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百人街と呼ばれた建物、青森の駅前銀座のお話


青森駅前の一角に駅前銀座と書かれた看板があります。
この辺りの場所は元々、本町で商いを営む
寺島元太郎(明治40年〜昭和36年)の所有する土地でした。

寺島は寺町において
元は「大五、阿波屋」という
青森の著名人である淡谷悠蔵、淡谷のり子の生家が大火で焼失
その後、その場所を買収して商売を行った人物。

お店の屋号は「寺長」

寺島は終戦間も無く
青森駅前において、
外地から引き上げて
路上生活を余儀なくされる人々を
目の当たりにして
当時の市長である柿崎守忠市長に掛け合い
自身の所有する土地に仮設の住宅を建て
引揚者の救済に役立てて欲しいと提案。

市長も戦災間も無くとはいえ、
寺島の私財を投げ打っての提案に応える様に
早々にバラック長屋を建設させます。

土台もなく、土間に穴を掘って心柱を立てて
軒の低い、まるで江戸時代にある様な長屋でしたが
冬を間近に控え人々にとって、そこはありがたい場所だったそうです。

しかし、生活の拠点を得た引揚の人々ですが
生活する為に支給されたお金も底をつき
次第に生活に困る様になっていきます。

そんな時

青森駅の広場を挟んで南側にヤミ市が開かれ
そのヤミ市にて大きな鍋で雑炊を煮て売っている光景から
自分達も、あれよりうまいものをつくることを思い付きます。
ヤミ市は野天、こちらは土間とはいえ、天井がついてるのです。
それに店らしくテーブルもストーブもあります。
しかも
七輪を店の前の通りに出して、
「いか」、「にしん」、「イワシ」等を焼いたりもしたそうです。

ニシンや、イワシは、外で焼かないと、
煙や匂いがひどいので、外で焼いたのですが
それが良かった
たくさんの客が引き寄せられるようにやってきたそうです。

それに屋内での提供です、
客はゆっくりと飲み食い出来たこともあり
割と長く滞在した為、売り上げも上がったそうです。

そして、素人集団だったのにもかかわらず、彼らの生活も軌道に乗って行ったんだそうです。

そのうち引き上げ者たちは、ヤミ市に対抗して、この界隈に名前をつけようと話し合いをしました。

これまで、ここに居住している人々を
何と呼べば良いのかわからず
新町辺りにいる人たちは
100人ぐらい住んでいるから「百軒長屋」とも「百人街」とも呼んでいたんです。

まだ正式には戸籍に載った名称でもありまん。
百人街の人たちは、広場南の向こうをさして、
あっちが闇市なら、こっちは堂々と「銀座」で行こう。
自分達は正々堂々と銀座を名乗ることを決めて
屋根に「駅前銀座」と書いた看板を掲げたそうです。

コレが駅前銀座の名前の由来なんだそうです。



昔は担ぎ屋というヤミ市に物資を運ぶ人がいて
物をヤミ市に納めたあとに
立ち寄るのが、駅前銀座だったそうです。

そんな駅前銀座に料理の残飯をもらいにくる人たちがいたそうです。

青森の西口方面、今のスーパーユニバースがある辺りにて
豚を飼育していた朝鮮籍の人達です。
大勢の朝鮮籍の人達も戦後その日の暮らしを何とかしようと
必死に生きようと毎日過ごしていたのです。
道路に落ちた釘を集めたりなんでもしていたと言います。

彼らは何故、豚なんか飼っていたのか、

それは密造酒を作っていたからなのだそうです。

どういうことか
すなわち、彼らは土中に瓶を埋め、その地熱で発酵

その匂いを隠すため、埋めた瓶の上にて豚を飼っていた

その様なことらしいです。

このお酒は濁酒でヤミ市などでも評判が良かったそうです。

しかしながら、密かに青森税務署の職員が

そのからくりを見抜き、そのグループを摘発してしまったそうです。

さて

古くから観光客や市民に愛されてきた駅前銀座

駅前銀座の顔として愛された一二三食堂など

廃業するお店もでて来て、ずいぶん寂しくなっていますが

美味しい焼き鳥を提供するお店として人気の井戸端さんなど、まだまだ営業されてるお店もあります。

一二三さんの後に新しく入った天じゅんさんなどのお店もあります。

興味がある方は是非お出かけください。

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記事編集/鈴木勇

本記事は以下の書籍を参考、抜粋して作成しました。

青い森の叙事詩 新町秘ストリー 長谷敬生著






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