見出し画像

チョコミント

あらすじ。
日常では決して交わることのなかったサチノと真造。離れた街に住む二人はとあるブログで互いを知る。同じ寂しさを抱え、同じ言葉に憧れと疑問を持つ二人は少しずつ心を通わせていく。


1プラスチック。


この短い渡り廊下を、限りなく長く感じる切なさ。嬉しさよりも恥ずかしさが勝って、素直になれない気持ちと、それをわかってくれない彼の横顔。


私はそんな恋愛をしたことがないし、甘い恋を味わうことなく死ぬことが、悲しい人生だとも思っていない。




私はサチノ。第一志望校に合格してから、東京で一人暮らしをしている17歳の高校生。そして、負け犬臭をプンプンさせた中年男に、下着を見せたことから私の幸せは始まった。



欲しい物は何でも買える。行きたい場所にはいつだってどこへだって行ける。私は現金というこの世で最も偉大な紙切れでできた翼を早くも手にしたと同時に、夢や未来という翼を自らちぎり捨て、現実という冷めた地に落ちていた。



欲望という金魚鉢。限られた自由の中を、私はいつも好きなように泳いでいる。




学校の昼休みの時間。クラスメートの女子達が恋愛トークで盛り上がる。



毎日毎日、展開のない同じような会話と光景が繰り返されていて、私はそれを、まるでハムスターの回し車のようだと思う。私は彼女達が馬鹿げていると呆れながらも、嘘の自分が楽しそうに笑いながらその場に紛れ、その哀れな群れの中に潜んでいる。



好きとか嫌いとか、愛しているとか付き合うとか、そんなプラスチックばかりを集めた会話。人はきっといつか、心のどこかにある微かな空洞に気づく。



悩める乙女と名乗る生き物は、その眼で見えもしない恋というものでその空洞を埋めようと、あるいは隠そうとする。私にはそれがとても虚しい。



「サチノは恋人いないの?」



「んー、今は欲しいって思わないかな」



クラスメートの質問に、私は苦笑いでそう答えた。すると、恋人がいる人が勝ち組で、恋すらしていない人が負け組。そんな空気が一瞬にして充満する。


恋人がいることがステータス、無い物を持っているステータス。集団、人数が多い方が力を持ち、常識、普通、そんな言葉に近いものが一番正しいと、きっと誰もが思っている。



そうやって負け組に分類された私は、今この瞬間、間違いなく見下されていた。



見せびらかす為だけに作られた、まるで幸せそうな眼の群れに、あるいは概念そのものに、私は一人見下されていた。



恋という言葉を飾り歩く。私はその楽しみを知らない。きっともう私の身体では、恋の意味を理解することができない。




私は家に帰ると制服のままベッドに寝転び、携帯を握りしめながらブログを書く。ブログは私の唯一の趣味で、マメに日記を書くことが嫌いじゃない。



『同級生のお気楽馬鹿とのやりとり』



私は今日あった出来事を、そんなふうに書いた。私が日記を書いた後に、ミニメールを送ってくる人がいる。



ミニメールとは、同じブログサイトを愛用する人同士がネット上で交わすことができるメールのこと。



私はそのミニメールが届くことを後のお楽しみとして、ようやくシャワーを浴びてから軽い晩ご飯を取る。


「お疲れ様。元気?俺は冬眠前の亀くらいのテンション。ずいぶん寒くなったよね」



私が待っていたミニメールは、最近ブログ仲間に登録をしたゼトーさんからのもの。彼は京都に住む22歳の会社員。



ブログ仲間登録とは、互いの承認を得てそれに登録することで、仲間にしか公開していない日記を見ることができたり、互いの最新情報がわかるなど、そういったシステムのことをいう。



私は、知らない人達から送られてくるたくさんのミニメールを削除しながら、ゼトーさんのミニメールを探す。私のブログには異常な数のミニメールが届き、その原因は自分でもわかっている。



それは私のプロフィールにある、セックス依存症、援交、という言葉、というエサ。腐ったものだからこそウジ虫はわく。私はそういう生き物で、男もそういう生き物。見苦しい背伸びと快楽主義、人は生きるほど死を汚すから。



ゼトーさんに返信をする前に、不要なミニメールを削除する。その作業はまるで、わざと置いた角砂糖に群がるアリを、一匹一匹殺していく行為のよう。



「京都は寒いのかな?今日の東京は暖かかったよ」


私は削除作業が終わるとそう返信した。私がゼトーさんとブログ仲間になったきっかけは、彼が詩人だから。私も詩を書くので、その共通点から。


彼はただの詩人ではなく、きっと人の言葉にとても敏感で、同じ言葉でも一人一人違う意味を持つその重みや臭いに過剰反応するような、何よりも綺麗で深い闇を抱えていそうだから。



そして、人間らしい汚さと素直さを感じる彼の詩。例えば、恋。彼は恋を何よりも美しく儚いものだと願う夜もあれば、どんなに美味しくて豪華な食事でも食べればただの糞になると、そんなふうに言い切る朝もある。真実と向き合う彼の詩に、私は惹かれている。



ブログ仲間になって、私の全ての日記が見れるようになった彼は、私が日記を書くとそのタイミングでミニメールをくれることがよくある。



「返事ありがとう。昼間は暖かくても夜は寒いかもしれんし、あったかくして寝ーよ」



返事ありがとう。本来なら当たり前の言葉なのに、私はいつも彼のその言葉が引っかかる。私がどれだけ愛想無く適当に返信しても、彼は必ずお礼を言ってくる。


2恐怖の大王。



小汚い男。会話理解能力が低そうで、友達もいなければたぶん仕事もできない。現在の趣味も、現在の自慢話もない。



いったい何十年前の話だと言わんばかりのかなり年季の入った学生時代の武勇伝を語る。きっと、何度も何度も話してきたのだろう。本当につまらなくて可哀相な男。



「あなたの頭の中ではいつもそのシーンが流れているの?それだけでいつも笑って生きていけるの?」



男が私という人形で快楽に満ちようとまぶたを閉じた時、私はそれをじっと見ながら男の影に覆われて、心の中でそんな質問をする。



流れる音楽に心を委ねながら、死にたい理由について、生きる無意味さについて、狭い空間で二人。定められた自由の中で、光を奪われながら私は一人想像していた。



『セックスは音楽が流れているほうが楽』



そうやって数枚の紙切れを手にした私は、ブログでセックスのことを書いた。すると、数少ないブログ仲間達が、



「あ~なんとなくわかる」



「私は明るいところがダメ」



当たり障りのないコメントをくれる。


コメントとは、誰かが書いた日記に対して感想などを書き込むことができて、そのやりとりや内容は日記と同じように皆に公開される。


コメントが多く残る日記を書く人は読者が多くて人気者。つまりそういうことになっている。



「お疲れー。今日はコンビニでおでん買ってん。ちくわ3つ食べるねん」



しばらくすると、ゼトーさんからのミニメールが届く。ゼトーさんは私の日記にコメントをしない。そして、日記を書いた直後にミニメールを送ってくるくせに、日記の内容には絶対に触れてこない。



理由を聞いてみたいけど、コメントをくださいと言っているようなものだから私からは何も言わず、


「ゼトーさんは今日も元気そうね」



と、当たり障りのないミニメールに当たり障りのない返信で応える。



「別に全然元気はないけどね。俺の元気は仕事中限定やからね」



こういうところ…こういうところだ。



気楽で軽い口調のミニメールを送ってきたり、おちゃらけてふざけた日記を書くくせに、きっとどこか冷めていると私は思う。



時々悲しい詩を書いているから、余計にそう思えてしまう。私と少し似ていると感じるところがあって、私は自分の心と答え合わせをするかのように彼の日記に夢中になる。そんな彼に魅力を感じているのかもしれない。


「せっかくのサチノさんの日記を俺のコメントで汚すわけにはいかないし、それに、人前に出ることはネット上でも苦手やからね」



ウトウトしながらやりとりをしていると、ゼトーさんの返信を見て思わず目が覚めた。半分寝ていた私が、日記にコメントをくれない理由を遠回しに聞いてしまったのかもしれないと、急いで履歴を見直す。



「私は誰かの日記にコメントを入れるのが苦手。意見やアドバイスが他の人に見えるのが嫌かな」


私はなぜ、こんなことを言ったのだろう。私は携帯を握りしめながら、本音を徐々に打ち明けている自分に恥ずかしさを覚えた。



「明日は早いから今日は寝ます。楽しかったよ。今日もありがとう。おやすみ」



私が返信する前に、ゼトーさんは眠りについた。私はそれに返信することもなく、起きている理由もなくなったので、半分だけ起きているほうの脳が描くつまらない空想と共に眠りについた。


「私はブログ仲間が50人いるんだ」



「私は全国の人と仲良しだし、3年の細見君ともブログ仲間なんだー」



翌日の昼休み、ブログ仲間の数を競うという謎のゲームで盛り上がる会話の中に私はいた。数で寂しさを埋められる幸せな同級生達は、そんなことを言いながら湿気たマッチ棒を必死で燃やす。



私のブログ仲間は6人。量よりも質の関係がモットーで、本当に愚痴を聞いてくれる人しかいない。私がブログをしているのは2つの理由がある。



1つ目は本当の自分、裏の自分を確保する為。つまらない学校生活を私は自分と周りに嘘をつきながら過ごしているから、ブログを本当の自分を映し出す鏡としている。



本当の自分を同級生や身近な人に知られるわけにはいかないので、学校ではブログの話は極力しないようにしている。だからブログ仲間は、私を知らない人であるということを絶対条件にしているけど、一人だけ顔見知りがいる。



2つ目は、その存在との答え探し。彼氏、セフレ、財布、飼い主。たくさんの関係を持つその存在は、副作用のきつい万能薬。いや、覚醒剤と言ってしまったほうが簡単かもしれない。やめたくても欠かせない存在。



45歳の武雄。私という女の人生の序盤に、金を流し込んできた元凶。あるいは神様というに違いない。武雄にとって私は、トイレのような嫁候補だけど、私にとって武雄は…。


考え始める足場すら見つからない。最高の幸せと背中合わせの不安を、本人が読んでいるかどうかもわからないブログで訴えている。


ある日、真夜中に目が覚めてしまった私は、なんとなくゼトーさんの日記を読み返していた。


『石鹸』


私のお気に入りの詩。ゼトーさんが書いた詩は、悲しいのにぬくもりを感じる。きっとゼトーさんは、手放すことのできない寂しさをずっと抱えている。



「大丈夫?目が覚めちゃったの?」



すると、ゼトーさんからミニメールが届く。時計は夜中の3時半。明日も朝から仕事へ行くゼトーさんは、眠っていないといけない時間だ。


「え?なんでミニメールくれたの?」



「サチノさんがログインしてたから」



ブログ仲間同士は、このブログサイトに最終ログインした時間がわかるようになっている。真夜中に起きている私に気づいたゼトーさんは、わざわざミニメールをくれたのだ。



「寝なくていいの?」



「雨音が聞こえてきてさ、嬉しくて起きちゃった」



「どうしてそんなに雨が好きなの?」



ゼトーさんは雨が好きで、プロフィールにもそれは書いてある。理由を尋ねるとゼトーさんはそっと教えてくれる。




雨はすぐ近くにいてくれるから。
また必ず会いに来てくれるから。



嫌な記憶が嫌な耳鳴りに変わっても、雨音が忘れさせてくれるから。


出勤前の大人達にも学校帰りの子供達にも嫌われて、それでも雨は雨として降り続けているから。


大人は大人に嫌われることを恐れて、自分が自分でいることが難しい。




だから、ただただ降る雨に憧れているだけ。




昼間に同じ説明をされていたら、必死に綺麗だけをかき集めたようなそんな発言に私は間違いなく吐き気を覚えたはず。



でも今の私には、思わず不安さえ打ち明けてしまいそうなくらい、深い場所にゼトーさんの言葉が溶けていった。



「ゼトーさんって恋人いるの?」



真夜中の雰囲気にのまれてしまったのか、嫌いな恋愛トークを自ら持ちかけた。



「今はいないし、しばらくは一人でいる予定かな。俺は素敵な女性一人を幸せにできないような、どうしようもない男やからね」



ゼトーさんは過去の自分を責めていた。何度も何度も過ちの瞬間を脳内で繰り返し、自分が何をしたのかを、これからどうするべきなのかを考えているという。



私はどうだろう…私はこんな自分を責めることもせず、誰を責めて誰を見下しているのか。



普通でいい。普通がいい。



誰が言った?そんなこと。
普通って何?どんなこと。



普通になりたいのに、
普通に押しつぶされそうになる。
空から来た恐怖の大王は、普通だった。


3文字の人。



真夜中に起きてしまったこともあって、今朝からずっと頭が痛い。いつまでも繋がっていたいと願った夜は、私の眠りで途切れていた。



「どんな気持ちで作ったのかな?とても寂しい気持ちになります」



私は学校の休み時間に、ゼトーさんの最新の日記ではなく、あの詩を書いていた少し前の日記にコメントを残した。



「寝てしまってごめん」



単純にその一言が言い出せなかったからなのかもしれない。



「誰とメールしてるの?彼氏?」



「まさか。ただの友達だよ」



クラスメートに聞かれた私はそう答えた。本当は友達でもない、ただの人。




人でもないか、携帯の画面に並んでいる文字だ。




その文字が、その文字の人が並べる言葉の群れが、私の生活にこんなにも影響している。私がまだ知らない気持ちが私の中に生まれようとしている。
時々、そんな気がする。




放課後になってから私がコメントを残した日記を見ると、ゼトーさんがコメントを返してくれていた。



「寂しさを寂しさで埋めてもどうにもならなかったって時に作りました。少し前の自分は寂しさから逃げて、新しい寂しさを欲しがっていましたね」



セックス依存症…私の中にそんな言葉がひとつだけ浮かび上がってきた。



『冬服いっぱい買うぞー』



私が日記を書けばゼトーさんはミニメールをくれるはず。自分からミニメールを送ればいいだけの話だけど、なぜかそれができない私はゼトーさんのミニメールが欲しくて、それだけの理由で日記を書いた。



だけど、その日はゼトーさんからミニメールがくることはなく、何もない無駄な時間として過ぎ去った。



ゼトーさんは表現力があって日記はいつも面白くて、彼にはブログ仲間が30人くらいいるけど、そのほとんどの人がコメントをして、みんなで楽しそうにしている。

彼は私と同じように、身近な人や知人はお断りするというスタイルの持ち主でブログ仲間にだけ日記を公開しているから、彼がいう最小限の人付き合いの意味がよくわかる。

彼のプロフィールでは、



「とりあえず自分の周りだけは幸せでいて欲しい主義です。たとえその一日がどうであっても、ここを楽しい場所にしたい。みんなで仲良くやりましょう」



と、宣言している。本当に1つのチームというか、まるで1つの家族空間みたいで、私はその中に入りにくい。



ゼトーさんが皆と賑わうコメント欄や、彼のプロフィールを再度見ただけで激しい孤独感に襲われてしまった私は、夜中に虚しい日記を書いた。



「お疲れー。ご飯はちゃんと食べた?家が近かったら温かいおでんでもコンビニで買って持って行くんやけど、東京まで持って行ったら冷めちゃうからね」



日記を書いてから数分後、ゼトーさんからミニメールがきた。その瞬間、同時に湧いた苛立ちと喜びが眠気ではない頭の中のモヤモヤを裂き払った。だけど、返信に迷った。内容よりも、返事をするかどうかを迷った。



「また目が覚めたの?」



素直な私が強がりな私に圧勝した。本当に戸惑っていたのに、私の右手はすぐに返信を打って送信ボタンを押した。



「今日はちょっとドライブしてたよ」



私はゼトーさんの返信を見た時、きっと異性と過ごしていたに違いないという気持ちと共に軽い脳震盪のようなものに襲われた。



仮にどんな容姿であっても、ゼトーさんみたいな真面目で誠実な考えと性格の持ち主を、世の女性が放っておくはずがない。



そういえば、ゼトーさんのブログ仲間の出身地。ブログ上で出会った知らない人ばかりだと彼はいつか言っていたけど、どうして関西の人が多いのだろうと、心のどこかで思っていた。

あわよくば会おうと、出会いを求めているからなのだろうか。結局は彼もどこにでもいる欲望に支配されただけの男なんだ。



その時、私はふと思い出した。恐くて忘れようとしていたことがあった。それはゼトーさんが数日前に昼ご飯のことを書いた日記のコメント欄。彼と同じ京都出身の女性が、



「私もグラタン好きなんです。良かったら一緒に行きましょうよ」



そんなコメントしていた。彼はそれに対して、



「そうですね。お互いのタイミングが合った時は、ぜひ参りましょうぞ!」



そんなことを言っていた。私はそのやりとりが嫌だった。ヤキモチなんかじゃなくて、私とゼトーさんは、住む場所もやりとりも、こんなに離れているということを思い知らされた気がしたから。



「おでんって、またコンビニの?」



私はドライブの話は無視した。



「そうそう。ちくわがめっちゃでかくて美味いんよ。届けられなくてごめんね」



「コンビニは東京にもあるから」



「あぁ、そういえばそうか。それなら温かいおでんが食べられるから心配ないね」



「別に食べたくないから」



「食べたくなっても、夜中に女性一人で歩くのは危険やからあかんで」



ドライブ帰りのゼトーさんは、明らかにいつもよりテンションが高い。ミニメールでもそれが十分に伝わってきた。



「私みたいにデブでブスで醜い女には誰も興味を持たないし、襲われないから大丈夫」



私はそんな彼のテンションを下げたくて、思わずこの単語を使った。体だけを狙い、欲望処理目的でミニメールをしてくるしつこい男には、こう言うとだいたい片付く。男が妄想だけで快楽を得ることができる動物なら、その妄想を断ち切る。



「男より醜い女性なんて、この世にはいないから。そんな風に言わなくていいんやで」



なんともゼトーさんらしさが出た返信がきた。私はこの世に存在するデブでブスで醜い女達に嫉妬さえ覚えた。

勝手に嫌な気分になり、使ってはいけない単語を使用した私は、仲直りの方法がわからなくなり自分の子供っぽさが恥ずかしくて嫌になる。



「俺は全身が納豆と同じ臭いがしていてハゲ散らかしています。その代わりに手も足も毛蟹くらい毛が生えています。性格はさらにひどいことになってるよー」



でも、ゼトーさんの切り口と立ち回り。きっと彼は私の感情の上下にも気づいていて、それをうまくなだめる言葉の並べ方も知っている。



「ドライブ楽しかった?」



本当はただ単純に、私は彼のドライブの相手だけがずっと気になっていた。知りたいけど聞き方がわからない。それだけのことだった。



「寂しさを寂しさで埋めていた時に比べたら、一人はずっと楽しいよ。まぁ、寂しいけどね」



ゼトーさんが一人でドライブしていただけという事実にホッとしながらも、ゼトーさんの寂しい発言が鋭く突き刺さってきた。



『石鹸』



私はその詩を思い出していた。セックスだけで大人になった。そんな珍しくもない女子高生が、隠したままいつか忘れていた気持ち。

そんな繊細な場所に不意に届いてしまった詩。それを思い出した私は、わけもわからずに泣き出してしまう。



「私は一人で生きることができない。でも人が嫌い。一緒にいたくない。寂しいけど、誰ともうまく付き合えない」

他人には言えないことをゼトーさんになら言える。そんなわけじゃない。絶対にそんなわけじゃないけど、ゼトーさんはすべてを話さなくても私の心に気づいてくれているから。

いつからか、いつの間にかそんな気がしていた。



「一人で生きなくてもいいから、自分を責めちゃダメやで。悪いと思ってもさ、まず自分のことを自分で許してあげてよ」



そんな単純な言葉が、もう私には嬉しかった。

そして、その言葉で気づいた。ゼトーさんが私にミニメールをくれる時は、私が日記を書いた時ではなく、私が日記で自分を責めていた時、ひどく落ち込んでいた時ばかりだった。

彼はいつもとぼけて、日記に関係のない内容を送ってくるから気がつかなかった。



「いつもミニメールくれてありがとう。本当はいつも待ってたの」



ゼトーさんが素直にした私は小動物のようにおとなしくいい子になり、やっとお礼を言うことができた。



「ううん。なかなかその寂しさを触れなくて、いつもアホなことしか言えなかったから」



「寂しい。いつも寂しい」

「触れる勇気がなかったんじゃなくて、訳を知ってあげたかったから。ごめんね」



「辛い、しんどい。全部恐いよ」



「辛いって言えて偉いよ。教えてくれてありがとう」



私はその晩、見たことも声を聞いたこともない、実際にこの世に存在しているかもわからない。



「ゼトー、22歳会社員B型」



という文字だけに温もりを感じて、まるで愛し合う恋人のように、携帯を抱えながらたくさん甘えた。



「ゼトーさんって、なんでゼトーさんなの?」



「喘息持ちの後藤君、略してゼトーやで。ちなみに本名は真造」



「真造ってかっこいい。名前で呼んでもいい?」



「いいよ。サチノさんだけ特別にあげる」



「私のことも、サチノでいいよ。みんなそう呼んでるから」



「俺は人を呼び捨てにしない家庭で育ったから。サチノさんのままがいいかなぁ」



度々ある彼のこういう発言に魅了される。偉そうにすることなく、相手を思いやる気持ちを私は知る。



「私も、真造さんって呼ぼうかな」



「さん付けはちょっとくすぐったいよ。俺のことは呼び捨てしてくれて構わないよ」



私は真造と呼び捨てすることはできず、君付けにすることにした。

たくさんの大人と出会い、暗闇を共にしてきたけど、こんな人はいなかった。だからこの出会いが本当に嬉しくて、そう思える自分がいることにも気づいて、私は幸せだと思った。



高校生になって一人暮らしを始めてから、初めて温もりを感じて眠った。ずっと見下してきた恋する女の子に、私はなりたかったのかもしれない。

今夜の彼とのやりとりが楽しかったのは、私が彼に近づいただけ。真造君はいつも近くにいてくれたんだ。私は幸せの意味の切なさや、その背中合わせにある言葉さえ忘れ、与えてもらった安心と共に眠りについた。


4群がるアリ。



朝、アラームを止める時、頭に重みを感じる。憂鬱な朝がきたとその重みが全身に伝わる。



もう一度鳴るまで眠ろう。



そう思った瞬間、パチリとまぶたを開いた。また私で眠ってしまった。返信がしたい。返信がしたいというより、真造君の返事の内容を覚えていない。私は慌てて携帯を触る。



「オヤスミ、王子様。夢で会えますように。もし夢で会えたら抱きしめてください」



昨晩は真造君が先に眠っていた。私は自分が最後に送信したミニメールを見て、恥ずかしくて死にそうになった。



真造君はこの内容を確認していないのだろうか。どうしてここでやりとりを止めてしまったのか。私はそんな真造君の睡魔を少し憎らしく思おうとしたけど、なんだか口元が緩んでしまう自分にも気づく。胸の中には真造君からもらった言葉のぬくもりがまだ残っていて、そのぬくもりがゆっくりと私の身体を動かしていく。



私は制服に着替えて大きく息を吸い込み、学校という施設に向かって歩き出す。きっと楽しい1日になる。今の私なら1日を楽しく迎えることができる。こんな気持ち、東京に来てから初めてだ。



初めてだったのに、せっかく楽しい気持ちで通学できたのに、渡り廊下で男子が声をかけてきた。



「ちょっといい?番号教えてくれない?」



学ランについているバッジを見ると、男子は1つ上の学年。まるで自分が一番格好良く映る角度をわかっているかのような、自分のお気に入りの高さから振り落とすような、わざとらしい高い声と話し方が気持ち悪い。



「…なんでですか?」



「友達になろうよ。番号教えてくれない?」



カッコイイ、キレイ、オシャレ。そんな言葉を欲しがる。いや、まるで押しつけるようなダサい表現が滲み出た態度。1ミリの魅力も感じなかったけど、私は断り方を知らなかった。



「またメールするね」



私がアドレスだけを教えると、男子はそう言って馬鹿みたいにはしゃいで消えていく。その先では、それを馬鹿みたいにはしゃいで迎える他の男子達。



また人数だ。ここにもまた人数。私はまた人数に制された。見下ろされていた。



本当に断り方がわからなかったの? 単に心細くなってしまったんじゃないの? 恐かったの?怯えてしまった自分を認めたくないんでしょ?



脳がそう問いかけてくると、自分の中にいる弱くて可哀相な自分が見えてしまいそうで辛くなる。私は早歩きで教室に入った。



「サチノ~? さっき、細見先輩に声かけられてなかった?」



「あの人が細見先輩なんだ。アドレス聞かれただけ」



「えー! サチノ、細見先輩と付き合うの!?」



「なんでよ。そんなわけないじゃん」



「えー、なんで? なんで?」



教室に戻るとクラスメート達が騒ぎ出す。またこの感じ。また人数だ。1つの角砂糖に群がるアリだ。



「私、好きな人がいるから。日曜日も会うことになってるし」



私は更に甘い角砂糖を投げてしまい、アリ共はさらに群がった。私は気持ちを切り替えて、次の日曜日は京都に行って真造君に会う。そんなことを勝手に思っていた。思っていたのに…。



「今日会うぞ。何時に学校終わる?」



武雄からメールがきていた。学校は火曜と木曜は早く終わる。そんなことは最近知り合った真造君のほうがよっぽど知ってくれている。私に興味がなくて、私の体だけを求めている男なら当然のことだろうけど。



「3時」



「だったら7時に駅」



だったらって何? 4時でも、5時でも、返信はきっと同じだった。学生を、子供を、女を、私を。武雄は全てを馬鹿にしている。いや、馬鹿にしているどころか興味すらない。あるのはその身に湧く欲望だけ。



でも、私はもう武雄を断ることができない。



知識揃えた本棚倒れ、最後の命の蝉のよう。飛ぶことできずに夢崩れ、世界動かす紙切れが舞う。世界動かす紙切れ見てる。見てるだけ。見てるだけの私。



「ずいぶんうまくなったじゃないか」



武雄が嬉しそうに言う。私は武雄の操り人形。
その糸はどこに?身体に。心に。



声が漏れ鼓動が高鳴り、平然を装おうとする私が快楽に殺される。



「男より醜い女性はいない」



真造君の言葉が操り人形の胸の中を泳いでいて、それが涙と共に外に落ちて、私はまるで本物の人形になった。



気がついた時には落ち着きに向かって息を吐いている。私は裸のまま、冷たい掛け布団にひとりぬくもりを求める。



武雄は電話で部下を叱りながら火のついたタバコを持ち、テレビの明かりに照らされていた。



欲望を満たした二人。彼は満足したのだろうか。私はこの空間を求めていたのだろうか。今、誰かが得をしたのだろうか。



「次の週末は下のちびが野球の合宿で嫁と出掛けるからあけとけよ」



武雄は通話を終えて携帯をおくと、今度はテレビのリモコンを持ち、チャンネルを変えながら私にそう言った。



日曜日は真造君に会いに行きたい。でも、真造君は急に言われたら今の私みたいに困るかもしれない。



武雄は嫌いだけど、何一つやめることができない。それはおそらく、武雄との関係が嫌いではないから。



セックス、お金、リスカ。衝動と自傷を繰り返す私。真造君がこんな私なんかと会うはずがない。



真造君とのやりとりが嬉しくて、1日が楽しくなるような気がして飛び出していたマンションに、私は落ち込んで帰っていく。



「あ、コンビニ…」



私は帰り道におでんを買って帰った。真造君を喜ばせたくて、コンビニのおでんの写真を載せて日記に書きたいと思っていた。



でも、買ったところで元気が無くなっていた。部屋に入ると私は食べもしないおでんをテーブルに置き、そのままベッドに倒れた。



しばらくすると携帯が鳴る。昼間の男子からメールがきた。



「俺、細見。サチノちゃんにメール届いてるかな?」



返事をしたくない。でも、しなきゃいけない。なぜしないといけないのか。私が弱いから。自分に嘘をつかないと自分を守ることなんてできないから。



真造君助けて…。



誰から?男子からでも武雄からでもない。私を責めてくる私自身の思考から救い出してほしい。私は心の中で真造君の名前を呼びながら彼の日記を見に行く。




『馬をさがしてます』



真造君は日記を更新していた。



「か弱い少女から王子様依頼を受けたので、とりあえず馬を探しています。王子といえば馬っしょ。黒鹿毛で、できればダート向きの力強い馬のほうがいい。雨大歓迎みたいなやつね」



真造君のくだらない日記に救われた気がした。思わず笑みが溢れた。日記の内容が面白かったわけではなくて、昨晩の私達のやりとりを思い出して嬉しくなった。安心して泣きそうにもなった。



真造君が書いたその最新の日記にはいつもよりもコメントが少なかったので、私は思いきってコメントを入れてみる。



「ダートならオネガイゼリチャン産駒がいいかもね。それか、ナスノカバヤキン産駒」



ギャンブル好きの武雄と一緒にいることもあって、私は少しだけ競馬のことを知っている。真造君はそんな私に面白おかしくコメントを返してくれたけど、なぜかまた私の心は沈んでしまっていて、今度は理由がわからない涙が流れ出す。



真造君は間違いなく純粋な人で、それはどれだけ汚れても変わらないこと。それに比べて私は、援助交際を繰り返し、親のほうが歳が近い彼氏がいて、異常な紙切れと無駄な知識だけが頭上を舞い、その真下で私は鳴いて踊って。



ある程度涙を流すと、大きな空白が私を襲う。明らかに低下していく思考はどうすることもできない。



また誰かとセックスするのか。
衝動買いで満たすのか。



ふと気がついた時、私の右手にはカミソリ。太ももは血だらけになっていた。


「この空白感はゼトーさんなんかには埋められない」



私が病んだ日記を書くと、真造君はすぐにミニメールをくれた。私はそんな真造君を再びゼトーさんと呼ぶようにして、ひどいことをたくさん言った。真造君は私の苦情処理係でも、私だけのゴミ箱でもサンドバッグでもないのに。



それから二人は途切れてしまい、私はその日から、日記を書くこともやめてしまった。


5石鹸。



土曜日の朝、鏡に映った私は、もう私ではなかった。化粧も服装も武雄の為だけのものになり、田舎娘でも女子高生でもない、まるで大人の女がそこにいた。鏡の中の自分の眼を見つめても、なぜか自分とは目が合わない。幼さだけではなく、悲しさも化粧で誤魔化しているようだった。



武雄のブランド品の1つになった私は、遠い街でまるで恋人のようにその身に寄り添う。そして、場所を変えながらセックスを繰り返す。



「ほら、飲めよ」



薄暗い部屋の中、深く沈む座りにくいベッドの上にいると、武雄が缶ジュースを私の元に投げた。



あっという間に弾けて消えた記憶と、甘酸っぱさがまとわりついて残った嫌な思い出。このレモンスカッシュはセックスに似ていた。



武雄はセックスが終わるとしばらく私には興味が無くなる。そんな時でも私が携帯を触ることだけは異様に嫌うから、私は空になったレモンスカッシュのラベルを見ているようで、見ていないようで、何もできずにいた。



武雄がつけていたテレビでは、SNSで知り合った男女が殺人事件を起こしたニュースが流れる。こいつらは馬鹿だなんて言いながら武雄は酒を飲んでいた。



殺したり殺されたり、それを愛だと感じた私はどうかしているのだろうか。もしこれから誰かと付き合って、その人を好きになって、なのに今の私達みたいに欲望に支配されてこんなふうになってしまうのなら、幸せのまま素直に殺してほしい。



誰に殺されたい?



今の私なら…。




日曜日の昼間、武雄は急用ができたと言って私を街に放した。急用ではなく、性欲が満たされた分だけ別の心が空っぽになって、舐めるしか能がないサチノという名のバター犬に存在価値がなくなったのだと私は思った。



予定よりも早く一人になった私は、廊下でアドレスを教えてしまった男子に返信し忘れていたことを思い出し、なんとなくメールをしてみた。



「金が無いから家に来る?」



次の私は、気づけばもう男子の部屋にいた。学生は貧乏だと思いながら、親に見つからないように隠しているコンドームを探す男子の背中を見ていた。



「ハァハァ…どう?気持ちいい?」



「ん?気持ちいいよ?」



セックスの途中で少し黙って見つめると、いちいちそう言って確認してくる。そうやって、無意識に相手の経験値を計ってしまう。

私はいったい何をしているんだろう…。


「私が変な噂を流したらどうする?」



なんの楽しみもなかった行為が終わった後、私は軽く笑いながら男子にそう言ってみる。



「は?何?」



たったその一言で少し怒った顔をした男子に対し、私は冗談だよと笑い、しばらくしてから男子の家を後にした。男子は何も知らないなりに、抱きしめたりキスをしたりして愛情を表現したみたいだったけど、今度はまるで私が武雄のようになっていた。



少し街に出て、買ったところで箱を開けるかどうかもわからない物をたくさん買う。このまま家に帰って、ひとりぼっちになった自分が何をしてしまうのかがわかってしまい、それが止められないこともわかっていた。



だからというわけではないけど、いろんな店を巡り、たくさん無駄遣いをした。お金を使うことで脳内の毒素も消費しているような感覚になる。



それでも、全ての毒素は消えていなかった。家に帰った私は狭くて暗い部屋の中で、自分の太ももを傷つけながら泣いていた。痛みで泣いているのか、自分が可哀相で泣いているのか、その涙のわけもわからずに、まるで肉になる前の豚みたいに、無様に、哀れに、声を出して泣いた。



少し落ち着くと、テーブルの上にあるコンビニの袋が目につき、食べもしなかったおでんを捨てる。思い返せばあれも1つの、真造君という名の衝動だったのかもしれない。



「私とエッチしたい?」



私から真造君にミニメールを送るのは、たぶんこれが初めて。その内容がこんなことだなんて、たぶん二人は想像もしなかっただろう。



「おっつー。急にどうしたの?俺は今日ヨーヨー買ったよ。すごい懐かしくてね。俺、ヨーヨーめっちゃ上手やねん」



彼はまたへらへらとマイペースで質問に全く関係のない話題を持ち込む。それにムカついた私は、



「質問に答えろ」



と、偉そうに返事をした。



「いつもふざけてごめんね。本当はもっと話を聞きたいよ。いつか聞かせて欲しいっていつも思ってたんやで。でも、無理矢理こっちから聞くって違うし、まだわかってもいない悲しみに触れる勇気もなかった。いつもイライラさせてごめんやで」



真造君はずっと大人だった。グズグズとやり合う時間がほとんどない。本当はそれは大人じゃなくて、素直な子供というのかもしれない。



「ごめんなさい。急に変な質問して、勝手にキレて…」



「ううん、袖をつかんでくれたみたいで、すごく嬉しかったよ。ミニメールくれてありがとう」



彼はまたお礼を言った。それだけで涙が出てしまう。私は自分の不安を全部話した。セックス依存症について、武雄について、援助交際について、リストカットについて。



「うん、わかるよ。辛いよね。俺も少し前まで乱れてたから、似てるのかなって思ってたよ」



私が一方的に話し終わった後、真造君は自分の過去を話し出した。真造君は長過ぎた春を終えても、よりが戻る瞬間を夢見ながら、ずっと頭の中の時間を止めていたらしい。そして過去の恋人に、夢見ることすら罪だと言われた彼は、二度と戻れないように、自分が二度と戻れると思わないようにと、自分を傷つけ汚し続けていた。



「だから、サチノさんとはエッチできない」



「私も前から似てると思っていたよ。なんでエッチしてくれないの?」



「なんとなくわかってしまうことが気持ち悪くて、それが今は怖い。どんな人とどんなことをしてきたのかがなんとなくわかってしまうから、後から吐き気がしたり悲しくなったりする」



真造君は、私と全く同じ感覚を持っていた。私達は本当に似た者同士だと思った。



「私も勝手に似ていると思ってたし、その話はすごくわかるよ。私も相手の経験値とか、何で喜んで何が好きとか、わかってしまう…」



「そんなことがわかってしまう自分が気持ち悪いとかね」



「うん、そうだよ。そんな自分が大嫌い」



真造君は、私が私を嫌う理由を全部知ってた。それはきっと、私みたいな馬鹿な女と何度も何度も寝てきたからだと思う。



そう思うと悲しくて、今の真造君も悲しくなっていることに気づくと、また涙が止まらなくなる。



「いい気味やで。俺はこれを自ら望んでたんやから。でも、サチノさんは違うからね。自分を責めたらあかんねんで」



彼のあの詩がいつも心にある私には、彼の優しさも悲しかった。私達の関係は、仮にどれだけ二人が望んでも、幸せな恋人同士にはなれない気がした。



そう思うと私は急に不安になって、気が狂ったかのようにまた暴言を吐いた。



真造君はちゃんと幸せになるべき人。ちゃんと幸せになれる人。心が綺麗で素敵な人なんだと思う。私達は出会わないほうが良かった。私は真造君の返信を見ずに、彼の過去の日記の、あの詩をもう一度見に行ってから、携帯の電源を落として眠りについた。



『石鹸』




記念日も思い出の品もない二人

寂しさ分け合うその一瞬

まるで恋人のように

心の隙間を静かに埋め合う



手のひらの上に空

差した指先のむこうには星

拾い集めた恋のうた



名前も知らない恋人と

この瞬間を慰めている



子供が描く夢のように

泡立てた無知の愛

立つ香りは

まるで専門家が並べた文字



それで何を洗い流し

それから何を想う


その真っ白に依存にして

どれだけ袖を汚しても

その手も心も灰になる未来



いずれ来る寂しさをごまかして

嘘でも笑える大人だけど

本当に楽しく笑ってしまうと

二人は子供のように泣くのだろう



恋人が愛し合うように

何よりも汚れて

血だらけのままでも


泡立て擦り減る



白い石鹸


6チョコミント。



やっと全てを打ち明けてやっと二人の心が通ったはずなのに、ひとり不安に襲われて、また一方的にキレてしまって、携帯の電源を切って眠りについていた。



真造君を心配させたい…。



携帯の電源を入れようとした瞬間、そんな考えが頭の中に浮かぶ。そんなどうしようもないことを思いつく時に限って、どこからか湧いてきた意志が強く働いてしまい、私は携帯を家に置いたまま学校へ行った。



そして、何事もなく過ぎ去った一日の終わりが近づいた頃、真造君が心配してミニメールをたくさんくれていることを期待しながら、携帯の電源を入れる。



相変わらず多いゴミメールを消しながら真造君のミニメールを探す。でも、あれからミニメールは一通も届いていなかった。



その時、ようやく冷静になる。昨夜の自分がしてしまったこと、今日1日を自分だけが気楽に過ごしていたこと。今日がこんなにも落ち着いていたのは、一人だけ優位に立った気になって、自ら断ち切ったくせに真造君が必ず来てくれると思い込んで、それを楽しみにしていたからだった。



真造君が私を心配する理由がどこにあるのだろう。そんなことを考え出すと、私は震えが止まらない腕で新品のカミソリを取り出し、太ももを切りつけようとした。



その時、携帯が鳴る。それは真造君からのミニメールではなく、ブログ仲間が書いた最新日記情報のメールだった。そして、真造君の最新日記のタイトルに目がいく。



『緑が好きなどこかの君へ』



気になった私はカミソリを置いて、両手で携帯を強く握りしめた。



「僕が最近気になっているか弱いお姫様は、どうやら緑色が好きらしい。遠く離れた鈍色の街にいるお姫様に、僕の街の緑色を届けたい。この気持ちもいつか届くかな。いつか必ず届けたい。あーあ、お姫様は元気にしてるのかなぁ…」



その日記には、遠くに見える山の写真や、街の中の木や花の写真がたくさん載せてあった。いつもの軽い口調の彼の日記を見たあと、私は自分のプロフィールを確認する。




緑色が好きです。私の故郷の色で、気持ちがすごく落ち着くから。





私は自分が書いていた内容をすっかり忘れていた。



「チョコミントって…なんなんこれ。めっちゃ不味いやん」



私がログインしたことを確認したのか、しばらくすると真造君からミニメールがきた。自分からミニメールを送れることができない私を、彼はもう知ってくれているのだろう。



チョコミントは私の大好物で、真造君は食べたことがなかったらしい。



「美味しいよ。私チョコミント大好きだもん。いらなかったらちょうだい」



私は何も謝らず、まるで何もなかったかのようにミニメールを返した。



今まで現実でもネット上でも、私を救おうとしてくれた人はたくさんいた。私を知ろうとしてくれた人も、年齢性別に関係なくきっとたくさんいた。



だけど私は、近づけば近づくほど、相手のことも自分のことも嫌いになっていた。それが気持ち悪くて、私は相手からもそんな自分からも離れたくて、何も見たくないと強く思って、同じことを繰り返していた。

「サチノさんは人の好意の裏にくっついてる下心に敏感なんやで。俺もそれ嫌やもん」



何度も繰り返してしまう私に、真造君はそんな言葉をくれたこともあった。

真造君は、私を見守ってくれているような不思議な人で、何も聞いてこないのに、私のことをよく知っている。自分のことを人に話すことが嫌いな私が、彼にはなんでも話していた。



「人に質問するってさ、歯を強引に抜く時よりもひどい時があるからね。俺は歯医者好きやないから」



真造君はそう言って私に近づいてこない。一線を越えようとしない。でも私は、心から真造君が好きかもしれない。



もし真造君が私を好きだと言ってしまったら、私は恋人にでも、飼い犬にでも性処理便器にでもなってしまいたいと、思うかもしれない…。



「チョコミントはコンビニに売ってたよ。そっちにもコンビニあるって言うてたやん。自分で買って食べたらいいやん」



「なんでよ。持ってきてくれるんでしょ?」



たわいのない会話にぬくもりを覚えて生かされている。ようやく気づいた自分の中の恋心と同時に、激しい不安が走り出していた…。


7人形のような人間。



「サチノ~。学祭の準備手伝ってよ~」



「ごめん、バイトなんだ。またちゃんと手伝うから」



学園祭の準備で騒ぐ放課後。クラスメートが話しかけてきたけど、私は嘘をついて帰ることにした。学校のイベントは全部嫌いだけど、何を目的にみんなが笑っているのかを考えてみると、やはり私は学園祭が一番嫌いだ。学校は無意味で、本当に大嫌い。



「ようサチノ。学祭の準備どう?」



廊下で声をかけてきた男子は細見だった。いきなり呼び捨てされた私は頭痛を覚えた。高校生という生き物は、一度セックスをすると恋人にでもなってしまうのだろうか。



私は呆れて声も出せず、首を横に軽く振って、急いで場を去ろうとした。



「おい、待てって」



「いっ、痛い!」



急に腕をつかまれた私が叫ぶと、遠くで見ていた細見の仲間達は大笑いしていた。学生は幼過ぎて、本当に気持ちが悪い。




家に帰った私は、普通の女の子なら絶対にとってはいけないいやらしい姿勢を、誰にも見られてはいないベッドの上で、真造君を思い浮かべながら取っていた。



私はその姿勢のまま、ブログを開いて真造君に会いに行く。私の行為は、会いに行くというより、真造君の動きを監視している。ストーカーの精神はこういうところから目覚めてくるのだろうか。



『学祭に熱くなる学生』



真造君の最新の日記には、たまたま学祭について書かれていた。彼は楽しく話す学生達を見て、何かを思い出して落ち込んでいた。



真造君は高校が嫌いだったみたいで、ブログ上の雰囲気からはまるで想像がつかないけど、学校の中には友達が一人もいなかったらしい。



そして、今までの日記で見た情報を繋ぎ合わせると、彼が通っていた高校の中には、真造君の素敵な恋人と、幼い真造君がいたんだと思う。



「素敵な青春だったと思い返せるようになるまで、俺は一人で生きるよ。もし繰り返したら、自害する」



彼はいつか、そんなことを言っていた気がする。未来の私は、青春でもなんでもないこの生活を過ごしている自分を、どう思い返すのだろう。



「私も学校が嫌いです。今は学祭ムードで賑わってるから、学校休みたい」



真造君の日記に、私はそうコメントを入れた。返し辛いコメントを入れてしまったと思った私は、とりあえずシャワーを浴びて、もし髪を乾かした後でも返事がなかったら、そのコメントを消去することにした。



「コメントありがとう。同じ気持ちの人がいて僕は嬉しいです。サチノさんと同じ学校に通っていたら、二人だけの学祭ができたのにね」



真造君はすぐにそんなコメントを返してくれていたけど、かなり浮いた内容だった。いつもと明らかにテンションが違うというか、真造君のブログではほとんど見かけることがないキラキラとした可愛らしい絵文字が不自然に多かった。



そんな私へのコメント返しの上下のコメント返しは、誰が見てもいつもと変わらない口調だったから余計にそのコメントが浮き上がっていた。



そして、ミニメールも届いていた。



「おっつー。コメントありがとう。嬉しくて、みんなの前やけどはしゃいじゃった」



恋する生き物は馬鹿だと思いながらも、間違いなく私はこの時間に幸せを感じていた。



「あのね、週末の晩、コンビニにあるチョコミントのアイス食べてくれへん?それをブログに、アイスの写メと一緒に載せてほしい」



「いいけど、なんで?」



「俺もその日、同じ物を食べて、同じ写メ載せるから。二人で学園祭しよ」



私は恥ずかしくなった。そう言われたことで恥ずかしくなったのではなく、素直に嬉しくなった自分に気がついて恥ずかしくなった。



「別にいいけど、寒いから全部は食べられないと思う」



「俺も、あんまり好きな味やないから、全部は食べれへんと思うよ。でも、同じ時間に同じ気持ちを過ごしたいから」



嬉しかった。私も同じことを思ったことがあったと、伝えたくなった。おでんは捨ててしまったけど、私も真造君とそんなことがしたいと思っていた。




次の日から、私は学祭の準備に取り組むようになる。本当は嫌だけど。



『奇跡』



今年の学祭のタイトルは、私があまり好きではない言葉だった。奇跡だとか、永遠だとか、私はありもしない幻の言葉が嫌い。人はそれに見下され、そしてその言葉で他人を見下す。ありもしないのに良い意味として存在する言葉が嫌い。



「うん、わかるよ。俺はわざわざ表に出さなくていい言葉が嫌い。絆とか情熱とか、あと向上心とか努力。いちいち表に出すなよダセェなって思う」



言葉の趣味も、真造君とは同じ気がする。



「でもそういえば、今朝奇跡があったよ」



「え? そうなの? 何、どんなの?」



「ウインナーをフォークで刺そうとしたら失敗して、そしたらウインナーが空を飛んだ」



たった数ミリの奇跡で、食べられる為だけに作られたウインナーが空を舞った。奇跡なんてそんなものだと彼は話した。可愛らしい話を聞いて気持ちが少し楽になった。


私からミニメールを送るようにもなり、真造君とのやりとりが心の支えになっていることを感じていて、私は学祭の準備にも毎日ちゃんと顔を出すようになっていた。



「サチノ、聞いてるの?」



「え? あ、ごめん。なんだっけ?」



「あー、また彼氏のこと考えてたんでしょー?」



「え? 彼氏なんていないけど」



「またまたー、みんな知ってるんだから」



作業中、クラスメートとの会話に、気持ち悪さと怒りを覚えた。私は1つ上の先輩、細見とは付き合ってなんかいない。



その日の晩、私は細見にメールをする。面倒なことはさっさと解決したいと、強くそう思う内に済ませることにした。



「私には好きな人がいますので、もう先輩と連絡をとることができません。ごめんなさい」



文章を作る消すを繰り返した結果、私は素っ気ない短文を送った。



『恋する年頃の背伸び』



私は自分が恋人に望むことや、恋の価値観について、日記を書いた。そして、真造君にヤキモチを焼かせようと、細見とのやりとりを大げさに書いてしまう。



「モテるんですねぇ」



「その先輩とは今後どうなるんですか? すごく気になります」



日記に数件のコメントはあったけど、真造君はコメントをくれなかった。彼もサイトにログインしていたので、間違いなく私の日記を見ているはずなのに。



私は真造君からのミニメールを待った。彼の仕事が終わる19時頃、そろそろミニメールが来ると思いながら、私はベッドの上を何度も転がっていた。



「おっつー。今日はお客様にいっぱい怒られて、それ以上に上司にも怒られちゃった。でも、我ながらよく頑張ったよ。だからご褒美として、これからカルピスを買って帰ります」



待ちに待った真造君のミニメール。私はすぐに返信をして、またいつものように通じ合えたけど、日記のことには一切触れてこない。その必死さが可愛いなんて思ったから、



「学祭が近づいてきてみんなのテンション上がってるから、学校に行きたくない」



私から真造君に甘えてあげた。自分でも気づかないでいるような、本当の私が欲しがっている言葉を真造君に早くもらいたい。



「恋人と過ごす学祭は、なかなかいいもんやと思うよ。人前に出れば人に照れ、二人きりになれば相手に照れてさ。青春羨ましいなぁー」



真造君はヤキモチを焼いてほしいというくだらない思考を持つ女子高生に、嫌味というものを持つ大人の態度を取った。



それに苛立った私は、急遽作り上げた細見とのラブストーリーで応戦したが、彼はそんな私に、



「アリ地獄にダイブするタイプ」



「背伸びし過ぎて骨折するタイプ」



などと言い放ち、いつものヘラヘラとした口調に、もはや隠し味にはなっていない丸わかりの猛毒が注がれていた。



「好きでもない先輩と何度も寝てやる! 返信してこないで!」



私のその一言でミニメールのやりとりは終わった。自分の哀れさを携帯に映し出されて、それが見ていられなくなった。その日は全然眠れなかった。




学祭当日。安っぽいコスプレをしてはしゃぐ女子。ヤンキーや暴走族の友達を自慢をする男子。紙くずで彩られた校内、ドロドロの欲望の渦の中で、誰もが自分達に気づくこともなく、笑い、歌い、恋という言葉を材料にして充実を描いている。



私はそんな奴らから身を守る為に、同じように笑ってその雰囲気に隠れていた。早く世界が終わればいいと願いながら。



「サチノ~、彼氏さんよ~?」



私は自分の教室からほとんど出ないで、窓の近くでバルーンアートの風船を触っていた。すると細見が教室に来て、私は彼の存在や、彼からの返信メールを消していたことを思い出した。



「あ、先輩。どうしたんですか?」



細見はやはり見た目に相当な自信があるのか、いきなり教室に入ってきて堂々と格好つけていた。



「ちょっといい?」



「今、忙しいんですけど…」



私は断る気でいたけど、周りのおふざけテンションによって私達は教室から追い出されてしまった。



「なんですか?」



「いきなり別れるとか、ずいぶん勝手だと思わないか? 俺が何かしたか?」



「ごめんなさい。私、やっぱり好きな人がいるので…」



別れるというより、私は付き合ったとも思っていない。でも、ここでそんなことを言うわけにはいかない。丁寧に、高校生活に歪みが出ないように、私の高校生活の為だけに慎重に断ろうとした。



その時だった。私は何度も感じたことのある、生温くてうざったい空気を察した。途切れる会話と、その間の沈黙。私にはそれで十分わかった。自惚れる要素もないくせに自惚れているこの男は今、私にキスをしようとしている。



「幸せにするから」



そんな馬鹿みたいな台詞と共に、細見が近づいてくる。そんなにキスに自信があるのか。だったら、逆転サヨナラ満塁ホームランを打てばいい。



私は抵抗しなかった。だけど、身を委ねることもしなかった。細見は決して強引ではなかったけど、私は了承していない。


ただの人形になった私にキスをして、容姿が良く生まれた不運な男は恋を叶えることができるのか。



「……。」



私は一切しゃべることなく、彼と目を合わせることもなく、じっとしていた。



「なあ、ダメか?」



下手なキスで付き合えると思ったのだろうか。皆が憧れるこの男は、無駄死にではなく無駄生まれだ。



私は何を言われても答えずにじっとしていた。悲しい顔も嫌な仕草も見せず、無だけを試みた。これは私という短い人生の中で、誰かに話せるエピソードも特になく、悲しくもなく辛くもない、そんな空白の時間を生きてきて、いつの間にか覚えていたことだった。



「わかった、もういい」



残念そうに苛立ちを表現した細見は消え失せた。


今後あの男が、私の高校生活に何か悪影響を及ぼす可能性。そんな恐怖に襲われると同時に、本当はずっと自分が恐がっていたことにようやく気づいて、今まで何もなかった私に、悲しみだけが込み上げてくる。




私はずっとトイレに隠れて、呼吸が乱れることもなく冷たい壁を頬で感じながら、人形から人形みたいな人間に戻った私は、ただ哀れな涙を流していた。



『最悪の学祭』



私はその夜、暗い日記を書いた。ここ数日は真造君と楽しいやりとりをしていたこともあって落ち込むことがほとんどなかったから、ここまで沈んだのは久しぶりな気がする。



ブログ仲間が心配してコメントを残していくけど、なんの励ましにもならない。真造君はコメントはもちろん、ミニメールもくれなかった。



しばらくすると、自分が誰に頼って、誰を待っていたのかがわかってしまい、また涙が溢れ出す。今度は肩が震えて呼吸が乱れて、自分が本当に泣いているんだと思った。




もう、ブログやめようかな…。




私はブログをやめることを考えながら、最後に真造君の日記を見た。すると、真造君も落ち込んだ日記を書いていた。



「人の嫌な気持ちと嫌な言葉で溢れる日常。それでも少しは楽しく過ごしたいから、避けるし、身を守る。時には自分の存在をそこから消そうともして必死で隠れてる。



なのに、どうして同じ気持ちの人に、同じ辛さ寂しさを抱えている人に、あんなことを言ってしまったんだろう…。」



そんな真造君の日記を見た彼のブログ仲間達は、



「いつも支えられています。感謝していますよ」



「そんなに落ち込まないで。私が今生きているのはゼトーさんのおかげなんだから」



そんなコメントをたくさん並べて、真造君を励ましていた。私を除いた全員がその場所に集結して、真造君を心配していた。



素敵な光景に見えたけど、真造君はそのコメントに返事をしていなかった。



私にはそんな真造君の気持ちがわかる気がする。だって、それは私がいつも真造君からのミニメールが欲しい時にしていたことだから。



でも、私にはもう何もできない。私、真造君に言った作り話と同じようなことをした。好きでもない男にキスされて、なんにも抵抗しなかった。できなかった。


8哀れな呪文。



ブログを書くことも、開くこともしなくなってから、どれだけの時間が経ったのだろう。まだ数日の気もすれば、もう何ヶ月も経った気がする。



「念願の離婚が近づいてきたぞ」



ある日、武雄が嬉しそうに電話をしてきて、私は武雄の家に初めて上がった。



「嫁は子供を連れて実家に帰ったし、順調順調」



見つかったらどうするのだろう。突然家族が帰ってきたらどうするのだろう。そんな不安に潰されそうになる。



どこの壁にも飾られている家族写真の目が、私を見ているようで怖い。どこか懐かしい、幸せな家庭の匂いもするのに。



「写真と目が合って怖いから電気消して」



強引に制服を剥がされる途中に私がそう言うと、武雄はそれを面白がって写真が飾ってある壁に私を押しつけた。



壁に飾られる大きな家族写真と武雄に挟まれて、私は虚しく声を出す。どんなに幸せな気持ちも大切な思い出も、全てを偽物に変えていく欲望の魔力に私は殺される。



私はその日から、武雄の家に泊ることになった。



「好きな時に好きなだけ食え」



私を家に閉じ込め、お菓子とおにぎりとパン、武雄はたくさんの食料を投げ捨てるように置いて仕事に出ていった。



学校に行きたいとは思わないけど、私は悪いことをしている気になっていた。何も聞こえないのが怖くなってテレビをつけたけど、暇な時の悪い思考が自分を責めてくる。



私はまた自分を傷つけて、床を汚すほど血を流した。きっと武雄は心配しながらも、まずは性欲を満たすだろう。そう思うと余計に自分が腹立たしくて、何度も何度も太ももを切りつけた。いつもよりも深く。



私は血を流しながら、ベッドに座って窓の外を眺めていた。静かに雨が降っていて、私は雨音を聞きながら真造君の言葉を思い出していた。



「真造君…真造君助けて!」



弱々しい自分の声。初めて、愛する人の名前を声に変えた。誰にも真造君の話をしたことがなかった。真造君と話したこともなかったから、その名前を呼ぶことなんて一度もなかった。



真造君は純粋で本当に可愛いから、汚れた私はそれだけで傷つくし、もう関わりたくない。もう関わることができない。



「雨はまた必ず会いに来てくれるから」



私は、雨音でだんだん落ち着いてきたのか、そのまま眠りについた。


武雄が仕事を終え、帰宅してすぐに私という人形を抱えて自分一人で好きに遊んだ後、



「私、ずっとこの家にいればいいの?」



私は問いかけた。



「離婚の決着が正式につくまではな」



「外に出たい。私小さいから、あのバッグになら入れるから」



探偵がうろついていて、つけられているかもしれないと武雄は言う。私は完全に閉じ込められていた。



「学校は?」



「嫌いな学校なら行かなくてラッキーだろ。欲しい物は買ってきてやるから」



「学校が実家に電話したらどうしよう」



「冬休みはいつからだ?」



「12月からだけど…」



「もうすぐだろ。風邪とか熱とか適当に嘘ついてなんとかしろ」



私は小さな声でわかったと返事をしたけど、たぶん何もできない。武雄が恐い、警察が恐い。無断欠席と、実家にへの連絡が恐い。



そうやって、何もできずに怯えていると、知らない番号が携帯を鳴らした。私は嫌な予感がしながらも、一瞬にして無断で休んでいる嘘の言い訳を思いつき、担任からであることを願って電話に出た。



「お前サチノだろ?簡単にやらしてくれるって本当か?」



相手は知らない男だったけど、誰と知り合いで、誰から番号を聞いたのかすぐにわかった。
私はすぐに電話を切った。すると、すぐに数件のメールが届く。



「おい汚れ! やらせろよ!」



「ヤってる写メくれ」



犯人はあの男だ。そんなことは誰でもわかるか。私は彼らの恐怖よりも、私がいない学校で、私がどんなふうになっているのかが何よりも恐くなっていた。



信頼できる友達も、心配してくれる友達もいないと思う私は、



「大丈夫? 風邪でも引いてるの?」



友達からきたメールにも警戒して、すぐにそのメールを消去していた。どうすることもできない私は、なぜかブログを退会して、またすぐに再登録をして、武雄以外のブログ仲間をすぐに集めた。




真造君はどうしよう…。




私は少し悩んだが、真造君は放っておくことにした。というより、私からはブログ仲間申請をする勇気がなかった。



再登録はしたけど、名前もプロフィールも前と同じ。彼なら検索機能を使って、必ず私を見つけにくるはず。そんなことを少し期待していた。



真造君のことを思い出した時、私はブログ退会で彼との大切なミニメールを一瞬で消し去っていたことに気づいて、大きなショックを受けてしまう。



『倍以上年上の旦那? との暮らし』



暗い日記を書いた。悲劇のヒロインぶった馬鹿な女が開き直った態度はこんなにも醜いのか。そんな珍しくもない私の日記には、誰もコメントをくれなかった。誰も心配してミニメールもくれない。いつもみんなコメントをくれるのに。



私は何度も自分の日記を見て、誰かがコメントを入れるのを待っていた。




こんなにも…こんなにも薄かったのだろうか。




誰も助けてはくれないし、誰も注意してくれない。誰も話を聞いてくれない。ベッドに寝転びながら、同じ画面を何度も見つめて、ただ空白の時間だけが過ぎて、胃液が重力に逆らう気持ち悪さだけを感じていた。


武雄と暮らし始めてから一週間が過ぎた。学校で、実家で、突然消えた私はどうなっているのだろう。閉じ込められた私は動けなくても、雲は自由に流れていて、楽しそうに笑う子供達の声がどこからか聞こえてくる。



私を気に留める存在はいないし、自分の身の守り方もしらない。頭の悪い女子高生が、ここで思考を低下させながら、死ぬことができずに生身だけを残して、私はセックスと孤独を繰り返す。



私は嘘も望みも付け足して、皆が見て面白がるような展開を、空っぽになった頭と心で描きながら、気持ち悪い日記を書き続けていた。



毎日ずっと同じ部屋にいる私は、元からあまりなかったわずかな気力さえ失って、ただ軽い携帯を両手で持っていた。



真造君…。



私は彼のブログ仲間ではないから、もう彼の日記を見ることができない。だから私は、覚えている限りの真造君のブログ仲間を検索して、その人達が全体に公開している日記を見ていた。



見ていたのは日記の内容ではなくて、私は真造君のコメントを探していた。



彼は人の日記にあまりコメントをするタイプではないので、なかなか見つからなかったけど、なんとか数件のコメントを見つけることができた。



相変わらず軽い口調で、重みのないスカスカの間抜けな言葉は、真造君らしくてすぐにわかる。言葉選びがやっぱり可愛い。



そんなことを思いながら見ていた私は、あるコメントを見て胸の鼓動が高鳴る。それは、真造君のブログ仲間に恋人ができたという日記にあった。



「うわぁ素敵やなぁ。おめでとうございます。幸せになってくださいね。ちくしょー」



「コメントありがとう。ゼトーさんも早く幸せになって欲しいな。そうだ、今度紹介しましょうか? ぜひ紹介させてほしい人がいます!」



「えへへ、お誘いありがとう。せっかくですが、最近見失ってしまった恋についてもう少し反省しようと思うので。別に俺はグラタン食べてたら幸せですから。生意気に断っちゃってごめんなさい」



最近見失った恋。



それはいつのこと、誰とのことなのか。私にも話してくれた長過ぎた春のことなのか。




それとも…。




私は真造君の気持ちをそこで初めて考えた。私はいつも自分のことばかりで、真造君のことを考えたことなんてほとんどなかったと思う。



彼は寂しがり屋で内気で、本当の人間関係には自信が無くて、人を傷つけることも、傷つくことも怖いから人を避ける。そうやって、平気で孤独を選んで生きている寂しい人だった。




真造君…ごめんね…。




急に真造君が恋しくなった私は、彼のトップページを携帯画面に出し、涙を流しながら何度もキスをした。




私は真造君に謝りはしなかったけど、ブログ仲間になって欲しいと私から申請した。



「うん、ありがとう」



すんなりブログ仲間にはなれたけど、彼の承認ミニメールはすごく素っ気なかった。



私はすぐに私が見ていなかったところからの彼の日記を見にいったけど、日記はつまらないものばかりだった。



もっと私を求める言葉で溢れていると思ったのに、彼はいつもと変わらない調子と口調で、たわいのない日記を書いていた。



そして、あくびが出始めた頃、



『チョコミント』



日記のタイトルとチョコミントアイスの写真を見ただけで、眼が焼けてしまいそうになるほど熱くなっていた。




『チョコミント』



何をやっても抜けない思考

消えない不安と立ち止まる足



過去の傷と

過去の傷を見つめる眼



繰り返さないようにと

繰り返される見たくもない映像と記憶



ずっとそうやって生きていたのに



そのすべてが単純化されて

瞬間的に望んだ恋



もしその恋に名前があるとするなら…





私は涙を流しながらも、やはりちゃんと謝ることができず、まるで何も考えていない寝起きのようなミニメールを送って返事を待っていた。



しばらくすると、武雄と暮らし始めて最初に書いた日記に、ブログ仲間になって私の日記が見れるようになった真造君が、誰も触れもしなかった馬鹿な日記にコメントをくれていた。



「一人じゃないから。俺がいるから大丈夫やからね」



私はまた馬鹿みたいに泣いた。真造君の声が聞きたい。でも、なぜか彼は番号どころか、アドレスすら聞いてくれないから、ずっとミニメールでのやりとりが続いていた。



「大丈夫?」

「わかんない」



「学校は? 親御さんは?」

「わかんない」



「その家の場所はわかる?」

「わかんない」



何一つまともに答えられない自分が情けなかった。



「今すぐ会いに行くから」



真造君のそのミニメールを見た次の瞬間、私はもう窓の外を見ていた。



「◯◯駅の近くにあるデパートが見える」



「わかった。すぐ行く。サチノさんは自分を責める理由は一つもないからね。少し話をしよう。ちょっと待ってて」



時刻は午前11時過ぎ。真造君は仕事のはず。平日の昼間に、京都の会社員が東京まで来るはずがない。私は半信半疑のまま、ベッドの上でじっとしていた。



そして、午後15時前にミニメールが届く。



「そのデパートについたんやけど、ここからどうやって行けばいい?」



私は窓の外を急いで見た。私は道の説明がうまくできなくて、



「行くから待ってて」



と、返信し、家を飛び出した。家を飛び出す決心をしたというより、私は最初から家を出ることに抵抗がなかった気がする。



「嫁が雇った探偵が見張っているかもしれないから、窓にも顔を出すな。この家には誰もいない。わかったな」



そんな武雄の言葉も、最初から信用していなかった。家を出てすぐに自分がノーメイクであることに一瞬慌ててしまうけど、制服を着ているのでとりあえず良しとした。




背の高いスーツ姿。黒髪で水色のネクタイ。私は真造君をすぐに見つけた。でも、声のかけ方がわからなくて、私はドキドキしながら、気づかないふりをしていた。



するとその人が私の眼を見て、眼だけで問いかけてきた。私はそれに、声にならない声を出したような気がする。



「やぁこんにちは。はじめまして」

「…こんにちは」



「大丈夫?」

「え、あ…はい」



「一度、どこかで話し合おうか?」

「いや、私…大丈夫です」



「じゃあ、これからどうするの?」

「えと…旦那が、いますから」



私は手に汗を握り、緊張のあまり顔を上げることもできずにいた。そんな私に真造君は、



「ほら、これあげる。だから行こう」



と、チョコミントを差し出した。私は下を向いたまま、黙ってそれを受け取った。



「でもまぁ、知らないおじさんからチョコを貰っても、ついて行ったらあかんもんなぁ…あははは」



真造君の話し方は日記やミニメールのままで、マイペースでとても軽かった。困った困ったとは言っているけど、全然困っているようには見えなかったのに、



「俺にできることはない?」



彼は急にキリッとした眼つきで聞いてきた。緊張して何も言えない私は、



「あ…はい。本当、大丈夫です」



なんとか言葉を返すのが精一杯だった。



「じゃあ、俺は一週間はこっちにいるから、何か俺にできることがあったらなんでも言って。すぐに来るから」



「あの…仕事は?」



「田舎のばあさんが死んだってことにしたから大丈夫。あれ? もしかしたらばあさんが死んだの3回目かも? あははっ」



「……。」



「サチノさんは旦那さんの家に帰るの?」



「あ…はい」



「そっか…」



私はまともに眼を合わすこともできずにいた。私は合間合間の沈黙で、彼とは恋仲にはなれないことを強く感じた。私はまるで、ただの女子高生に戻ったような気がしていた。何も知らなくて、何もできなくて、何も話すことができずにいた。



短い沈黙の後、私がゆっくり顔を上げると、真造君は私をじっと見つめながら、ボールペンを差し出していた。



そのボールペンを見た時、私は真造君とのミニメールのやりとりを思い出した。



それは私が衝動買いをしてしまうことを真造君に話した時のこと。彼にはそんな癖があるわけではないけど、彼好みのボールペンが売っていると、値段や使い道がないことに関係なく購入するという。



そして、ボールペンには名前をつけ、何よりも大切にしているそうだ。



「騎手のムチ、歌うたいのマイク、侍の刀。俺は営業マンで趣味が物書きやから、ボールペンは命やねん」



確か彼はそんなことを言っていた。必ずボールペンを御守りとしても身につけて歩き、それは誰にも触らせないという。



そんな真造君が、私にそのボールペンを差し出しているということ。それはつまり、私を認めてくれているということ。



「これは…チャッピーですか」



私はボールペンを受け取ろうと手を伸ばした時、ボールペンの名前を真造君に尋ねる。チャッピーという名のボールペンは真造君のお気に入りで、何度か日記でも見ていたから間違いないと思った。



「良く覚えてたね。ありがとう。俺もこいつも喜んでるよ。俺の大切な御守りやから、連れて行ってあげて」



私は返す言葉が見つからないまま静かにチャッピーを受け取り、いつまでも両手で持っていた。



「会いに来てくれてありがとう。じゃあ、何か助けがいる時は言って。せっかくやから、俺は秋葉原にでも行ってみようかな。ダストドールのカードとか欲しいし。それじゃ」



会いに来てくれたのは真造君なのに、まともにしゃべることもできずにいる私は、彼の性格と経験に頼って、彼がもう一度振り返るのを待とうとした。



でも、彼の性格とあの調子だと、振り返らない可能性が極めて高いとすぐに答えを出す。そう思った私は、心の中で馬鹿みたいな呪文を唱え始める。




援交と思えば、援交と思えば…




哀れな呪文の効果は悲しい程に絶大で、次の瞬間、私は真造君に抱きついていた。私、たぶんこの後、真造君とセックスをする。



いつもいつもこうやって、大事な部分をスキップするからいけないのだろうと、私にはこれしかない。これしか知らないから。



「ごめんね。急に会いに来たり、勝手なことばっかり言ってるのは俺なんやで」



振り返った真造君は優しく話してくれた。少し屈んで背丈を合わして話してきたから、きっとキスをするんだと思って、私は黙ったまま、にごりきった眼をまぶたで隠して、これ以上汚れようのない唇を、好きにしてくださいと差し出した。



「えへへ、あのね、そういうのは自分の幸せの為に残してあげたほうがいいねんで」



真造君はそんな私にキスをしないで、頭を優しく撫でて、少しよそ見をしながらそう言った。夕陽で照らされる彼の横顔は照れ臭そうに笑っている。私は急に真造君が欲しくなって、強引に肩を掴んでキスをしようと迫った。



「わ、こらっ…!」



こらって言ったくせに、真造君のキスは長かった。長くて、冷たくて優しくて、ずっとやめてほしくなかった。無駄に大人ぶった分、気持ちが一気に溢れ出したんだと思った。



二人の唇が離れて静かに見つめ合うと、私は真造君の眼から離れられなくなっていた。



真造君…
いつからそんなに寂しい眼をしているの?



さっきまでへらへらと笑っていたのに。どうしてそんなに寂しい眼をしているの?



ずっとそんな眼をして生きてきたの?



真造君は自分がそんな眼をしていることにもまるで気づかず、優しい声と眼差しを私にくれている。泣きそうになる。



「私、恐い…もうわからない…」



涙が流れ始めた。真造君に言われてから、少しだけ、ほんの少しだけ真実と向き合った。明日のこと、来週のこと、来年…未来のことを少し考えると、私は涙が止まらなくなった。どこから間違えたのか。思い返せば過ちばかりで、その始めのきっかけにたどり着ける気がしなかった。



「偉いね。良く言えたよ。それで十分やで」



真造君は優しく笑ってそう言ってくれた。優しい笑顔なのに、その眼だけが寂しそうにしていて、きっと真造君はそれを知らない。




私は真造君と一度自分の家に帰ることにしてタクシーに乗った。



運転手に私のマンションの近くのコンビニを簡単に説明して伝える。タクシーに乗り慣れている女子高生を、真造君はどう思うのだろうと、そっと横顔を覗いてみる。



「どうしたの? 車酔いした?」



優しい声と優しい眼差し。私はタクシーに乗り慣れていて、たかが紙切れの為に過去を汚して、満たされることを知らずにそれをばら撒いているんだよ。なのにどうしてそんな私をあなたはそんな眼で見てくるの?



私の為に、いや私のせいで、大人みたいだけど本当は子供の眼をしているこの人はここにいる。子供みたいなのに、寂しい眼をしている。



「大丈夫? 喉渇いたかな? お茶飲む?」



私はその眼が見たくて何度も横を向き、何か聞かれると静かに首を横に振る。



「飴いる? あ、チョコミント食べる?」



私は少し笑ってしまう。笑いながら首を横に振ると、真造君も少し笑って、静かに頷いた。その眼に寂しさを宿したままでも、僅かなぬくもりを分けてくれるように笑った。私はそれが嬉しくて、でもなんだかすごく寂しくなった。



「あの、お金返します…」



「え? タクシー代?」



「はい…ちょっと待ってくださいね」



素早くスマートにタクシー代を運転手に払った真造君に、私はお金を返そうとカバンから財布を取り出そうとする。



「いいよ。そのお金で好きなお菓子を今度買って食べて。そのほうが俺も嬉しいから」



真造君は言葉選びが繊細で、それをなめらかに自然に伝えてくる。いったい何があって、この人はこんなふうになってしまったんだろう。




私が住むマンションに着くと、同じ学校の制服を着た男子が数人、マンションの下にいた。帰る前に一瞬だけ感じた嫌な予感が、見事に的中していた。



「マンションの下にいるから、ノーブラノーパンで出てこい」



私が学校を休み始めてから、そんなメールが知らない誰かから毎日きていた。数人の中には例の先輩もいて、私は不安になって真造君の顔を見上げた。



「大丈夫?」



真造君の顔を見るとすぐに眼が合って、彼はそう私にそう尋ねた。それはまるで頭の良い犬が、飼主の顔色を常に伺っているかのようで、彼はずっと私を見守ってくれていたのだと思った。



「うん…大丈夫」



私がそう言ってマンションの入り口に近づくと、



「援交かよ」



一人の男子がそう言った。すると、真造君は急に早歩きで私から離れてその男子に近づいた。



「今の発言は気になりますね。今回の件で、何か知っていますか?」



真造君は胸ポケットから警察ごっこのように手帳を一瞬見せてそう言った。



「え…いや…」



「こちらの女性とはどういう関係ですか。同じ学校の生徒…だけではありませんよね。よろしければ名前を教えてください。あ、私は後藤と申します」



「いや、何言ってんスか」



「まぁ無理にとは言いません。ただ、あなた達の顔はしっかりと記憶しましたよ」



真造君はやや強引に話を進め、男子達は彼の前で明らかに動揺していた。



いつも私は数に威圧されていた。数が少ない方が不利だと、いつもその雰囲気にからかわれていて、みんなといてもひとりぼっちな自分が惨めだった。

でも、真造君はそうではなかった。



「あれ、君は確か…オッケー。もう十分です。お時間取らせましたね。失礼しました」



何も言えずにいた一人の男子の顔を見て、少し笑って真造君はそう言った。そして、私の肩を押すかのようにしてマンションに入っていく。すると、



「なんなんスか。どういうことスか」



一人の男子が真造君に問う。それに真造君は立ち止まって私の背中をポンと押し、先にマンションに入るように眼で指示してきた。



「今後のことは私にはわかりません。何かあるなら、それはあなたが一番わかっているんじゃないですか?」



真造君はそう言い残し、私達はマンションに入る。私は緊張のあまり嫌な汗をかきながら、数週間ぶりに自分の部屋に戻った。真造君は靴を脱がずに玄関に立ち、



「ごめん。勢いと出任せだけで言ったら、あんな感じになっちゃった」



と、勝手な行動を取ったことを深々と頭を下げて謝った。



最近の私の携帯には「犯してやる」「やらせろ」などというメールが知らないアドレスから毎日のように届いていて、私はそのことをずっと真造君に聞いてもらっていたから、真造君もピンときたんだと思う。



「ううん、格好良かった。ありがとう」



私がそう言うと彼は少し恥ずかしそうにしていたけど、



「無断欠席していた理由にすればいいよ。あいつらならその罪をかぶる役になってくれる」



そんなことを笑いながら言った。声は笑っていたけど、その時の真造君の眼は完全に凍てついていて、大人の恐さや強さが伝わってきた。

「あの、上がってください」


「えっと…お邪魔します」

彼はいつまでも玄関に立っていて、私の部屋に上がることに少し緊張している様子だった。部屋に上がってからも端っこのほうに座っていて、なんだか申し訳なさそうにしている。


私は自分にコーヒーを入れ、真造君にココアを入れて向かい合って座る。



「真造君はコーヒー嫌いだよね」

「え、なんで知ってるの?」



彼は、コーヒーやアルコールが苦手な大人。仕事上では無理して飲むことがあっても、普段は全く飲まない人。



「初めて会ったのに、なんか不思議やね」

「うん、熱くない?」



そして、猫舌である。だから冷たい牛乳を少し入れてぬるくした。顔を合わせたのは数時間前でも、私達はずっと前から繋がっていたから。



「ありがとう。嬉しいし、美味しい」



目の前にいる大人の真造君は、まるで子供みたいに笑った。大人ってなんなんだろう。私は大人が嫌いなのに、幼さを嫌って大人になろうとしてる。大人という言葉に見下されている気がするのに、私は大人という言葉で、他人や世間を見下している。きっと私達も、ずっと見下されている。



「…真造君」



武雄と過ごした時間はほとんどが沈黙だったのに、全然平気なはずなのに、私はなんだか沈黙が恐くて彼の名前を呼んだ。



「はーい?」



真造君は優しく返事をしてくれるけど、私は何も言えない。話すことがたくさんあるような、一つもないような。いったい何から話せばいいのかがわからなくて、自分のことなのに真造君に任せてしまって、私は黙っているのだと思う。



「大丈夫やで。サチノさんが俺を頼ってくれた。それだけで、もうなんとかなるから」



真造君がそう言って優しく笑うから私はまた彼が欲しくなる。でも、言葉ではうまく表現ができない。体は何かを覚えていて、その汚れが染みついていて、私はキスを欲しがってそれを眼で訴えた。



「大丈夫。みんな幸せになれるようになってるから」



私の眼線の言葉の意味は伝わったはずなのに、彼はそう言ってキスをしないでそっと頭を撫でてくれた。



「なんでキスしないの?」



私はしつこく欲しがって、真造君の隣に移動してわざとスカートから下着が見えるようにして座る。



「あらら、こんなに傷ついちゃって」



真造君はそう言って、傷だらけの太ももに触れた。すると彼は、ゆっくりと寝かせるように私を押し倒し、まぶたを閉じてその傷を優しく舐め出した。彼の舌が傷口に入ろうと少し固くなったり、傷口を舐めてやわらかくなったりしている。私はその行為に感じ始めて息が漏れる。



柔らかくて癖になりそうな彼の唇がたまに立てる音に耳もいつも以上に反応しているのか、自分でもわかるくらい熱を持っている。



「…辛かったね」



真造君が静かに言う。真造君の眼は涙を浮かべている。私は安心と幸せを感じて静かに涙が溢れ出した。汗ばんだ手のやりどころに困っていることに気づいてくれたのか、真造君はそんな私の手をしっかりと掴む。



私…初めて誰かに愛されている。





「あっ…ちゃうやん。あかんやん」




突然、真造君は冷めた声でそう言うと、行為を途中でやめて、自分の頭をかいてニヤニヤと笑い出した。もっとして欲しいと私は言う。



「えへへ。あのね、いやらしいことをしにきたわけやないからね」



彼は赤い顔をしてそう言う。そんなことはわかっている。ちゃんと向き合うことがあることも、どうしようもなく弱い私に気遣って、自分からは何も言わない優しい彼の性格も。本当は私もちゃんとわかっている。



「だって、何からしたらいいのかわからないし…」



「…おいで」



私がそう言うと真造君は優しく抱き寄せ、頭を撫でてくれた。



「サチノさん、俺のカッターシャツからアイロンの匂いする?」



「うん、するよ」



「これね、俺のお母さんがいつもアイロンかけてくれてる。サチノさんは中学の時はどうだった?」



「私は自分でしてたよ。真造君みたいにマザコンじゃないから」



「え…あれ、そうなの? …偉いねぇ」



「ふふっ嘘だよ。お母さんがしてくれてたよ。私は何回かしかやったことがない」



「サチノさんはお母さんに、家族にちゃんと愛されてるんやで。だからさ…」



「わかってる…わかったからもうちょっとだけ。ちゃんとわかってるから」



抱きしめることをやめようとした真造君に私はそう言ってもっと強くしがみついた。彼の言葉は、他人のアドバイスや説教を嫌がる私の中にも形を変えずに届いてくる。




真造君と話し合った結果、私はまず実家に電話をした。



「あの、お母さん。学校から…」



私の声を聞いた途端、母はすごく慌てた様子で、



「今、どこにいるの!?」



と、大声で言った。学校から電話が何度もあったようで、マンションに私はいなくて、携帯電話もずっと繋がらなかったと。


そこでようやく私は思い出した。今年の夏、私は武雄に携帯を壊されて、武雄に新しい携帯を貰っていた。その時、どうせ連絡なんてこないと、学校にも実家にも番号を知らせていなかった。そんな原因があったから、知らせられるはずもなかった。



「あ、あの、私ね…」



母には私の話を聞く余裕なんてなく、私もちゃんと話す余裕もなく、母も私も何を言っているのかわからなくて、それを真造君に聞かれているのが恥ずかしかった。




ピンポーン、ピンポーン!




すると部屋のベルが鳴った。真造君は私に眼で何かを訴えると、玄関のほうへ向かった。






…それからのことはよく覚えていない。






鍵を開けた真造君を物凄い勢いで部屋に入ってきた父が殴り倒し、そんな父を止める警官と、抵抗もせずに倒れている真造君を何人もの警官が押さえつける。その場には学校の先生や大家さんもいたらしいけど、よく覚えていない。



ただ、泣き叫んでいる私に、



「平気平気。余裕やで。全然大丈夫やから、大人にぜーんぶ任せときーよ」



頭を床に押さえつけられている真造君が、私に向けてピースサインを出していたような、そんな記憶が残っている。


9誰が彼を幸せにするの。



あれから私は田舎に帰って、今は通信制の高校に入っているらしい。あの日からどれだけの時間が経ったのだろう。



武雄の奥さんが雇っていた探偵が、武雄の家から私が出る瞬間を確認していたことや、私が書いていたブログの内容。私と真造君がやりとりしていたミニメール。



それらが証拠となり、武雄はすぐに捕まり例の先輩達は退学になったらしい。



こんなことですぐに捕まるんだと思ったけど、こんなことではなかったようで、それは大変な騒ぎだったらしい。



本人の私だけが何も気づかず、何も感じずにただ流されていて、悩んでいながらも実は何も考えていなかった。正直、そんな気がする。



家族に迷惑をかけ、悲しませ、失望させてしまったことくらいはわかる。だけど、そんなことはどうでもいい。




真造君…彼はどうなったのだろう…。




私は携帯を持つことも許されず、一日中家の中にいて、彼の名前を枕にむかって唱えながら泣くことしかできなかった。



悪縁を切り離し、もう戻れないと思っていた太陽の下に私を連れ出そうとしてくれた真造君は、私の世界から消えてしまった。



最初からいなかったような、まるで夢のような存在、夢のような時間だった。でも、彼は確かに存在していて、私は今も彼を愛している。生まれて始めて、誰かを心から愛している。



私は家の中でも常にチャッピーを身につけていて、真造君のことをいつも想っていた。



すっかり家庭は暗くなっていて、母はあまりしゃべってはくれない。真造君の名前を出すと、父にも母にもすごく怒鳴られる。その時は眼も合わせてくれない。



私を、あなた達の娘を、救ってくれた存在なのに。



もし真造君が警察に捕まっていたり、そのせいで会社をクビになっていたり、二度と社会復帰できなくなっていたりしたら…。



ある日、私はそんなことを思うと、事件に巻き込んでしまったことを本当に後悔し、彼の両親に謝罪したいと思い立った。



「私、真造君のご両親に謝らないといけない…」



私は母に泣きつき、父に土下座しながらそう言った。実家に帰ってから…いや、初めて真造君の立場で物事を考えた気がする。この気持ちが伝わるまで、私は両親に謝った。



すると、父がどこからか紙袋を持ってきた。その中にはたくさんのチョコミントと、真造君からの手紙が入っていた。



「みんな大人やから、どれだけ迷惑をかけようがかまいやしないよ。ただ、親は大切にしなくちゃいけない。いっぱい謝って、いっぱい親孝行してください。



娘を愛する親がちゃんといたことがわかったんやから、俺はこれで良かったと思うよ。だから簡単に解決したんやで。



自分を大切にして下さい。これからも愛されている自分を大切にして下さい。



あと、ダストドールとエルサイコのカードはちゃんと買えました。やったぜ!!」




両親の前でその手紙を読んだ私は、真造君が無事でいることと、彼の言葉のぬくもりに懐かしさを感じて、また涙が溢れ出す。



「物静かでおとなしそうな男だったけど、はっきりと物を言う子だった。眼に力があった」



私が実家に帰ってからはほとんどしゃべることがなかった父が、ため息と共にそう言った。



私と向き合い、テーブルの向こう側で話す父と、その横で静かに座る母。父の声から、真造君の言葉を感じる。父に向かってどんな顔をしてどんな話をしていたのかがわかってしまう。もう、ここに真造君がいる。



「ご…ごめんなさい」



私は話の途中でそう言って立ち上がり、自分の部屋に走りベッドに倒れ込むと、心臓が止まりそうになるくらい声をあげて泣いた。




会いたい…会いたいよ…。








それから更に数ヶ月後、



私は実家の近くの大学に合格して、やっと携帯電話をもらった。



「あの人の連絡先は、あの時にちゃんと聞いたんだけど、教えてはもらえなくて…あ、嘘なんかじゃないわよ。本当よ」



疑うことなんてするわけないのに、母が心配そうにそう言った。私はもう涙を流すことも、悲しむこともほとんどなくなっていた。



決して何かを克服したわけではないけど、実家に戻ったことで、少しずつ、少しずつ、あまりにも早すぎた大人の毒が抜けていくことを感じていた。金という翼が剥がれていることにも気づいた。きっと現実を歩む足が育つまでは、背伸びして大人になる必要なんてなかった。



今の私には家族が何よりも大切で、真造君が教えてくれたように、そう思うこの気持ちを自分で大切にしなくてはいけない。



大切なことを教わったお礼と、たくさん迷惑をかけてしまったことを謝りたくて、私は二人が出会ったブログサイトに登録し、真造君を探してミニメールを送った。



「真造君、久しぶり。色々迷惑かけてしまって、本当にごめんね」



「久しぶりやね。元気にしてた?」



「うん。真造君は?」



「俺は元気やで。冬眠から覚めようか迷ってる亀くらい元気」




相変わらずだと私は思った。彼がそんなに変わっていないことが、たった数回のやりとりで嬉しさと共に伝わってくる。



「いっぱい巻き込んでしまって、本当にごめんなさい。ちゃんとお礼を言いたくて。あと、謝りたくって」



「いいよ別に。家族仲良く暮らせてるなら、本当に良かったね」



この後、私は何を言えばいいのかがわからなくなった。まるで、お別れの挨拶に向かっている気がした。最後の挨拶をわざわざする為にミニメールを送ったわけではないのに。



「ちゃんとお礼を言いたかったし、直接電話で話したかったな。母もそのつもりで番号を聞いたんだと思うの」



母が彼に連絡先を聞いて、彼がそれを断っていたこと。私はそれが少し引っかかっていた。



「教えてしまったら、ちゃんと電話をしないとダメみたいになるやん。それがちょっと嫌やってん」



真造君は連絡先を教えなかった理由を話してくれた。彼は長い時間が流れた私の中で、真造君に対しての想いが薄れていくことを考えていた。

もしもそうなってしまった私に親が真造君の電話番号を伝えてしまったら、私を困らせることになると、そう思ったらしい。



あの日、きっとあの日の最後の最後まで、真造君は真造君のままだったことを知る。



「家族に感謝して大切だと感じて、明るい未来が見え始めた人に、俺なんかの番号は邪魔かもって、そう思ったからね」



真造君はいつもそうだった。自分に対しての心が完全に凍りついている。寂しいあの眼のわけが今更わかってしまう。



いつも誰かの記憶になることを恐れて出会いに怯えている。自分の感情を押し殺すことにばかり慣れていて、それが大人だと思い込んでいる。何も表現しないことが優しさだと、人に見つからないように、自分の気持ちに気づかないようにしている人。



彼が大人だと思い込んでいるそんな考え方。その分厚い殻の中で、小さな子供がひとりで泣いている姿が、今の私には浮かぶ。その子は絶対にひとりでは出てこれないことも、今の私にはわかる。



「まぁ単純に、教えて待ってて連絡無かったら虚しいやん。それこそ泣いちゃうからね」



いつもの軽い言葉。大人のふりどころか、強がって笑っている子供にしか見えなかった。どうして気づいてあげられなかったんだろうと思う。



彼が私に気遣っていることを強く感じ、私から近づかない限り、彼がもう近づいてはこないことがわかった。



私は一度携帯を置き、窓の外を眺めた。私の好きな緑が広がっていて、まるで終わりの見えない不安のように広がる黒くて大きな雲。



もうすぐ雨がやって来る。風がそれを教えてくれる。



雨。彼の大好きな雨。



私はその理由を静かに思い出す。




「私、家族が大切で、家族が大好き」



「うん。もう悲しませちゃダメやで」



「うん。あと、やっぱり、私は、サチノは真造君のことがね…」


10緑が好きなどこかの君へ。



京都駅の人混みの中、私は壁際に立って真造君を待つ。誰もがみんなそれぞれの幸せを求めていて、自分の為、誰かの為に向かって歩いている。



「時間がもったいないから、会ったらすぐに抱きしめてほしい」



どちらが先にそんなことを言ったのか忘れてしまっている。私だったかな、彼だった気もする。



恥ずかしさと緊張をわざとでも多く伝えようと、本当はじっと下を向いて待っていればいいのだろうけど、今は抱きしめられることよりも、私が真造君を抱きしめてあげたい。私は待ち合わせ場所に立ちながら、背の高い男性を探す。



「あ…」



堪えきれずに半笑いになっている真造君が、こちらを見ながら近づいてきていた。私に見つかって、彼は明らかに照れた様子で、それでもポーカーフェイスを装おうとしてるけど、もう完全にニヤけてしまっていて、それがすごく可愛かった。



私は小さく手を振って彼を待とうとしたけど、私も早く近づきたくて、真造君を見つめながら人混みをかき分けて駆け寄った。



流れる人混みの中で立ち止まった二人。真造君が穏やかに笑うのは、私もきっと同じように笑えているから。そんな二人に言葉は必要なく、私達は何も言わずにキスをした。私がまぶたを閉じようとした時、真造君のまぶたが閉じていく瞬間が見えて、同時に望んだキスが嬉しかった。



「えっとね…なんだっけ?」



照れた真造君は何か言ってるけど何も言っていない。私は何も言わずに再会が嬉しくて抱きつくと、彼も優しく抱き返してくれる。



もう、すでにこの瞬間が止まっている。何も聞こえないし、何も見えない。ただ真造君のことが好きで、自分の中にしっかりと宿っているその気持ちが、暖かくて愛しい。



「洗濯物のいい匂いがする」



「俺、マザコンやからな」



まるで自分が幼い女の子になってしまったような感覚で真造君を見上げる。真造君は優しく微笑んで頭を撫でてくれる。



「ここでずーっとこうしててもいいんやけど、邪魔になるから行こっか。おいで」



真造君はそう言って私の手を引く。明るい昼間だからだろうか。真造君の眼からは、数年前に見たあの印象深い寂しさが感じられない。



真造君の車の助手席に乗り、シートベルトをする。すると彼は、そっと左手を差し出した。



「え、危なくない?ちゃんとハンドル持ったほうが…」



「毎日乗ってるし安全運転やし、自分の能力も把握してるから大丈夫やで」



と、差し出した左手を下げようとしなかったので、私は手を繋いだ。



「この左手ね、サチノさんにあげるよ。右手ほど使えないけど、頭の悪い俺をずーっと守ってくれてたいい奴やねん」



真造君はそうやっていつも不思議なこと、少し変わったことを言う。でも、もうその言葉の意味がすっかりわかっている私は、彼の左腕を両手で抱きしめた。


京都ならではの観光スポットを巡る。



「金閣寺って本物も金色だったんだ」



わざとらしい顔ととぼけた発言。まるでブログのゼトーさんが私の携帯から出てきたみたい。



「疲れた? しんどくない?」


「大丈夫? 歩くの速くない?」


「トイレは大丈夫?」


「喉乾いてない? お腹空いてない?」



細かくて、恋人というよりもまるで親みたいな気遣いは、ミニメールを続けてくれていた真造君そのもの。



「何? どうしたの?」


「ううん、なんでもない」



私は真造君の手を思わず強く握ってしまう。本当に、本当に私の眼の前にいる人は真造君なんだと、何度も確かめるように見つめてしまう。ずっと私を支えて、守ってくれていた人が隣にいてくれる。私は彼と、彼の優しさと手を繋いでいる。


「私、東京に帰りたくない…寂しい」



だんだん暗くなってきて、駐車場にある自販機が光りだした。私は京都には泊まらずに日帰りで東京に帰ることを家族と約束して出てきていた。



そのせいか時間ばかりを気にしていて、本当は真造君と会った時、彼の顔を見た瞬間から、帰る時の寂しさを心のどこかで感じていたと思う。



「そうやね…もうご飯食べたら帰る時間やし、次はいつ会えるかわかんないからね」



まるで真造君は私が寂しくなっていることを楽しんでいるかのように、切ない言葉を平気で口にした。



「私に、もっと寂しがって欲しい?」



私は少し試されているような気がして、私も彼を試すかのようにそう言った。すると彼は私を見る前に私を抱きしめ、



「ごめん、そんなんじゃないよ。俺このやりとり嫌い。サチノさんが好きなだけ」



真造君は弱々しくそう言った。その時、また一つ記憶が蘇る。そうだ、彼は駆け引きが嫌いだった。



自分にも相手にも嘘をつくのは仕事中だけで、自分の内側に立ってくれる人には嘘も駆け引きも持ち込まない。



彼は真剣にそんなことをブログで語っていたことがあった。



「違うの。ごめんなさい。私、寂しくて…」


「ううん。俺も本当はずーっと寂しかった」



抱きしめられた私は真造君の顔を見上げる。その瞬間、呼吸を忘れてしまうほど凍りついてしまう気がした。



あたたかく穏やかな表情で私を見ている真造君。ただ、その眼だけがとても寂しそうだった。



「お願いすぐにキスして」


「何?どうしたの?」


「いいからお願い」



言葉では伝えられないと思った。というより何も言葉が見つからなかった。



私はキスをしながらまぶたを閉じた真造君の顔をずっと見ていようと思ったけど、彼のまぶたが微かにふるえていて、それが愛しくて、寂しさと幸せに押しつぶされるように私もまぶたを閉じた。



「どうしてそんな寂しそうな眼をしてるの?」


「生まれつきかな。写真撮るとさ、ほとんどが少しだけ反省してる顔になる」



「私じゃダメなの?」


「こういう寂しさに触れてくれたのって、サチノさんだけやで。嬉しいよ」



真造君はそう言いながら微笑んでキスを繰り返す。でも、その寂しい眼は嘘をついていない。真造君は寂しさに支配されている。



しゃぶしゃぶのお店は初めて。個室も初めてで、狭いこの空間で向かい合って座っていることがなんだか勿体無い気がする。



「掘りごたつは楽やなぁ。腰痛持ちは助かるよ」



「いちいちおっさん臭いね」



「おっさん臭いってかっこいいよね。だからおしぼりで顔も拭きます」



本当に日記そのままの発言。今、私の前にはゼトーさんが、そして真造君がいる。



たわいのない会話をしていると鍋も熱くなり、たくさんの肉や野菜がテーブルに並ぶ。



「サチノさん、手が届かなさそうやね」


「うん、なんだかこぼしそう」



「取ってあげるから隣においで」


「…恥ずかしいよ」


「いいからおいで」



私も隣に座りたいと思っていたくせに、真造君がそう言うなら仕方がないみたいな態度で、彼の隣に移動する。



「好きな人には隣にいてほしいし、あんまり向き合うのは得意やないの」



「私も。顔見て食べるの恥ずかしいし、見られてるのはもっと恥ずかしい」



「それもあるけど、なんだか敵対してるみたいでさ。好きな人とは同じ方向から同じ景色を見ていたいから」




「前の彼女さんともそうだったの?」



私がそう聞くと、真造君の動きが止まった。



「前の彼女とは…うん。考え方の違いで対立してしまってたからね。こうはできなかったよ」



真造君は過去の恋人とのことを話し出す。真造君は恋人が話すことはどんな話でも聞く人だったらしい。



でも、男女というだけで考え方も違えば、結果や結論を先に察してしまうような、そんな態度をとってしまうところもあったらしい。



自分の解釈ではなく、相手が口から吐き出す気持ちを最後まで聞くことに意味があることを知らなかったと、後悔している様子だった。



「同じ気持ちになれてなかったから、そんな態度やったんやと思う。だからってわけじゃないけど、隣で同じことを感じていたいなって。好きな人のことは知っていたいから」



頭の中に励ましや慰めの言葉が気持ちと共にたくさん浮かんできていたのに、私は真造君の眼を見て再び凍りついてしまう。



言葉を失った私は真造君の袖を引っ張り、じっとその眼を見つめる。



「え、なんでサチノさんが泣きそうなの?」



「私、ここにいるよ」



自分の声が震えていた。その震えた声が真造君の寂しそうな眼を震わせたのかもしれない。真造君は涙を流しながら私の手を掴み、ゆっくりと何度も頷いた。

「ずっとね、待ってた。サチノさんのこと、ずーっと待ってたよ」

その涙の訳は私だった。

「いつから好きやったとか知らんと思うし俺もわからへんけど、同じ寂しさを持ってるって気づいて。それから放っておけなかった」

真造君は出会った頃の二人のことを話し始めた。ネット上で気持ちが繋がったこと、私が初めて弱音を吐いたのもこの人で、真造君からもらった言葉が血液と共に身体中を巡っていて、私という生き物は僅かな熱を帯びて今を生き、その人と同じ気持ちになれて、今私はその人の眼の前にいる。

「ずっと支えてくれていたゼトーさんが、私の前にいる…」

私を救ってくれた人。ずっとそばにいてくれた人。私は今までそんな人にどんなことをしてきたのか。どんなことをしてしまっていたのか…。





京都駅のホーム。少し肌寒くて、夜空の下の灯りには大きな音と忙しない雰囲気。ベンチに並んで座る私達。私は繋いだ手をじっと見ていた。別れの時間がもうそこまで来ていた。



「…寂しい」



私は真造君がいない明日や、真造君がいなくなってしまう30分後を思うだけで泣きそうになり、素直にそう言った。


「今度は会いに行くよ」



「いつ?」


「早く会いたいけど、寒い日は嫌いやから、暖かくなってからかなぁ」


真造君がそう言うと私は彼の太ももに思いきり爪をたてた。


「でもなぁ、春は春で花粉が舞うからなぁ」


真造君はそう言った後、突然真剣な顔をして私の顔をじっと見つめてきた。


「え…何?」


「あのさ、寒すぎておしっこ漏れそう。俺、そろそろ行くよ。おしっこ漏れそうやし」


真造君はそう言って急に立ち上がった。



「ダメだ! 思い出したら余計に漏れそう。ごめんね。また連絡ちょうだい! 次は会いに行くから! すぐ行くから!」



そう言うとまるで小鳥同士のような一瞬のキスをして、彼は走り去って行った。



何も言えずに急にひとりになった私は、新幹線が来るまでの残り数分間を、今日の中で最も長く感じながら、寂しさを忘れてしまいそうなくらい、真造君のマイペースに呆れていた。



「真造君と結婚したい。ずっと一緒に暮らしたい」



短い一日の中で、何度そう思ったか数えきれない。彼の声、彼の匂い、その存在全てが愛しくて、感じる度にそう思っていたのに。



「真造君はないな…」



私は心のどこか端っこのほうで、そう思いながら新幹線に乗った。



「隣いいですか?」



京都を離れて数分後、窓の外を見ているようで見ていない私に誰かが話しかける。ゆっくりとその声がするほうを見ると、なぜかそこには真造君が立っていた。



一瞬、夢なのか現実なのかがわからなくなった。真造君は返事もできずにいた私の隣に座ると、そのまま肩を奪ってキスをしてきた。下唇の感覚が麻痺するほど、私達はずっとキスをしていた。



時々ほんの数秒だけ二人の唇が離れた時にじっと見つめ合う。その後にまたすぐに唇を重ねて、新幹線の中では一言も話さなかった。



キスをしている時の彼の片方の手は、私の手を握りしめていて、もう片方の手は、髪や頬を優しく撫でたり、時々肩を強く抱き寄せようとして、ずっと私に触れていてくれて、それがとても心地良かった。



私が彼の舌の裏を舐めると、彼はまるで思わず声を漏らしたことを恥ずかしそうに、それを隠すように私の下唇を噛み、その声を必死で抑えようとする。その仕草が可愛かった。

彼が舐めていた飴の形も匂いも無くなってしまい、互いの人間の匂いを感じる。その匂いは、真造君も同じように感じているはず。他人の匂いは嫌いで、自分の匂いが他人に知られるのはもっと嫌い。なのに、今はそれが愛おしい。私はこの瞬間、それを愛の匂いとして、なんだか大人になったような気がした。





東京駅に着いてからすぐ、



「飴いる…?」



真造君が言った。なんだかとても可愛かった。

そして、彼は私に紙袋を渡す。中にはあり得ない数のチョコミントが入っていて、チョコをこんなに重く感じたことは初めてだった。



「なんかあれやね…孫娘に渡すみたいになっちゃった」



どうして来てくれたのかとか聞きたいことがいっぱいあったけれど、そんな時間がもったいなくて、私は何度もキスをねだっていた。



「またすぐに会いに来るから」



「ありがとう、大好き」



「うん…」



真造君は突然下を向いて涙を落とした。私は真造君に抱きついて顔を見上げる。彼は顔をしかめることもなく、ほぼ無表情のまま涙だけを落としていた。まるで人形みたいな人間だった。



私は木の枝から果実を取るように両手で真造君の顔を引き寄せ、その涙を拭うように頬に口づけをする。真造君は何も言わずにじっと立っていた。



「真造君…大丈夫?」



「ん? うん…大丈夫。ごめんごめん、ありがとう」



泣き止んだ真造君はまたあの眼をしていた。



「どうして、そんな寂しそうな眼をしてるの? ずっと思ってた」



「またいつか、これも消えてなくなるんじゃないかって。いつもどこかで思ってしまう…幸せが少し苦手かもしれない」



まるで真造君は数年前の私みたいだった。

数年前の、ブログの中で真造君と出会う前の私みたい。見えないものに見下されて、それを嫌って、人のことも自分のことも信じられなくて。聞かれると答えられない不安にいつも押しつぶされていて。自分を責めることばかりに慣れて。



「真造君って、真造君と知り合った頃の私みたい」



普通という言葉に見下されて、傷つけられて、それでも普通に憧れて、なりたくて、でもやっぱり絶対になりたくなくて。



「今度は私がその傷に触れたい…」



二人は似ていた。似ているから惹かれたんだった。あの詩も、あの考え方も。


私は自分よりもずっと大きい身体をした真造君を抱きしめた。


「優しいね…サチノさんが弱ってくれているほうが楽やったかも。俺が弱る暇もないくらいにね」

寂しそうな眼が、寂しそうなまま、それでも少しだけ笑って、その眼を細めながら私にキスをして、

「そろそろ行くよ。またすぐに会いに来るから」

「うん」

「俺よりも先に寂しくて気が狂ってくれたほうが、俺は助かるけどね」

「うん、じゃあ明日かな?」

静かに笑い合って、二人は同じように互いの頭を撫でていた。


私達はそれぞれの家に帰った。



両親は真造君が大袈裟に買ったたくさんのお土産を見て思わず声を上げている。私はいつまでも心が踊っていて、



「さ、着替えてきなさい」



母親にそう言われるまで、その日のことをたくさん話していた。部屋で荷物を整理していると、たくさんのチョコミントの中に、手紙とネックレスを見つける。





「緑が好きなどこかの君へ


俺はいつだってここにいるから」







おしまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?