見出し画像

国民の富の源泉、そして、都市産業と農業の関係

経済学の祖、アダム・スミスは「国富論」冒頭、「序編及び本書の構想」の中でこんな事を述べています。

「第三編は、農業を阻害してまで都市の産業を奨励する政策が取られた背景を論じる」

アダム・スミスが経済学を論じるようになったのは、産業革命後、資本主義が成立してきた事情があると思います。そして、その直後から既に農業を犠牲にして都市の産業を奨励する政策が取られていたのでしょう。

それはなぜなのか、国富、つまり、国民の富の増大のためには、都市の産業の奨励が必要であり、そのためには往々にして農業が犠牲にならざる得ない、

「経済学」と言うものが成立した当初から、そういう主張がなされていた事が分かります。

ところで、「資本論」を書いたカール・マルクスは、「共産党宣言」の中でこう述べています。

「農業と工業の経営の結合。都市と農村の対立の漸次的除去。」

つまり、マルクスは「農業を阻害してまで都市の産業を奨励する」政策に批判的だった事が伺えるわけです。

ところで、アダム・スミスもマルクスも「価値」と言うものは労働の成果とし得られるものだと認識していたようです。

「国民の年々の労働は、その国民の年々消費する生活の必需品と便益品のすべてを本来的に供給する源」

アダム・スミスは、「国富論」をこう書き出しています。

マルクスの労働価値説について、「労働で価値が生まれるって、誰も買わないようなものを作って、自分が労働したんだから価値があるなんて理屈はおかしい」と言う人がいますが、それは誤解です。

スミスが言っている事は、ある商品が価値を持っている、それは誰かが、その商品を作り、そこまで運んできて、供給すると言う「労働」をした結果として存在している、そうやって生まれた価値の総計が国民の富の源泉だと言う事です。

マルクスは、スミス以降成立してきた労働価値説を受け入れながら、そうして生まれた価値が資本家と労働者の間で、不公正に分配されているんじゃないかと述べたわけです。

こういう風に、資本主義の側のスミス、社会主義の側のマルクスの双方が、誰かが働いた結果として価値が生まれてくるとしているわけですが、

これに異を唱えているのが、イスラム経済学者ムハンマド・バーキルッ・サドルです。

サドルは漁師が真珠を採取して市場に持ってこなくても、神によって真珠の価値は与えられている、漁師は採取すると言う労働を通じて、その真珠を保有する権利を与えられたに過ぎない

と言うような事を述べています。

サドルの見解が興味深いのは、価値とか所有とかと言うものの源泉が、人間の労働にあるのではなく、「神」にあるとしている事です。

土地についても、人間の側が、自分のものなのだから、どうしようと勝手だと投機の対象にしたり、地下資源を取り尽くしたり、樹木を無制限に伐採したりするのはおかしい、

人は神のものである土地を保有する権利を与えられているに過ぎないので、正しく活用する義務があると言う主張なわけです。

この考えは、日本の耕作放棄地問題を考える上で面白い視点を提供してくれています。

自分の土地なんだから、耕作しないで放置しておいても構わない、ただ、持っていれば、将来、売れるかもしれない・・・

と言う考えの地主がいるとしたら、その地主の考えに異を唱えるものだからです。

日本の場合、「神」を持ち出すのは難しいかもしれませんが、「公共の福祉」の観点から、「田園景観の保全」は必要であり、そのために「私権」、すなわち、売買の自由は一定の制限を受けると言う発想は、既に農地法等にもある程度反映されているのではないでしょうか。

ちなみに、南北朝時代に書かれた北畠親房の「神皇正統記」には、田んぼで採れたお米を食べたり、井戸の水を飲んだりできるるのも皇恩・神徳であると言う趣旨の事が書かれています。

神皇正統記は、天下の万民(世の中の人)は神物(神様のもの)と述べています。日本の場合、その人々をいったん神様からミカドが預かり、人臣である摂政関白や征夷大将軍などの公家・武家に委ねていると言う発想です。

だから、公家や武家が、自分の領地であるからと言って、好き勝手できるわけではなく、神⇒ミカド⇒公家・武家と言う順で委ねられた結果として、領地内の田んぼや井戸がある(皇恩・神徳)事を考えよと言う主張になっているわけです。

ちょっと、話があっちこっちに飛んでしまいましたが、「価値」とか「富」とかと言うものがどのように生まれてくるのか、

農地とか農業と言うものと、都市の産業の関係はどうあるべきなのか、

そう言う事を考えながら、国富論を読んでいきたいと思います。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?