雪組「蒼穹の昴」の思い出(玲玲、常蓮忠、岡圭之介)

 雪組のことがとても好きなのでよく見に行っていたのですが後半の感想を書けないままこんなにも日が経ってしまいました。舞台は何度も見るとその度に演じ方が変わっている、とかそういうことが見て取れておもしろいですね、それが真っ当な見方なのかはわからないけど、そこにむしろ醍醐味を感じることもある。セリフは言葉でコミュニケーションなので、ずっと同じではなくどこまで意図的かもわからなくて、繰り返し繰り返し同じ関わりをやることで、本能的に変わることもあるんどろうな。現実ではみることのできない変化なのでそういうところがすごく好きです。

 朝月さんの玲玲は大劇場で見た頃はもっと、(前も書いたけれど)自分が不幸であることにさえ無自覚でいつかそれが死だともわからないまま死んでしまいそうな、そういう「幸せを知らない人の不幸」が詰まった感じがしていて、彼女が銀橋を渡るときの楽しそうな感じ(楽しそうなんです)、マッチ売りの少女みたいだなぁと思っていた。マッチ売りの少女はマッチを擦って楽しい幻を見て朝になると死んでいるんだけど、彼女の死を不幸と言い切れないくらい彼女の生はずっと不幸で(だから幻の幸せで満足する)。玲玲は「お兄ちゃんは成功する」「文秀さんは成功する」という希望を握りしめて生きていて、他人の希望にすがるだけでそれだけで、満たされるくらいの人だと思うし(それは優しいからではなく不幸な生まれだからです)、多分兄や憧れの文秀が北京で成り上がる夢を見ながら飢えと寒さで死んでしまう可能性だってたくさんあって、そのとき彼女笑って死んじゃうんだろうなぁ……と思っていた。それが本当は少しも満たされないことだということを、彼女はどこかで本能的に知ってて、歌の途中兄を呼ぶ瞬間の表情に出るんだけど、その心情を玲玲自身も気づかず、掴めないまま、また歌って自分が不幸とは知らない少女に戻ってしまう。玲玲が不幸だったのは、兄がいなくなる前からで、ずっと苦しくてずっとそこに無自覚で、でも、兄がいなくなって母親が死んで、それで一人ぼっちになって、孤独によって、すこし不幸に気づいてしまいそうな片鱗が見える。孤独で悲しいというより孤独で気づいてはいけないことに今にも気づきそうな危うさがあった。そんな呼びかけだったなぁ。

 東宝の玲玲はそれよりももっと必死で、走っていく兄の背中を本当は呼び止めたかった彼女の声が、歌の合間に「おにいちゃん!」と再生されたようだった。兄が去っていくそのときには(兄を立ち止まらせたくなくて)叫べなかった言葉を、今やっと叫んでるみたいで、孤独というよりは後悔や不安が滲んでる気がした。絶望できるほど世間のことを知らず、自分のことを知らず、でも彼女なりに苦しんで、すこし玲玲が大劇場より幼くなった気もする。自分が背負っているものや、待っている運命の重さを本能的に知っていたのは多分大劇場の玲玲で、東宝の玲玲は痛い・苦しい・悲しいって感知できるものにしょんぼりして、トボトボ歩いて、お兄ちゃんに頼りたいという気持ちがじわじわ出ていて、多分ものすごく「妹」だった。現実を見てたのは兄で、兄に守られた彼女は子供らしい視点で生きてこれて、つらさもずっと子供の目で部分的にみるだけで済んでいた。ずっと兄に頼って、兄のおかげでしんどい毎日も生きてこれた子なんだろうな、という感じがする。 この玲玲の幼さは、そのあとの兄・春児の「痩せ衰えた母や妹のために裸足で駆け回る」のエピソードに繋がってくるように思う。妹がこんな世界でまだあどけないのは、春児が守ってきたからだろうなぁって。そう思える幼さがあるし、でもそういう子が一人きりであんな場所で残されると、生き抜くことはできないだろうなと此方にもわかってしまく危うさがある。

 私はどちらの玲玲も好きで、たぶんこれはどんなふうに彼女の運命を捉えていくか、にもよるように思う。玲玲という人自身の運命が強烈にあった大劇場の玲玲と、春児の妹としてのあり方が刻み込まれた東宝の玲玲。役って、ずっと見守っていると、作品の物語の中に自然と吸い込まれていくところがあり、これはどれくらい作り手が意図しているのかはわからないのだけれど、役の個々のあり方や人生観が独立せずだんだんいろんなものと繋がって見えてくるのが面白い。それは作品の統一感を出すことにも繋がるしもちろん良いことなのだと思う。でも私は案外初日の頃のお芝居を思い返しながらそれを見るのが好きで、それは人と人はどんなに近くても孤立した存在なので、家族だろうが恋人だろうが理解し合えない部分があり、そうした孤独に守られた心が露出するのは初日付近のお芝居だったりするからなのです。玲玲はまさしくそうだったなぁ。そうしてそれは、あの境遇の役においてとても大切なものだと思う。両方を見れたことが嬉しいです。

 私は桜路さんの常蓮忠を当時よく見ていたから、(私が見た公演のうち)ラストの東宝千秋楽でだけ、改革後の追い詰められた文秀が天津に向かうシーン、幕が降りる中最後まで文秀を見守っていた常蓮忠が、ふいに光緒帝を見たのがすごく印象に残っている。常蓮忠は大劇場の頃は李蓮英との対比もあって少しマイペースな穏やかな人なのかなぁというイメージだったのだけれど、順桂の事件のあと光緒帝が自身で改革をすると決めた時の見守る目が、少しずつ父じゃないけど父のような目に変わっていったのをみて、そういえば、光緒帝のことを第一に考えてる人ってこの舞台にほとんど居ないんだなぁと思うようになった。国のことを案じた上で、第二に光緒帝を心配する人はいても、国よりも光緒帝を思う人ってそんないないんだなぁって。そしてたぶん常蓮忠はずっとその立場の人なのだなぁ。だから千秋楽で幕が降りる寸前、賭けとして北洋軍のところに行く文秀を見守って終わるのではなくて、その決意をした光緒帝をみた常蓮忠にすごく「やっぱそうなんだなぁ……」と思ったし、ずっと皇帝として成長しようとしてきた光緒帝を知っている人はこの人なんだなって思ったのでした。こういうのは、本当にずっと舞台に立っているその人が見つけていくものなんだと思う。李蓮英との対比の存在として最初はいた常蓮忠が回を重ねるごとに光緒帝への眼差しを変えて行っていて、それは何度も繰り返し決意する皇帝をその目で見てきたからだろうしこの瞳の変化は大劇場の千秋楽の頃からすごく気になって、いいなぁと思っていた。 それが東宝でより突き詰められてきていた気がして、最後に不意に皇帝を見る姿が私の中ですごく重要だったなぁ。 あと光緒帝が正妻をほったらかしにする京劇のシーンの、皇帝のやらかしを心配する常蓮忠も上司への気遣いがありつつ家族っぽくてかわいくて好きだった。光緒帝は優秀でいて不幸な皇帝だと思いますが、たぶんこういうどうしようもないところもむかしからあったんだろうなとおもうし、それを苦笑しながらもそういう人だとわかっている誰かがいるというのは幸せなことだと思う。光緒帝は優秀で気づかいができて、そういうところを尊敬したり褒める人はいるけど、ダメなところをしょうがないそういう人なんですと受け入れている人がいるのこそ大事な気がする。普通ならそれは親や兄弟がやるけど、そういう人がいないから近くの従者がその役目を負うんだなぁ。このあたりもどんどん「従者として」の流し方ではなくて、光緒帝の人柄を知っている人の流し方になっているのが好きでした。光緒帝は救われない人だけど、それでも回を重ねるごとに周りにいる人たちの皇帝を見る目がどんどん「ずっと一緒にいる人たち」の目になっていて、小さくて淡い救いが生まれていた気がする。こういうのって、たぶん物語を何度も繰り返して公演するからこそなんだろうなあ。本当に「ずっと一緒にいる」ようになるから。あと、常蓮忠は皇帝関連だけでなく、京劇がすごく好きな人、という印象がめちゃめちゃ日に日に濃くなっていて面白かった。周りに京劇の話を観劇しながらしてる常蓮忠を見て、昔皇帝に京劇の見方を教えたのもこの人じゃないかなと思ったりする。

 岡さん。原作を昔読んだ印象だと、「岡さんの目を通じて順桂の事件を見届けた」という感覚が強いから、舞台でもやっぱ岡さんという存在にすごく切ない気持ちになる。それこそ日清戦争での日本の勝利について「清国にいる日本人記者」として話すシーンもそうなんだけれど、「はっきりとした当事者ではないが無関係ではない人間」の痛みがずっとある人なんですよね。岡さん。国の当事者たちとは全く違う痛みの人だと思う。 他国の悲しい出来事に自分は関係ないと最初から断ち切って考えられる人はそもそもジャーナリストにはならないし、でもそうやって断ち切れないからこそ、その場にいて彼はすごく苦しむんじゃないかって思う。そういえば、日清戦争の勝利の後って、原作小説だと岡さんが他国の記者に冷たくなじられるシーンがある。この記者たちがなじるのって岡さんが「日本人だから」で、岡さんが感じている「無関係ではない」の痛みとは全く質が違っている。岡さんは自分の属性や国はいつも取っ払って、清国を見ている。でもだからこそ余計に人として、出来事ひとつひとつに傷ついてしまうんだ。 彼は自分の国や属性に対してはプロとして中立であろうとするし、ジャーナリストとして意識がとてもある人。だから他国に土足で踏み込むような真似はしないし、でもだからこそ一人の人のテロと死を目撃した。順桂の行いに深く関与することはできなかったし、彼の運命を変える可能性には岡さんの手にはなかった。他国のジャーナリストとしては、それは仕方のないことだけれど、たぶん岡さんはこれが耐えられないのではないか。中立でいても、冷静に観察することで全てを感じ取らずに生きることはできない。中立だからこそ、いつもすべてを、人として受け止めて、そして清国でなく、そこに生きる人の姿として見て、そして助けられなかった人・傷つく人を見て、彼自身も傷ついていく。 彼は「人として」の中立はずっと手放すことができていないとも思う。気の毒だと思えば涙を流すし、助けようとする。これは日本人としてではなく常に「岡さん」としてで、非常に個人的なのだ。個人的な心の痛みに対して、正直であり続ける。それがすごくいい役で、そしてジャーナリストの中立とその思いがぶつかり続けている人だとも思った。彼は自分の属性があるからこそ、この国の人たちより積極的に動くことができない。彼が動けば「日本」の動きになることもあるから。だから、全てをかけた最後の救出のシーンは、岡さんにとっても賭けで、なにかを手放したシーンでもあると思う。 ジャーナリストである人が、自分が出会った出来事にさらに踏み込んで関わろう、状況の改善を試みよう、とするのってとても覚悟がいることだと思う。彼がそういう選択に前向きになったのは時代もあるだろうけど、たぶん、傍観者としていることで出会ってしまった「順桂の死」が関係しているのではないか。(これは原作の話だけど。)彼はあの時日本人ジャーナリストとしてではなく人間としてこの国と時代に向かっていくしかなくなったのではないか。自分の立場や仕事の覚悟でいるだけでは、目の前で国を思う志士が死んでいくのをただ目撃することにまたなるのかもしれない。ただしいか、どうかではなく、岡さんがジャーナリストを続けるなら、それはもう彼には耐えられない状態だったと思うのです。そういうふうに考えてみると、あの公使館のシーンの岡さんの涙にも別の意味を感じたりする。彼が文秀たちのために動くのは、岡さんの勇気があってこそだし、原作小説だとより積極的に彼は動く。それらはすべて、彼がジャーナリストであり続けるために、彼の中の「ジャーナリスト」を生まれ変わらせる作業でもあったと思うのです。 人として関わっていく方がいろんなことがより苦しくなるのにそれを選んで踏み込んで、必死で動いて涙してる岡さんは、でもすごく「ジャーナリスト」に見えた。岡さんの差し伸べた手がちゃんと意味を成したことが私はうれしいです。あの瞬間に救われたのは岡さんも同じで、あのことがなければ岡さんはジャーナリストという仕事を続けられたのかな、と少し思ったりもする。彼にとってかなり大きな転換期だったのではないかなぁ。

 ストルーエンセの幕が開いて、さらに今日はボニクラの初日!というときに書くことではないだろという感じなんですけど書きました。実はとある雑誌で始まる連載で蒼穹の昴のことを書いててそこでサヨナラショーのことは叩きつけています、ので、ここでは割愛します。(また告知するのでよかったら読んでください)