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前回の記事、「農業と日本の『新』と『旧』」で、

ご紹介した「日本は先進国だとは言え、まだまだ、かなり古臭い部分も残っている。」と言うフレーズと同様、

なにか新しい事を提案すると、よく言われるのが

「いや、そう言うのは日本では無理だ」

かもしれません。

まだまだ古臭い云々同様、このフレーズも聞かされた人もかなりいらっしゃると思います。

僕の知り合いで20年ぐらい前に、行政の仕組みを変えるんだと一生懸命活動していた人がいます。

彼はイギリスかどこかの事例を聞いて、そう言う仕組みを作るんだとがんばったのでした。

しかし、どうやらものスゴイ抵抗にあい、出来上がったのは骨抜きと言うより、「理想」としていたものとは似ても似つかないヘンテコリンな制度だったようです。

これに懲りたのか、彼はあまり政治や行政の問題に首を突っ込まなくなりました。

では、日本の古臭い部分と言うのは、絶対に変わらないものなのでしょうか?

東畑精一の「日本資本主義の形成者」は、この問いについて、面白い示唆を与えてくれています。

同書の冒頭部には「人間平等論と主体性論」と言う節があります。

この節では「哲学者と運搬人夫の間にあるものは単に仕事の種類の差に過ぎない」としたアダム・スミスを持ち出して、「人間の経済的能力そのものには差異がない」と言う経済学の思想を論じています。

いや、そんな事はない、現実に差異はあるじゃないかと言いたい人もいらっしゃるでしょう。

しかし、ここで「差異がない」と言うのは、世の中に金持ちと貧乏人がいると言う意味ではなく、金持ちでも貧乏人でも「本来的な差異はないはずだ」と言う前提みたいなものです。

欧米人でも日本人でも本来的な差異はない、どんな宗教を信じていても違いはない、文化が違っていても同じなはずだ。

この考え方で、現実の「資本主義社会」を分析してみると、欧米でうまくいった方式なら、日本でもうまくいくはずだ、民族や文化が違っていても、本来的な差異はないはずだからと言う事になります。

しかし、そうはならない、日本には古臭い部分がある、外国でうまくいったからと言って、日本では無理だと言われてしまう、

そう言う現実があるわけです。

ところで、外国ではともかく日本では無理と言う場合によく持ち出されるのが、

「日本には和の文化がある、個性的な事が美徳とされる外国とは違う」

みたいな文化、風土の違いです。

しかし、この本では、続いて「人間能力不平等と主体性への関心の台頭」と言う節を立てています。

そして、マルクスを持ち出して、資本家や労働者と言う階級について「単純な技術的な区別や思考上の区別ではなくて(中略)本質的な区別」がなされているとしています。

また、マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で述べたプロテスタントとカトリックとの間における経済行動形態の差についても持ち出しています。

つまり、資本家と労働者、プロテスタントとカトリックは、違う経済主体なんじゃないか、そう言う風に「主体」による違いを認めた方が現実の経済社会を正しく分析できるんじゃないかと言う思想が登場してきた歴史を紹介しているわけです。

さて、我らが日本社会です。

「主体性論」の立場で考えてみると、

いや、「外国ではともかく日本ではうまくいかない」と言うのは、日本の社会を構成している主体が、「外国」とは違うからだと言う事になります。

ここは重要な事です。

「外国でうまく行ったとしても日本で無理だ」と言う理由が、

「文化」、「風土」ではなく、主体の側の「個性」に求められているからです。

「日本では無理」論を考える上で興味深いのは、映画「沈黙」での幕府の役人と吉利支丹宣教師のやり取りです。

「ここは沼地だ、どんな苗を持ってきても育たない」とする幕府の役人に対し、

吉利支丹宣教師は「普遍とは世界中どこに行っても通用するものだ」と反論します。

さて、日本はどんな苗も育たない沼地なのでしょうか?

そもそも、日本人の主食「コメ」は外来の植物で、稲作そのものが伝来の文化です。

いや、イネはそもそも沼地の植物だから。

では、キュウリはどうでしょうか?

社団法人農村漁村文化協会の「農業技術大系」によれば、

キュウリは明治以降、日本に輸入され、

日本人は世界一キュウリを食べる国民なのだそうです。

まぁ、この大系に載っているデータはやや古いので、

日本人=世界一キュウリを食べていると言う統計が

今もそうなのかどうかはわかりません。

しかし、キュウリは沼地の植物ではないですし、

明治以降、河童がキュウリを食べる伝説が広まったり、

お盆にキュウリの馬を飾る文化ができたことも事実です。

つまり、キュウリの例は、日本はどんな苗を持ってきても育たたない沼地ではない事を証明しています。

いや、キュウリは日本人の口にあったからで、そうでない野菜はやはり日本では普及しない・・・

そう言う反論があったとして、とりあえず、認めましょう。

実は、「日本には和の文化がある、個性的な事は認められない」と言う理屈と、「日本人の口に合うから普及した」と言う理屈には、決定的な違いがあります。

前者は日本では無理の理由を日本の風土・文化に求めていますが、後者は日本社会を形成している「主体」の個性に求めているからです。

日本はどんな苗を持ってきても育たない沼地だと言う理屈と、日本人の口に合うものは普及すると言う理屈には決定的な違いがあるのです。

まず、絶対不可能と言う論理ではなく、可能性を認めている事が絶対的に違います。

絶対無理なのではなく、やり方次第では可能性があると言う窓が開かれています。

そして、風土・文化の問題ではなく、個性の問題なら、そう言う個性の持ち主との付き合い方を考えればいいんじゃないか、

料理方法を変えて「口に合う」ようにすれば、「新しいやり方」も認められる可能性があるんじゃないか、

そう言う思考を可能にする余地があります。

日本の社会の中で、どんなに新しい事をやりたいと言っても、絶対ダメと言われて失望しているそこのあなた

外来野菜キュウリが日本の国民的食材となった件について、真面目に考えてみましょう。


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