ワンス大千秋楽考


雪組『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』が大千秋楽を迎えた。長い二度の休演期間を経て、最後の1日だけ再開されたこの舞台は、ワンスという作品、雪組という存在の完成度をより強く感じさせながらも、なによりも舞台というもののその儚さと、儚さによって象られた人の情熱の強さを、証明するような舞台だった。

多くを失うヌードルスの人生は、「悲劇」とくくってしまえばそうだし、愛の物語や青春の物語とも言えてしまう。けれど本当は、彼の人生において、喪失も愛も青春も過去であり、彼はこの物語の中で、いつまでもその先を、生き続けなければならない。そして生きる限り、過去を、過去として切り離すこともできないでいる。失ったものもまた人生の一部として、自分が歩んだ道の一部としてあり続ける、だからそれを嘆いていくことが、生きることであるはずもない。悲劇とは呼べない、愛とも友情とも言い切れない、それはたぶん、どんな人生であろうと同じだ。

2幕最後の歌はまさしくそのことを歌っているのだろう。

友と戯れ
愛を求め
走り叫び涙した日々
夢と憧れ
痛みと哀しみ
背中合わせの
歓びと不幸
 
過ぎた日々の
全て抱き締め
記憶の彼方に甦る
ONCE UPON A TIME IN AMERICA

過去の悲しみも喜びも愛情も友情も、どれもが本当の意味での過去になることはなく、いつまでもその人の人生の中にきらめき続ける。たとえ多くを失ったとしても、人生そのものが喪失で染まることはない。そのことをまっすぐに、それでいて説得力を持って歌い切る望海さんが素晴らしかった。簡単にヌードルスの人生を悲劇とは呼ばせない、彼は、その先も生きるのだからと、証明する歌声だった。

失われた多くの機会があった。舞台に立てる回数が減ってしまったジェンヌさんたち、チケットが紙くずとなってしまったファンたち、多くの機会が失われて、不安にもずっと襲われていた。けれどそれでも今日、幕が上がり、終わりが良ければ全て良し、とは言えないけれど、悲しいことも多々あるけれど、でも、「舞台に立てて嬉しい」と望海さんが涙ながらに言ってくれたことが、私にもよくわかった。今日の舞台が観られて嬉しい、どれほどにこれまで失われたものがあったとしても、苦しかったとしても、これからが心配だとしても、それでも、今日が嬉しい。
これこそ、人の強さだと思う。この作品に登場するデボラはとても強い人だけれど、でも、本当の強さはこういうところにあるのだと思った。

以下は、ツイッターに書いたもの。

デボラは本当に強いひとで、自らの不遇や苦しみを埋め合わせるための「愛」を決して求めない人。必ず成功する、諦めない、という姿勢を自分自身で貫くことのできる人で、だからこそ、同じように諦めないでいるヌードルスに恋をする。デボラにとって愛は未来へ向かうことの賛歌としてありつづけていた。だからこそデボラは、罪を犯したヌードルスに「やり直せる」とはっきり言えた。彼が牢屋に入っている間、デボラが見た夢は二人が成功している夢で、ヌードルスが見た夢は、出会った頃の幼いデボラが踊る夢だった。ヌードルスにとって「日の当たる道」はとても遠く、しかし自分の代わりに諦めないデボラがいたからこそ、自分の汚れた手に開き直ることがなかった(それがマックスとの決裂を生むことにもなる)。ヌードルスの、自分ですら諦めてしまいそうな誇りや、美学を、デボラは最後まで信じてくれた。だから二人が結ばれなくても、ヌードルスの人生の最も重要な場所にデボラは存在し続ける。彼の人生を守り続ける存在として。

千秋楽の素晴らしさを何度も思い返しながら思ったのは「本当に強いのはヌードルスだ」、ということだった。いや、ヌードルスを通じて見る、「人」そのものの強さ、かもしれない。ヌードルスはかけがえのない愛を抱いて、その愛を一点も曇らせることなく、貫き、その愛を糧に生き続ける。けれど本人はとても人間らしい弱さを持っていた。自分なら日の当たる道に行ける、と心から信じられるわけでもないし、愛する人の忠告を守るか、友人を選ぶか、なんて選択にはっきり答えを出すこともできない。正しく生きることもできると信じてくれる女性の存在は嬉しいが、ともに近道で成功しようと言ってくれる友人たちと過ごすのだって楽しいし、なにより、刺激的なことが嫌いなわけじゃない。こういうヌードルスの人間らしい弱さは、彼が抱く愛の強さとはバランスが悪いようにも見える。けれど、その愛より本当は、ヌードルスのこの「弱さ」こそが強かったのだ。人間が必要としている「強さ」とは、その「弱さ」だったのだと思う。

ヌードルスはマックスのように鋭すぎて脆い心を持つわけでもなく、それでいてデボラのように全てを貫くこともできなかった。だからこそ、彼は自らの過去と決別も、癒着もしなかった。どんな苦しみも悲しみもそして青春のきらめきも、恋も、全てが自分の中で過去のこととして決して変わることなく、永遠に輝くのだと信じている。過去を、思い出として無理に引きずり出すことも、目をそらすように忘れようとすることもない。彼ほど自分が生きた人生を、後悔や美化に晒さずに、誇り続ける人もいないだろう。それは、「生きる」ことにおいてなにより必要な「強さ」なんじゃないか。成功するため、諦めないため、幸福になるために必要な「強さ」はまた違っているだろう、それらはきっとデボラが持っていたものだ。ヌードルスの持つ強さは、自らの人生を自らの人生として愛し続けるための、「強さ」だ。巨大な幸せが手に入るわけではないけれど、でも、そのかわり、自らの人生そのものを、汚すことなくそのままで抱きしめ続けることができる。

どうして、こんなことを書いたのかって、奇跡的に行えた千秋楽を、心から喜ぶことができる私たちはきっとものすごく強いんだ、と思ったから。不安も心配も拭えたわけではないし、今回の休演はやはりとても悲しかった。無力だと思うことは多かった、どうしようもできない問題に立ち尽くすしかない演者の人たちのことを思った。舞台に立つことが減ってしまった出演者の方々、最後の舞台であるというのに千秋楽ができるのかさえ曖昧な時間を過ごした退団者の方々。不安な時間がチャラになったわけではないし、よかったね、と本当は言えないと思っている。でも、それでも「嬉しい」と言った望海さんの気持ちが、見る側である私だってわかって、そうだよね、うれしい、私もうれしい!と強く思った。嬉しい!と思えるこの強さを手放してはならない、手放すものか、と心で叫んだ。それは、完璧な幸福、巨大な夢を叶えようとする姿勢とは違うのかもしれない。でも、自分が手にしている幸せ、小さかったり一瞬だったりするのかもしれないが、生きることで出会ってきた私だけの幸せを、決して見逃すことがない、そんな姿勢ではあるはずだ。私はそれこそが、人生にとっては重要だと思う。自分が見つけた愛するものを、心から愛し続けるためには、きっと重要なことだと思う。

だから、本当によかった、よかったね、と言いたいです。宝塚雪組の皆様、大千秋楽、おめでとうございます!!!!