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知りたくて、知らずにいたくて

人に頼るのが苦手で、唯一甘えられるのは家族くらい。幼い頃からいい子のふりをするのだけは得意で、学校から帰っては不満があるたびに家族に当たり散らかしていた。人に本心を見られるのも苦手だし、自分の心だけに留めておきたいことは山ほどある。

それでも誰かを好きになることはできるし、恋愛に大きなトラウマがあるわけでもない。もちろん傷つくことはあったけれど、今ではあんまり覚えていない。好きになる気持ちを忘れたわけじゃないけれど、そんなに人を好きになることもない。だから恋愛前提の出会いやアプリには興味がないし、正直恋愛に限らず人との出会いは偶然性がある方がうまくいっていることが多い。恋愛より楽しいことはたくさんあるし、数は少ないけれど気の合う友達もいる。

会う回数や連絡の数は全く関係なくて、中には数年に一度しか会わない友人もいる。連絡はお互いの誕生日のときくらいで、SNSでも繋がっていないから近況も会ったときにしかわからない。それでも一緒に海外旅行に行ったこともあるし、趣味が違うから互いに別行動だけど、ホテルへ帰ってから1日の出来事を共有する時間が楽しかった。距離感は人によって違うし、それぞれの心地よさがある。彼女たちのことはとても大切に思っているし、できれば一生付き合っていきたい。

人間疲れをしたわけではないけれど、1人でいることも大好き。自分の心の声と向き合って、思うがままに行動する。行きたいと思ったところにすぐ赴けるよう、休日の予定は詰めすぎない。生産性の無い会話をするくらいなら、本を読んで知識をインプットした方がマシとも思っている。自分の心が少しでもネガティブに傾くのなら、関係を切ることも厭わない。そもそもそんなに人の多いところには近づかないし、もしこの先ご縁が本当にあるならば、再び繋がるだろうし。

しかし仕事柄、人との出会いは多い方だ。仕事とプライベートの境界線が曖昧な分、人間関係も割り切れない。好きなことをしているから嫌ではないのだけれど、相手がどう思っているかを考えすぎて、ときどき疲れることがある。そんなのいくら考えても分かるはずないのに。

そんなことが積み重なって、「限界」の文字が頭によぎるようになったころ、仕事で印象的な出会いがあった。土足で踏み込まれるのはすごく嫌いだけど、あなたが入ってきたときは嫌じゃなかった。きっと誰に対してもそういう人なんだと思った。嫌じゃなかった理由を後々考えてみてわかったのは、その人は相手に何かを伝えるとき、人の心に寄り添った言葉を添えていた。ビジネス上ではテンプレートのような言葉ばかりが行き交うけれど、その人の選んだ言葉には温もりがあった。たとえそれがお世辞だったとしても。私は想像力のある人に魅力を感じるのだとそのとき気付いた。

どうしたらそんな言葉が出てくるのか、いつしか私は彼の見ている景色が見たくなった。好きとか嫌いとか、友達とか恋人とかそういう関係でもないし、そんな言葉で定義付けしたくない。特別仲がいいとも言いきれないけれど、話せば心の奥底に眠る言葉をすんなりと伝えられた。もっと解像度高く伝えられるよう、語彙も増やそうと努力した。

けれど、会話の節々に出てくるワードに引っかかったり、彼のSNSを覗いたときには「この人だろうな」と脳裏に浮かんだ。一番無駄な時間と分かっているのに。母親譲りの勘の良さを憎んでは、もうこれ以上優しくしないでと強く思った。家が近いこともあるせいか、たまたま道や駅で会うことも何度かあった。終わりにしようと思って連絡を断つときに限って見かける。電車に乗っていたら彼が女の子と乗車してきたこともあった。気付いていないふりをするのに精一杯。偶然は時に残酷だ。

あなたのことはあまり知らないし、私のことも知られたつもりはない。けれど、私は初めて異性に甘えたいと思った。辛いときに浮かんだのはあなたの姿でした。

今思えば、定義付けしたくなかった本当の理由は、言葉にしてしまえば関係が終わってしまうことに気付いていたから。
自分の中に生まれた新たな感情を認識したとき、時はすでに遅かった。

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