見出し画像

天道、是か、非か
(善人が大変な思いをしているのに、悪人が栄えている。
天の道は正しいのか、間違っているのか)

史記・伯夷列伝は、この問いを投げかけています。

主人公の伯夷は、最期は飢え死にしてしまうのですが、
そこに至る経緯を史記から追ってみると、以下の通りです。

1)殷の紂王は暴虐だった
2)周の武王は紂王打倒を考えた
3)伯夷は臣下が主人を倒すことは仁に反すると反対した。
4)武王の家臣が伯夷を切ろうとした。
5)武王の重臣・呂公望は伯夷は義人であるとして切らせなかった
6)武王は紂王を倒し、周王朝を建てた
7)伯夷は周が提供する穀物を受けなかった。
8)伯夷は山で山菜を採って暮らしたが結局餓死した
(餓死する前に「暴をもって暴に代わる非を武王は知らない」と言う詩を詠んだ)

この流れから、2種類の「正義」の狭間で「善人の苦労」が生じていることが読み取れます。

すなわち、暴虐な紂王を打倒することが正義なのか、暴虐な君主であっても暴力をもって打倒すべきでないと考えることが正義なのか、

この2つの価値観の隙間です。

武王とその家臣達は、暴虐な君主は打倒することが正義であると考えています。

他方、伯夷は臣下が主君に背くこと、暴力をもって暴力を倒すことは正義でないと考えています。

武王の家臣が伯夷を切ろうとしたのは、暴虐な君主を打倒することが正義なのに、伯夷は、その「正義」に背いていると考えたからでしょう。

呂公望が伯夷を救ったのは、伯夷の正義は、自分達の正義とは違うが、それでも「正義」であり、暴虐ではないと考えたからだと思います。

周王朝が出来てから伯夷に穀物が提供されるのも、武王側が伯夷の「正義」を認めたからだと考える事が出来ます。

しかし、伯夷はそもそも周=武王側の「正義」が認められない、だから、周が提供する穀物を拒むと言う行動をするわけです。

飢え死には極端な結果かもしれません。
しかし、現代社会でも、私達の身近なところでも、複数の「正義」の狭間の問題はよく起きているのではないでしょうか。

「国」でも「地域」でも「職場」でも「家庭」でもかまいません。

なにかの集団に所属していたとして、その集団が目指すある「正義」があるとします。

しかし、「自分」が考えている「正義」とそれは異なる。

その場合、集団の構成員達は、「自分」を排除しにかかる事があるわけです。

ところが、集団の構成員の中にも、「自分」の考えは集団が目指す「正義」とは異なるが、それはそれで一つの「正義」であり、それを目指す自由はあると考える人もいるわけです。

更に、集団が掲げる「正義」に賛成しない「自分」にも集団の中での「立場」や「収入」を保障してくれる事もあるわけです。

しかし、「自分」が賛同できない「正義」を目指す集団が「立場」や「収入」を提供してくれても、それらを受け取る事を潔しとはできない「自分」が存在するわけです。

こうなると、集団とは無関係な立場で、「自分」が生きる道を探さねばならないので、苦労の連続となるわけです。

実を言うと、集団の構成員のほとんどは、あまり「正義」とはなにかについて、深く考えていないと思います。

みんながやるからやる、集団としてこの方針で行くことになったからついていく、仕事だからやる…

そう言う風に、集団の方針が「正義」かどうかについては、あまり深く考えずに、行動する人がほとんどだと思います。

武王の家臣が伯夷を切ろうとしたのも、武王の行動=紂王の打倒が正義だと考えたと言うより、

「この集団の方針はこうなんだ、それに反対してグチャグチャ言うなよ」と言う感覚の方が強いのかもしれません。

呂公望が伯夷を助けるのは、呂公望が「正義」について深く考えているからだと思います。

集団の方針が正義だと考える考え方と、正義ではないと考える考え方、そのどちらも成り立つ、

集団の方針に反する考えの持ち主も、その考えに従って生きる権利がある…

呂公望の考えは、一般化して言えば、そういうことになるでしょう。

更に、紂王打倒後に伯夷に穀物が提供されるのも集団の中の「多様性」確保の試みと言えるでしょう。

集団の方針に反対する人にも集団の中で「立場」や「収入」を得る権利がある…

親の考えに反対だけど、家に住んでご飯を食べさせてもらうとか、
会社の方針に反対だけど、とりあえず、所属部署はあって、毎月、お給料はもらえる
とか、

そういう例は世の中にたくさんあると思います。

さて、「正義」について徹底的に考え抜くと、そういう風に「自分」が反対している集団と妥協できなくなってきます。

親の考えには反対だから、家を出る、
会社の方針には反対だから、会社を辞める・・・

そうすると、自分で仕事を探したり、起業したりして、
自分の収入を自分で確保しなければなりません。

正義について徹底的に考え抜く人は苦労する、
あんまり徹底的に考えず、適度に「妥協」する人は楽に生きられる
それどころか「正義」でない事も平気でやれる人の方が富を築き、幸福に生きられる

正義の女神は、善悪を測る「天秤」を持っているのだそうです。

では、2種類の相互に矛盾する「正義」を天秤の両方の皿に置いたらどうなるのでしょうか?

正義を司る「天」が存在するなら、正義について徹底的に考える人ほど苦労する、
考えない人の方が幸せに生きられる
と言う矛盾をどう説明するのか?

史記の言う「天道は是か、非か」は、こうした疑問と同種の動機を持つと思われます。

ところで、史記・伯夷列伝は伯夷の家族についてあまりふれていません。

伯夷が養うべき家族を持っていたら、どう行動したでしょうか?

忸怩たる思いを持ちながら、周の提供する穀物を受け取り、家族に食べさせて日々を送ったでしょうか。

それとも…?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?