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改革の横取りか平和勢力か…藤原氏と古代日本の体制転換
改革の成果を横取り?
「6つから良い土地もらえる班田収授」の語呂合わせで645年と覚えた大化の改新。
「敗者の日本史~大化の改新と蘇我氏(大山美都男 吉川弘文館)」では、どうやら公地公民制は、蘇我氏が構想していたものではないかとしています。
「謎の豪族~蘇我氏(水谷千秋 文春新書)」も同様の見解を取っています。
おまけに「古代荘園───奈良時代以前からの歴史を探る(吉川真司編 岩波書店)」では、藤原氏(中臣氏)の所領は、興福寺の所領になっています。
興福寺は、藤原不比等が藤原氏の氏寺とした寺です。
実は、先祖の中臣鎌子は、物部氏と一緒に仏教受け入れに反対していますが、その物部氏の所領は、法隆寺領になったのだそうです。
この展開を聞くと、藤原氏は、仏教受け入れや公地公民制などの蘇我氏が考えていた改革の成果を横取り、それも、反対していたはずの仏教の側にちゃっかり転換し、改革後も自分達の既得権益を維持したと言う状況が浮かんできます。
腕力のない新興勢力
蘇我氏が台頭する以前の倭国では、大伴氏が「キングメーカー」でした。
日本書紀では、次の大王を「男大迹王(継体天皇)」にしようと言い出したのは、大伴金村だと言うことになっています。
その後、群臣(「まえつきみ」と読みます)と呼ばれる重臣達が次に大王になる人を「推戴」し、即位した大王が、重臣たちを任命する「推戴制」がしばらく続きます。
日本書紀に記載される「群臣」リストを見ていくと、ある時に大伴氏の名前がなくなり、蘇我氏の名前が入ってきます。
そして、蘇我氏は、群臣になると同時に、「大臣(おおおみ)」になります。
今で言えば、当選1回の議員がいきなり内閣総理大臣になるようなものです。
この蘇我氏がどういう存在だったかについて、先に挙げた水谷さんの著作では、それまでに様々な歴史学者が唱えた「帰化人(渡来人)」説等を紹介した上で、天皇家以前に王権を持っていたとされる「葛城氏」の系統ではなかったかとしています。
蘇我氏の「正体」は不明ですが、いずれにしても新興勢力で、あまり既得権益は持っていなかったようです。
だからこそ、改革を構想できたのでしょうが、逆に言うと、腕力がなく、改革を推進する力がなかったようです。
既得権益と改革の関係
蘇我氏と藤原氏の「腕力」について、考えていくと、日本における改革の可能性の問題に突き当たります。
日本は、「小さい」と言われていますが、それはアメリカや中国、ロシアなどの「キングサイズ」の国と比較しての事です。
ヨーロッパや中東では、首都から国境まで車で1時間程度の距離の国も多く、こうした「Sサイズ」、「Mサイズ」の国と比較すると日本は「2Lサイズ」か「3Lサイズ」の大きな国です。
キングサイズの国では、連邦制が発達しますし、Sサイズ、Mサイズの国では、中央政府(国王)の命令で動く集権性が発達します。
日本のような2Lサイズ、3Lサイズ国家では、中央と地方、または各種集団が「もたれ合い」ながら対立すると言う関係になりやすいと言えます。
こうした「もたれ合い」が起きやすい国で、改革を進めようとすると、一定の「腕力」が必要となります。
改革の構想は、既得権益がないからこそ出てくる発想ですが、腕力がないと改革は推進できない、腕力があって改革を進められる人は一定の既得権益を持っていて、自分の持っている権益は改革後も残るようにしていく・・・
日本における改革は、こういうジレンマの中で進展せざる得ない面を持っているのかもしれません。
「日本」と「韓国」の成立
しかし、外交関係から考えていくと、藤原氏は、平和勢力だった可能性もあるように思われます。
大伴氏や蘇我氏の失脚理由は、韓政、つまり、朝鮮半島政策にあるのだそうです。
日本書紀には、大伴金村が倭国の「領土」を百済に譲った責任を追及されて失脚する話が出てきます。
ここで、当時の日本列島と朝鮮半島の勢力関係について取り上げると、実態がどうだったのかは、諸説あって難しいようです。
いわゆる「任那日本府」については、戦前は、大日本帝国が韓国を支配する正統化の理屈に使われました。戦後のマルクス主義史学は侵略だったとしましたが、「任那日本府」と言う形で、倭側が朝鮮半島に領地を持っていたと言う認識には変わりありません。
しかし、実際は朝鮮半島南部に「出先機関」があった程度と言う説もあります。
また、先に述べた継体天皇の時代に起きた「筑紫野君磐井の乱」について、歴史学者・山尾幸久さんは、当時は「新羅・筑紫連合」対「百済・大和連合」と言う関係だったと述べています。
つまり、日本列島と朝鮮半島にそれぞれ統一国家が出来る前の状況と言うのは、列島側・半島側、双方とも、こちらが日本(倭)で向こうは韓(朝鮮)と言う意識があったかどうかも疑わしいわけです。
ただ、徐々に、国家的な統合が進むうち、こちらは「倭」で向こうは「韓」だと言う意識が形成されてきます。
「韓政の失敗」と言う言い方自体が、その事を示しています。
「倭」側が「韓」側に持っていた「利権」の内容も不明点が多く、朝鮮半島の鉄資源が欲しかったと言う論については、「鉄の古代史(奥野正男 白水社)」は、日本国内で出土した鉄器は、日本列島で製鉄されたものもあるかもしれないとしています。
ですから、当時の「日韓関係」については分からないところだらけなのですが、
どうやら、倭側がなんらかの形で朝鮮半島に出兵をしていた、日本列島・朝鮮半島双方で「国家統合」が進む中で倭側が朝鮮半島内に持っていた何らかの「利権」は放棄せざる得なくなってきたと言うことは言えそうです。
挫折した強硬路線
こうした状況の変化を受けて、大伴氏や蘇我氏は、対外融和路線を歩もうとしたと思われます。
国内強硬派は、そうした妥協を批判し、この批判が大伴氏・蘇我氏の失脚につながっていったようです。
しかし、強硬路線は結局、挫折します。
倭の水軍は、唐・新羅の連合軍の前に白村江の海戦で、ほぼ全滅となる敗戦を喫します。
敗戦後、倭側は、九州に水城を作り、遠く東北地方からも防人を徴用、更に危機管理のために、都を近江に移します。
この近江遷都は豪族たちには不評で、中大兄皇子(天智天皇)の死後、壬申の乱によって近江朝廷は滅び、大海人皇子が天武天皇として即位します。
処罰も高位もなかった藤原不比等
さて、藤原鎌足さんは、中大兄皇子=天智天皇(近江朝廷側)の重臣です。
その子の藤原不比等さんは、近江朝廷が滅ぼされた壬申の乱の後、特に処罰されることはありませんでした。
かと言って、取り立てて高位に登ることもなかったのですが・・・
鎌足さんは、天智天皇が亡くなる以前に世を去っており、壬申の乱そのものと藤原氏は、無関係でいたことが関係しているのかもしれません。
やがて、不比等さんは、判事(文書管理を担当する役人)に任命され、徐々に「出世」して、娘を皇后にするまでになります。
実は、不比等さんの娘・宮子さんが、文武天皇の子を出産(701年)の翌年が、遣唐使再開の年(702年)です。
不比等さんの出世と日唐の国交回復には関係があるのでしょうか?
藤原鎌足・郭務悰の縁
日本書紀は、白村江敗戦の直後、唐の使節・郭務悰が、倭国にやってきたと記しています。この郭務悰の饗応を内大臣の藤原鎌足(当時は、まだ中臣姓)が行ったともあります。
鎌足さんは「敗戦処理」を行いながら、唐側と何らかの人間関係を作ったのではないでしょうか。
中国仏教と倭のカミサマは、親類どうし?
これは想像の域を出ないのですが、祭政一致の古代において、文書管理を任された(任されるほど、古今の文書=宗教関係を含むに詳しかった)不比等さんは、中国仏教と倭のカミサマは、対立する関係でないとどこかで気づいたのかもしれません。
仏教学者のひろさちやさんは、中国に仏教が伝来した時、中国人は道教の概念で仏教を理解しようとしたとしています。
この「道教」ですが、日本道教学会の「道教と日本」選集所載の諸論文を見ると、どうやら、太古においては、例えば、仏教の事も道教と呼んでいたことがあると言った事例が述べられています。
つまり、「道」は、今日で言う宗教や倫理の意味に用いられていたようです。(現代でも「道徳」とか「人道」と言った表現は、「道」をこの意味で用いていると言えます。また新約聖書の日本語訳でも、原初のキリスト教徒(まだ「キリスト教」と言う名称はない時期です)について、「この道の者」と言う表現を用いています。
ですから、太古においても中国に何らかの「宗教」があり、その「太古中国宗教」について、中国人は宗教とはこういうものだと考えていた、
それが、ひろさちやさんの言う「道教」、すなわち、後世に成立した老荘思想に基づく「道教」ではなく、「太古中国宗教」だったのではないかと思われます。
道教が日本文化に与えた影響
そして、この「太古中国宗教」は、例えば、魏志倭人伝が卑弥呼に銅鏡(祭器)を贈ったとあるように、倭国にも伝播しています。
おそらく、倭国の「カミサマ」信仰は、「太古中国宗教」や朝鮮半島経由の宗教思想と縄文・弥生以来の土着信仰が混じったものとして成立してきたと思われます。
中国仏教もインドから伝わった仏教を「太古中国宗教」の概念で理解しようとした結果だとすると、中国仏教と倭国のカミサマ信仰は、親戚関係だと考えることが出来ます。
先祖の中臣鎌子さんが在来のカミサマを捨てて、外来の「ホトケ」などと言う神様を信じるなんてとんでもないと言ったわけですが、
不比等さんは、何らかの形で、仏教と倭国のカミサマは共存できると気づいた(悪く言うと、仏教を受け入れて興福寺を藤原氏の氏寺にしてしまえば、既得権益を維持しながら、改革の成果も入手できると悪知恵が働いたが、同時に日唐関係の修復にも使えるとも判断した)のかもしれません。
そして、鎌足さんと郭務悰以来の縁を大事にして、日唐の国交回復を進めたのかもしれません。
日本書紀に記された天武天皇の和風諡号は「天渟中原瀛真人天皇」です。
「真人」は、道教で理想像を表すものです。日本書紀の冒頭は淮南子の引用がありますが、淮南子も道教の文書です。
この他、先に述べた「日本道教学会」の選集によると、上代における道教の影響はかなりあるようです。
おそらく、「改革」と言うものは、単なる理想的理念だけでは成立しないものなのでしょう。
そして、改革を進める「腕力」も必要ですが、その「腕力」は単に既得権益を維持するための悪知恵だけでは発揮されないものなのかもしれません。