宙組『HiGH&LOW -THE PREQUEL-』 桜木みなとさんのスモーキーについて

(宙組公演の他に、HiGH&LOW THE MOVIE 3のネタバレを含みます)

 いつだったか、桜木さんのスモーキーが自分が吐いた血を見たとき、泣き出しそうな目を一瞬して、それから睨むような瞳で口元を拭っていた。原作のハイローで「妹」のララがスモーキーについて、「お兄ちゃんはいつ泣いていたの?」と心で問いかけるシーンがあり、「たぶん、このときだ」と私は宝塚版ハイローを見ていて初めて思った。ハイロー本編ではスモーキーは一度だって泣かない(多分……。違ってたらごめんなさい)。自分の涙を拭ってくれた兄の悲しみを思うララと同じ場所から、観客はスモーキーを見ていたけれど、あのとき、客席は「スモーキーの家族」が知らないスモーキーを見てしまった。きっとこれは宝塚でないと描けなかったものだろうと思うし、窪田さんではないスモーキーだからこそ可能なものでもあるんだろう。あの時の桜木さんの目が忘れられなくて、それからずっと、遡るようにスモーキーのことを考えている。

 桜木さんのスモーキーは、消えかけていく命の火を消さないためにより大きな火を足して、強く燃えようとするような存在で、だからこそロウソクの減るスピードはさらに加速し、生きようとすればするほど削れていく命が見えるようだった。いや、「生きようとすればするほど」と書いたけれど、スモーキーは「自分が生きる」ことより、「家族を守る」ことを第一に考えていて、「生きよう」となんて一度もしていなかったように思います。家族を守る必要があるから生きている、というだけで、彼にとっては「守る」こそが1番に重要なのだ。そして、「守る」ことだけを見ていたから、命をむき出しにするような闘い方ができたのだと思う。守護神として自分が戦わなければならない、と思っていたからこそ、ボロボロの体のままで止まることなく戦い続けられたのではないかって。
 スモーキーにとっての「生きる」は、命を長らえる意味での「生きる」では決してない。家族を守れなきゃ意味がないのだ。守ることが彼の「生きる」で、生きたい、と思っていたら、あの体であんなに動くことはできなかったのではないかとさえ思う。あんなに動くからこそ、寿命を縮めてもいるんだろうとも思うのです。
 桜木さんのスモーキーも、ダンスの瞬間はものすごく俊敏で、でもそれはいつもの桜木さんのエネルギッシュなダンスとは違って、速さが研ぎ澄まされている分、今にも消えてしまいそうな脆さもあった(あのダンス自体がすごくお芝居として作りこまれていてほんと素晴らしいなと思う。桜木さんは(これはいつもだけど)歌もダンスも芝居の一部に完全にしていて、そういうところが本当に素敵です)。勢いのある鋭いダンスは「生きる力」を表すものでもあるはずなのに、スモーキーのそれは、家族を守るための気力はあっても、生きる気力はなく、むしろ生きようとすることを手放しているからこそ得ている鋭さがあるように思った。

「俺たちは家族のため
 生きることを決して諦めない」

 MOVIE1-3とドラマシリーズ1-2を見ていると、スモーキーは「家族のために生きること」が自分にとって最良の「自分の命の使い道」だったんだと心から信じて、受け入れて、死んでいったように思います。でもそれは最初からそうだったわけではないし、そうではなかったからこそ、あのタイミングまでは街をみんなで出ることを選ぶことができなかったのだと思います。街がすべてではなく、家族が全てだと、彼はあの時にやっと言えた。自分達は飛び立つことができるんだと言えた。きっとそれまでは「あの場所でしか生きられない」ということが血の繋がりの代わりに自分達を繋げるものだったのだと思う。でも、そうではなく、場所ではなく心で繋がる「本当の家族」だと心底思えたからこそ、そう確信できたからこそ、彼は仲間に場所が変わっても大丈夫だと言える人になっていた。

「俺たちはいつも誰かのために生きてきた。助け合う事でしか生きられなかった俺たちは、誰かのために夢を見ていた。でももうそれじゃだめだ。これからは他の誰かのためじゃなく、自分のために夢を見てほしい。」

 誰かのために生きるのではなく自分のために生きる、という選択はスモーキーにだってあったはずで、多分それは彼もわかっていたはず。命が削れていく中で彼は、家族のために戦い、でもだからこそ寿命を縮めてもいた。そうではない生き方があり得たのではないか、ということに気づいていないわけもなくて、特に「死」は個人のものでしかないから、自分が死ぬかもしれないとなった時、失われる「自分」の存在をやっと意識する。本当に失っていいものなのか考えることだってあるだろう。それを恐ろしいと思わないわけもなくて、でもそれでもスモーキーは、あの場所で、家族を守る使命を選んだ。戸惑いを捨てて、戦い続けたのだと思う。
 そして桜木さんのあのスモーキーは多分この瞬間の表情を描いている。

 あの街では支え合わなければ生きていけないから、だから命を削る覚悟さえもあるのだろうか。ついそんなふうに考えてしまうけれど、スモーキーはたぶん病気になる前から家族のために戦っていて、命を削らなくては守ることができない状況になったのは守護神になってからではないか、と思うのです。(そういえば、宝塚版の血を吐いた後の表情はいつも違っていて、一度は、家族を守らなければならないのに弱っていく体に苛立ちのようなものを見せていたときもあった。)彼だって病気は想定外で、それでも彼にとっては家族を守ることが生きることで、命が削れていくのがわかっても、それ以外にどうすべきなのかわからなかったし、きっと選択肢ももはやなかったのだろうなと思います。
 見ている側なら、距離をとって世界を見れる立場なら、「もっといい方法があったのではないか」って思える。これはスモーキーの話だけでなくて、ニュースでみる「悲劇」だとかもそうで、関係ない側は他に「最良の選択」や「合理的な結論」があるはずと簡単に思ってしまう。でも、人間は効率的に生きることや賢く生きることを最大の目的として生きてないし、人生をゲームのように捉えている人なんて少ない。そもそも「より良い方法」を探ること自体がそんなに優先度が高くないこともままあります。生きていて、ある問題が起きて、そのときにはもう選べるものが一つしかないように思える、そんなことは多々あって、「いやいやもっと他にもあるでしょ」みたいな他者の言葉は、正しいかもしれないけど、正しいだけで、本人たちはその場所で痛みや苦しみを浴びていて、物事を俯瞰で見ることがそもそもできなかったり、幸福を選ぶことや最善を尽くすことの優先度がすっかり下がってしまっていることもあるのです。スモーキーの話に戻すと、スモーキーは「生きようとする」選択をその時もう持っていなかった、私たちは見ていて「生きてほしい」と願うけど、それはスモーキーの人生を生きていないからそう思える「俯瞰での物言い」でしかないのだと思う。彼は自分が戦わないと、無名街の仲間が傷つくことを知っている。彼にとって戦わないという選択はもうあり得ないし、だからこそ、彼は自分の命が削れていくとわかっていても戦うことをやめない。でも、泣き出したくはなるのだ。それだけだ。「じゃあ生きようとしてほしい」と言われても、それには決して頷かないけれど。

 MOVIE3の死の間際、スモーキーは、そうやって走り抜けた自分の人生を「最高の人生」だと言った。家族のために生きることが、「自分のために生きること」でもあったと思うことができて彼は死んだ。彼の体を労わりたいと願い、より長く生きてほしいと願う観客の思う「自分のために生きる」とは全く違うけれど、スモーキーにとっては彼の人生こそが唯一の「自分のために生きる人生」となっていた。
 だから彼はここで、家族を「本当の家族」だと確信することができたのだろう。家族のことを自分のことより大切に思えることこそが、彼にとって「愛を知る」ことでもあり、「本当の家族を知ること」でもあった。一方で、宝塚版のスモーキーはまだそこまではっきりと答えを出せてはいない。彼にとっても家族は大切だけれど、まだ、この街を出ても自分たちは大丈夫だと言い切れるスモーキーではないし、自分の命をみんなに捧げることが、自分にとっても幸福だとは言い切ることができない人。もちろん、それでも家族を守りたいと願っているけれど、どちらかといえば、自分のために生きるとか、自分も幸福になりたいとか、最高の人生にしたいとか、そうした願いを諦めた上での「家族を守りたい」であったように思う。彼自身が選んだ、彼の心からの「守りたい」という願いだけど、それが自分の幸せだとはまだ言い切れるスモーキーじゃなかったんじゃないかって。それが最高とは、まだ言えなかったんじゃないかって。
 まだ、ララの肩に触れながら「愛の意味を知らない」と歌ってしまうスモーキーだ。ここでは自分達を「本当の家族」と言い切ることはできないのかもしれない、もちろん家族とは思っているだろうけど、それでもこの場所がなくても繋がれるのか、そこまでは彼は言い切る勇気を持っていなかったのではないか。ただ、私はそれでもこの時から彼らは「本当の家族」だったと思うのです。スモーキーは愛を知っているし、それに無自覚なだけだ。彼はずっと持っていたものに、ゆっくりと気づいていく、MOVIE2-3で描かれたのは単なるスモーキーの成長ではなくて、すでにあるものへの「気づき」だったのだと思うし、気づく前のスモーキーの「無自覚な愛情」が宝塚版には強く残されていったのだと思うのです。

 宝塚版でララがカナを助けたいと言った時、スモーキーがそれに同意したのは、たぶん、カナを心配したりしたからではなく、無名街で育ちながらも、外の人間のことを心から心配できるララの心を守りたかったからだと思います。
 外の世界の偏見の目に晒され、自分達家族だけが味方だと思ってしまう世界で、それでも外の人間を心配できることの尊さが、その街を守らなければならないスモーキーだからこそよりわかるのだろうと思う。どんなに「愛の意味を知らない」と歌っても、ここにある彼の賛同こそが妹への愛情の表れで、たとえ生きづらくなろうとも、その素朴な優しさを守ってやりたいと願うのは、本当に「兄」そのものだった。
 彼が戦う意味は多分ここにあって、仲間がただ生き延びるだけではなく、仲間の心が少しでも守られ、そして幸せに近づいていくことを願っている。そうやって願えるのはなによりも「本当の家族」だと私は思います。スモーキーは、気づいていなくても、私たちはそこに気づくことができる。そうしてそれを自覚していくスモーキーに、映画版で会うことができるのです。桜木さんのスモーキーは、窪田さんのスモーキーが最後に出す答えの、はじまりのような存在で、そうして、ララが思いを馳せていた1人の人間としての「スモーキー」の心の痛みも静かに残している。宝塚版のスモーキーを見たあとに、もう一度映画版のスモーキーを見ると、彼の「最高の人生だった」という言葉を、本当にそうだね、と受け止められた。もっと長く生きる方法はあっただろう、彼が死ななくてもよかったんじゃないかと悲しいからこそ思う。でも、彼にとって「最高の人生だった」というのは、その通りだとも思う。彼が死に際に、大切に携えていった家族への愛情を、私は知っているし、そうしてその愛情をまっすぐに見据えて、本人がそれを本当の家族だと言い切れることの尊さが今だからこそ、よくわかるから。間に合ってよかったと思う、最高の人生だと気づいてくれてよかった。スモーキーの死の場面で、観客としてそう思えることが、なにより桜木さんのスモーキーが私にくれたものです。