20191123明治維新論

「明治維新 1958-1881(坂野潤治 大野健一 講談社現代新書)」と言う本を読みました。

この本は、

後発国が欧米諸国にキャッチアップし、彼らから対等の取り扱いを受けるにいたるという、現在においても成就している国が極めてすくない大事業を1世紀も前に達成した

のは、明治政府が「非民主的で開発一辺倒」、「第二次世界大戦後に東アジアで成立した・・・開発独裁の原型」だったからではなく、ある種の「柔構造」を持っていたからではないかと言う主張をしていると思われます。

この本の明治維新についての様々な指摘は、非常に面白く、面白いだけに、その指摘どおりだとすると、この本の見方はむしろ違うんじゃないかと言うのが、僕の読後感なのですが、

その点は後に譲り、

まずは、僕が面白いと感じた指摘をいくつか述べていきたいと思います。

この本は、

明治政府においては、長期にわたって采配をふるった独裁者は存在しなかったし・・・経済開発が民主化に優先するという一般的合意も形成されなかった

とし、

幕末維新期は、やたらと多い登場人物の間で

政策論争や政治闘争が延々と展開されていく。国家目標なるものが複数個あって、それらが合体したり変容したり逆転したりしていく。また各指導者や各グループの目標もどんどん変わっていくようにみえる

としています。

この「合体・変容・逆転」の有名な例は、この本でも

尊皇攘夷に凝り固まっていると思われた長州藩が維新が達成されたとたん開国進取の旗手となって近代化を断行しはじめる

と書かれている件だ言うあたりは、どなたも異論がないところでしょう。

そして、本書で言う柔構造とは、その「合体・変容・逆転」をするあり方を指しているようです。

柔構造のプレーヤー達は、

明治維新の前後を通じて、複数の国家目標(幕末期には「富国強兵」と「公議輿論」の2つ、維新期には、「富国」、「強兵」、「憲法」、「議会」の四つ)を追求し続けた

が、

いずれの目標を標榜するグループも、単独では十分な政治力が得られなかったので、別のグループとの協力関係を気づく事によって自己の政策を実現しようとした。

そして、

グループ間の政策闘争においては、「国家目標」、「合従連衡」、「指導者」と言う3つのレベルの可変性・柔軟性が顕著であった

としています。

ですから、この本は、複数のプレーヤー間の闘争や協力が、柔構造を産み出し、その柔構造の成果として明治維新を見ようとしているのだと思われます。

僕がこの本の様々な指摘を面白いと思うのは、こうした複数のプレーヤー間の関係を分析して、実際に起きた出来事を説明していこうとする姿勢、そしてその説明自体の内容に頷ける点があるからです。

そして、この本の中での指摘に頷ける点があればあるほど、著者の見解に異論を持ってしまうのは、多数のプレーヤーで成り立つ「柔構造」は、柔軟に危機に対応する場合もあれば、「誰が責任者か分からないまま危ない決定をくだす」ニッポン的組織にありがちな現象を引き起こす場合もある、

つまり、長所と短所は同じ柔構造の両面だとも言えるのではないかと考えるからです。

仮に「柔構造」が日本自体が持っている「体質」みたいなものだとすれば、その「体質」は変えられるのでしょうか。それとも変わらない、変えられないとみて、出来るだけ、その体質の長所を活かし、その体質から産み出されるマイナスの現象が起きないように行動すると言うのが正しい選択なのでしょうか。

この辺は、日本の今後の改革、そして、農業・農村に関わる活動・事業でも考えなければならない点ではないかと思います。


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