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フラメンコとブラジル音楽、その点と線。

先年惜しまれつつ亡くなったフラメンコギタリストの神、パコ・デ・ルシアに首ったけになったのは大学生の時。かれこれ20年以上前のことだ。

ちょうどカルロス・サウラ監督の「Flamenco」という素晴らしいドキュメンタリー映画が公開されたこともあってズブズブとぬかるみにハマっていき、以来、ずーっと好きで(こっそり)フラメンコをコアに聴いていた。

当時はまだVHS(歳バレる)の時代で、マニアックなフラメンコのビデオを買い揃えては(白黒の映像のやつとか)文字通り"目を皿のようにして"見ていた。特にパコのCDはほとんど揃えて、好きなCDになるとフレーズを暗記するくらい聞き続けていた。

普段あたくしサイゲンジの音楽は「ブラジル音楽」というワードで括られることがほとんどで、それは全く間違いじゃないんだけど、普段の生活では他のジャンルの音楽をそれ以上に聴いている。特にハマったものを掘り下げるオタク気質は我ながら極端だ。その大きな一つがフラメンコだった。

そんな"憧れの"大好きなフラメンコギターを、意を決して始めてから早5年くらいになる。

最初は個性の強いジャンルなので、自分の普段の音楽に弊害が出ないかな、とか、またあんな果てしなく難しそうなもの手を出すべきじゃない、とか色々気にしてたんだけど始めたらそんなこと全く気にならなくなるくらいハマってしまった。
今どきYouTubeに動画がめちゃくちゃ充実してるので、独学でいけるのもデカかった。

まずフラメンコは今まで学んできたジャンルのギターの奏法とは段違いに基礎のテクニックが難しいこと。正直テクニック的にはボサノヴァやブラジリアンの比じゃない。

そして「コンパス」と言われるフラメンコ独特の12拍子のリズムに厳格な決まりがあり、複雑で難解、でも圧倒的に魅力的なこと。「知りたい」と渇望させる何かがあるのだ。

さらに「ファルセータ」と言われるギターのフレーズ、というか小曲が基本的にそれぞれの奏者任せで、作曲することが三度のメシより(同じくらいかな笑)好きである自分にハマったこと。などなど。

今や完全にライフワークと化したフラメンコの練習は自分の音楽生活には欠かせないものになった。

特にこのライブのないコロナ休みの中、家で全く退屈せずに過ごせてるのは全くもってフラメンコギターのおかげ。実際指さえ痛くならなければ一日中弾いてられる。(腱鞘炎にならないように常に気をつけつつ)

個人的にフラメンコの魅力の一つは"厳格なリズムの決まり"と"それを絶対の掟として守りつつ、その中でいかに自由に個人の創作と感情をぶち込めるか"という相反する事象のせめぎ合いにあると思う。

片やブラジル音楽は最小限の決まりはあれど、音楽的にはほぼ「完全な自由」が保証されていると言っていい。どういうハーモニーを、メロディを使っても、小節が半分伸びようが縮もうが、それは奏者の、作曲者の自由だ。つまり個人の「センス」を自由に音楽に反映できる、という部分があると思う。(ゆえにあれほど個性的なブラジルのミュージシャンを沢山輩出した、と言える。)

フラメンコでは基本的にリズムが一拍伸び縮みするなんて絶対に許されない。たまに「メディオ(真ん中)」といって12拍単位だけど6拍のフレーズ(つまり半分)を挟むことはあるけど、これですら沢山はない。

先日某雑誌で同世代のフラメンコギタリストのスペシャリスト、沖仁くんと対談したときの話。沖くんはスペインのヘレス(フラメンコの聖地の1つ)の空港に降り立って乗ったタクシーの運転手さんに「おい、おまえギターケースなんか持ってるけど、まさかフラメンコを弾くんじゃないだろうな。何?弾く?あのな。フラメンコはスペインの、それもアンダルシアのジプシーにしか弾けないんだ。魂が違うからな。」と言われた、という話。

パコ・デ・ルシアの伝記映画の一部分で、パコがとあるフェスタ(ホームパーティー)でジプシーの歌い手が「お前みたいな〜白人風情がフラメンコ なんか弾けるわけが〜…」みたいにからかって歌ってて、それをパコがニコニコしながら伴奏してる、という話。あの世界のギターの神パコに、である。キツいジョークだ。

片や自分がブラジルにレコーディングに行った時も、ブラジル人のミュージシャンに会ったときも、「おー、サイゲンジぃぃぃ!おまえのCD聞いたぞ!7曲目のあの曲が良かったなあ… いい音楽を作るなあ。いつか何か一緒にやろう!」などと自分が地球の裏側の(向こうから見れば)日本人であることなど、何の関係もなくフラットかつオープンに受けいれてもらった経験がほとんど。それを沖くんに話したら、「めちゃくちゃ羨ましい 笑」と。

これはフラメンコとブラジル音楽のベーシックのメンタルにかなり対極の要素がある、という1つのサンプルだと思う。(どこの国にも色々な人はいるけど)

ジプシー(スペインではヒターノという)の純血主義であるスペインのゲットー、アンダルシアの音楽フラメンコと、混血を繰り返し、変異を厭わず重ねてきた大洋的なブラジル音楽。

ところで自分は思うに音楽にその両方の部分、対極の部分、のどちらをも欲している、ような気がする。

フラメンコギターを練習すること自体は大いにマゾヒスティックな部分があって(パコもインタビューで言っていた。そのせいで離婚した、とも。笑)ライブというアウトプットの多い自分には圧倒的なインプットのエネルギーになっているのは間違いない。

あと単純にフラメンコギターを練習していれば、ギター自体は絶対にヘタにならない、退化しない、という部分があって、これは発見だし、助かってる。

今後フラメンコギターはずっとライフワーク的に死ぬまで弾き続けると思うのだけど、果たして「フラメンコギタリスト」になりたいのか?と聞かれたら、「いや、それは全くない。」と断言します。

フラメンコギターはやはり"フラメンコの中でこそ"(特にカンテと呼ばれる歌とのコンビネーションの中でこそ)生きる、というのはフラメンコの好事家(スペイン語でアフィシオナード)である自分だからこそ痛感するし、そこに自分がいる資格はない、つまり身を捧げる気がなければダメだ、というのは骨身に沁みてわかる。

それはブラジル音楽もしかり、ポルトガル語をちゃんと理解してない自分にはブラジル音楽は「音として」しか自分の脳には入ってこない。多少話せる英語ですらそうなのは不思議だ。バイリンガルだと違うんだろうなあ。

日本語で歌えば、「音ではなく言葉として」脳に入ってくる。自分が日本語でオリジナルを作って歌うのは母語だとちゃんと言葉を歌えるから、だということはある。

でもここまでやってるからには一度ちゃんとフラメンコとしての決まりをちゃんと守ったオリジナルの楽曲をいくつか発表したいな、とは思ってる。

あと偽名でも使ってフラメンコギタリストとして活動してみようかな、と思う時もある。笑

なんにせよ、この深い沼のような世界に引きずり込んでくれたパコ・デ・ルシアに追悼と感謝の意を評してパコの素晴らしい言葉を。

「天才とは99%の汗と1%の才能である」

シビれる。

精進します…

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