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宗教は非科学的だから信じないと言う論理

「あなたは神を信じますか?」

そう聞かれたらどうお返事しますか?

宗教なんか信じない…

そう答える人も多いと思います。

その理由は?と聞くと、
「非科学的だから」と言う人も多いでしょう。

実を言うと、この理屈はかなり「怪しい」のです。

そんなことはない、どんなに自然を調べても「神」なんか発見されないじゃないか!

…当たり前です。「神」が、「自然」の外部にいて「自然」を造った存在だと考えた場合、いくら自然を調べても「神」がいるかどうかは分かりません。

そして、「人間」も「自然」の内部に存在し、「自然」の「外部」の事は知りようがありません。

つまり、神がいると考えるかどうかは、そういう風に考えたいかどうか「趣味」の問題に過ぎない…

論理的に考えると、こういう結論にしかならないのです。

実を言うと、中世のヨーロッパで現在で言う科学・・・つまり、自然のことをあれこれ研究する学問は、「自然学」と呼ばれていました。

「自然神学」と言う言い方もあります。神様が造った自然について研究しようと言う発想です。

ガリレオにしてもニュートンにしても宗教(キリスト教)を否定しようとしたのではなく、神様が造った自然について研究しているうちに、様々な科学的発見をしたわけです。

この後、皇帝ナポレオンがラプラスの著書を読んで「お前の本には神が出てこなかった」と言うと、ラプラスは「陛下、もはや神は不要なのです」と返事をする出来事が起こります。

これは「聖俗革命」、つまり、「神様」が「自然」なり「自然法則」なりを造ったと言う発想を抜きに自然の研究をしようと言う発想・・・

神様抜きの自然科学の成立の象徴的事件と言われています。

現代の自然科学は、「神様抜き」に存在していますが、これはこの「聖俗革命」の所産です。

別な言い方をすると、中世のヨーロッパでは「神様が自然法則を造った」と考える「趣味」の人が多数派だったが、近代ヨーロッパでは、そう言う風に考えない「趣味」の人達が多数派になったと言うことです。

さて、日本の場合、江戸時代の「蘭学」を通じて、近代科学の受容が行われました。この時期はヨーロッパで「聖俗革命」が行われ、「神様抜きの自然科学」が成立してきた時代です。

また、日本の場合、吉利支丹禁教政策もあり、キリスト教に関わりのない西洋の学問について解禁すると言う形で「蘭学」が始まりました。

おそらく、ヨーロッパで「神様抜きの自然科学」が成立し、日本ではキリスト教抜きで自然科学を学ぼうと言う両方の事情がシンクロして、

当初から「自然科学」は「宗教抜き」の状態で日本人の間に受容されたものと思われます。

更にもう一つの事があります。
蘭学を学んだ本居宣長のような国学者は、「仏教的世界観」が誤っていると考えるようになったそうです。

江戸時代は幕府公認の学問は儒教でした。また吉利支丹禁令の中、社会の全員がどこかの仏教のお寺の檀家になることが求められました。

こうして、儒教と仏教のルールの元に社会が運営されていたわけです。

仏教の世界観では須弥山と言う山が世界の中心にあるそうです。天台宗教学を修めている北畠親房の神皇正統記には、須弥山の周りに香水海があり、その周りに7つの金山があり、その外に四大海があると書かれています。

この須弥山を中心とする世界観は、神様が7日間で世界を造ったと言うキリスト教的世界観とは違いますが、やはり一つの宗教的世界観です。

ところが、本居宣長は、蘭学、つまり、西洋の自然科学を学んだ結果、この仏教的世界観は間違っていると思うようになったらしいのです。

古代・中世の日本人にとっては、仏教も外来宗教です。

ですから、蘭学を学んで仏教的世界観を否定するようになると言うのは、新しい外来思想を知って古い外来思想を間違っていると考えるようになったと言う事です。

これは日本人の宗教観を考える上で重要な問題ですが、今回のテーマからは外れるので、別な機会に論じることにします。

とにかく、日本人は西欧近代科学を受け入れるにあたって、キリスト教抜きの形で受け容れると同時に近代科学を学んで仏教的世界観も否定するようになった、

つまり、仏教、キリスト教、2つの世界宗教と決別する形で自然科学を受け容れているわけです。

おそらく、日本人で「宗教は非科学的だから信じない」と考える人の発想は、こうした「仏教もキリスト教も抜きにした自然科学を学んだ」と言う歴史的経緯に影響されていると思われます。

ところで、先に述べたように、自然法則を「神様抜き」で考えるか、神様が造ったと考えるかは、「趣味」の問題に過ぎません。

また、自然科学的世界観と仏教的世界観についても、新しい外来思想が古い外来思想より正しいと考えるかどうかは、「趣味」の問題なのです。

ただ、神様が自然法則を造ったとか、世界の中心に須弥山があると言う事を前提にしなくても(信じなくても=そういう趣味を持たなくても)、自然を研究する事が出来て、自然法則について記述が可能な体系の方が、そう言う趣味を前提にした体系よりも「有用性」が高いことは事実です。

日本人の場合も実際に蘭学を学ぶ事で病気を治療する事が出来たと言う「有用性」が自然科学受容の前提にあるのではないでしょうか?

理系でカルトに入信してしまう人の場合、何らかの形で自然科学の「有用性」の限界を感じてしまったと言う事が動機になっているのかもしれません。

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