無題

僕は職場で、いわゆる外回りをしている。支店を出て、お客さんの家を1人で回って歩いて、という部署にいる。日によっては1人ではなく職場のお偉さんと一緒に外回りをすることもある。

去年の夏だっただろうか。その日はローラー作戦と称して、市内のとある集落を端から端まで回って歩くという日があった。

決まって、そういう日は1人ではなく誰かと一緒に回ることが多かった。その日は珍しく、普段一緒に歩くような上司ではなく、Yさんという普段あまり外に出ない、アラフォーの女性の先輩と歩くことになった。Yさんの息子は僕の父の教え子だったので、就職当初からよくしていただいている先輩だった。

Yさんは、若干不思議(?)な雰囲気を持つ人である。僕と組んで外回りをするのは初めてだったのであるが、出発して5分ほど経った車中で、なぜか「ふっ」とYさんが吹き出した。「なにかオカシイこと、ありました?」と僕が問いかけると、「真面目に運転するんだなー、って思ってさ」とつぶやいた。ちょっと対応しかねる反応だったので面食らって、これはとんでもない外回りになるかもしれぬと思ってしまう。

その集落に着いた。その集落の上の方は未舗装で、上り坂で車は強く縦に揺れ、助手席のYさんは上下に大きくバウンドしていた。集落の一番てっぺんにある家に2人で行って、あれこれ話をして、次は2軒目。

その家の前で車を降りるなり、「おーっと、、」と思った。いかにも人が住んでいるかどうか怪しい雰囲気。縁側のカーテンは閉め切ってあるし、庭の端にはホコリを被った、しばらく動いてない様子の軽自動車が停まっている。せっかく来たのだから、チラシだけでも置いていこうと思い、呼鈴を押す。鍵のかかった扉に向かって声をかける。名乗った上で「ごめんください」。

カーテンの向こうから声が聞こえる。女性の声だ。

「どちらさんすか」
こういうときは無理に出てきてもらうこともない。
「チラシ置いてっていいべが?」
「だば、ポストさ入れてってけらい」と声。
「分かりました。また、よろしくお願いします」

と、その瞬間である。

どこからともなく、ピアノの音が流れ始めたのである。家の中からだろうか。音源なのか、生演奏なのか。

それにしても気味が悪い。僕はYさんの顔を見た。Yさんも僕を見た。
(やばいところに来てしまった)

車に乗り、未舗装の坂道を下り始めた。もう外回りをする気分ではなくなってしまい、終始無言で支店を目指した。道が舗装道路になり、市街地が近づいてきたあたりで、助手席のYさんが、ふと口を開いた。

「あのさ」
「どうかしました?」
「ハルキはさ、誰と話してたの?」
「はい?」
「さっきの家、わたしには、なんにも声は聞こえなかったよ?」


その声の正体は、まだ分からない。