉しくてはじまった初っ端なんですけどもう本当にここに来てよかった、見れてよかったって思いました。見えているのは舞台の上にいる演者さんで、物語のキャラクターで。でも、チェーザレさんのことを、物語の要素としてではなく、一人の人として、尊重しながら見つめる時間を桜路さんのお芝居からもらえた気がしたんです。

 桜路さんのお芝居は、いつもそうなんです。「役のその時の気持ち」を表現するための断片的なお芝居ではなくて、役としてそこにいて、その人の感情の一部が表出してると思えるお芝居で、だからいつまでも見つめて、一人の人に出会っていく感覚でその役のことを知っていける。いつまでもその役を人として尊重して、見つめていける。キャラクターとして、物語のためにその人を消費してしまうことがなくて、その人物の見えていない部分を誰より演じる人が大切にしているのが、見ていて嬉しくて、特別なんです。
 私が桜路さんを好きになったのは夢介の市村さんなんですけど、あの市村さんも本当に、一人の人としてそこにいて、大好きでした。

 死の淵にいる人のお芝居、それこそその恐怖で取り乱す瞬間の感情、そういうものは、役の感情であっても、やっぱりそれが人前にさらけ出される以上、その役の「人としての尊厳」はどうなるんだろう、ってたまに思う。物語を通して、普通なら触れられないところまで、自分と全く違う人生を生きた他者の心に近づくことができるから、だからこそ、その人の心そのものの「観客への差し出され方」が、役に対して優しく、敬意を持ったものであってほしくて。それは、ただの私の好みの話なんですけれど。キャラクターは人の苦しみや痛みを見世物にするための依代ではない、と私は思うから、そう感じてしまうととても悲しいのです。キャラクターの感情をどこまでも知ろうとし続け、その役の話をいつまでも聞こうとして、簡単にはわかることができない尊い「他者」として、「役」の気持ちをずっと考え続けている人のお芝居が好きです。桜路さんのお芝居はずっとそうで、だから私は桜路さんが好きだし、チェーザレさんという人を演じるところが見たかったんです。
 一人の人としてチェーザレさんを見つめ続ける時間をもらえたから、あのとき、もうチェーザレさんは観客にとって「他人」ではなく「死んでほしくない人」になっていて、そうした感情が自然に混ざるからこそ、見届けられるものがありました。人の痛みは見ているだけでも悲しく、つらく、目を逸らしたくなるけれど、そこに親愛や敬意が混ざる時、その姿をまっすぐに見つめることができるのだと思う。お芝居は、舞台の上に「普通なら見ることができない他者の感情」を載せるためだけのものではなくて、見ている人を、他者の体温のある心そのもののところまで、手をひいて連れていくためのものなのだと思う。ただ目撃するのではなく、ただ、さらけ出してもらうのでもなく、冷えた指で他者を触って驚かしてしまうことがないように、同じぬくもりをまとって、その人の心の近くまで、対等な人として、歩み寄っていくこと。桜路さんのお芝居の好きなところは、役と、こうした出会いをさせてくれるところです。手を引いてそこまで連れて行ってくれるところです。

 本当に今回の公演が見られてよかったです。フィナーレ……、フィナーレの話をするとさっきまでの話とテンションが違いすぎることになるんですけど、私は本当にハットの桜路さんが大好き!私は男役として、ダンスや場面の全てを昇華していくショーの桜路さんがすごく好きで、宝塚が好きだから、宝塚が好きだという気持ちが桜路さん見てるとすごく報われていく感じがして、本当に幸せなんです。桜路さんの宝塚に対する誠実さが作り出す夢の「確かさ」が大好き。決して揺らぐごとがなくて、ぶれることがなくて、はっきりと強くそこにある夢。
 今回のフィナーレの衣装が好きだし、振り付けも好きだし……。お芝居として大好きだなぁと思えた後で、その人本人による「男役」の素晴らしい魅せ方に出会えると、私は本当にこの人の「舞台」そのものが、その姿勢が、好きなんだなぁと思い知ります。字数が爆発したら大変なので書いてませんが、チェーザレさんの前後に出てくる桜路さんの入院患者のお芝居とあとお医者さんも好きだったんです。全部好きだった、おめでとう私。おめでとう!好きな人が素晴らしいことを改めて知ることができるのは、ほんとうに心から幸せなことだと思います。美しくて大好きな海や山波を再訪したときの、まぶしいのに、そのまぶしさがずっと自分の宝物として手元にあったことにも改めて気付かされるような、目の前のものに見惚れながらも、手元にあった宝物が全部全部その光で光り輝いて、その光も浴びていくようなそんな二重の幸せがあります。素晴らしいのはもうずっと前から知っているんです。でも、新しい作品で、また改めて知ることができるのは、本当に特別なことだなぁと感じます。

『双曲線上のカルテ』初日おめでとうございました。全員が舞台に揃う日が早く来ますように。そして千秋楽まで駆け抜けられますように。