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「伴天連追放令」と日本の「民主主義」

「関白秀吉の九州一統(中野 等 吉川弘文館)」は、豊臣秀吉による九州制覇の過程を、織田信長に遡って論じた本です。

時系列に沿って、検地や刀狩り、吉利支丹政策、唐入り等も取り上げています。

僕は、秀吉の太閤検地・刀狩りの頃に出来た近世農村の運営の仕組みを近代法の言葉で述べたものが「農業委員会」だと考えると、制度を理解しやすいと考えています。

ですから、秀吉時代の事は、「昔の話」ではなく、現代の農業・農村政策にも関係していると考えています。

さて、上記の本を読んで感じた事は、検地・刀狩り・吉利支丹政策・唐入り等、秀吉がやった事は、「バラバラ」な出来事ではなく、豊臣秀吉の中では「一体」のものとしてあったのだなぁと言うことです。

ただし、「豊臣秀吉の中では」と言うだけであって、検地や刀狩りについては、当時の地侍や農民等、「在地」の勢力が願っていた方向と一致する「なにか」があった…

他方、「唐入り」については、それが人々の願いだったのか、秀吉自身の野望に過ぎなかったのではないかと言う感じがします。

「吉利支丹政策」については、「人々の願い」とは言い切れないが、秀吉個人の願望からだけ生じたものと言い切れるか?

ちょっと難しいかなと思います。

いきなり「個人の感想」を延々書いてしまいました。

少し、「客観的な言い方(?)」をすると、
戦国時代の日本は、その辺に歩いている人を、とっ捕まえて奴隷として売り飛ばすなんて事が「当たり前」に横行していた時代でした。

そして、土地も、農民にからすると、いつ、自分の耕作地が他人の物だ言われるか分からない、
在地の武士達も、いつ、自分の領地でなくなるか分からない、

「土地」を巡る争いが延々続いた時代でもあったわけです。

在地の武士や農民達による「一揆」は、自分達の土地を守るための必死の行動だったと言えるでしょう。

戦国大名は、それぞれの領国において、「検地」を行い、それぞれの土地に対する農民の耕作権を認定しました。そして、その土地が誰(どの武士)の領地かを確定させ、農民はその武士に年貢を払う、その武士は領国を守るために戦闘に参加する義務を負うとしました。

つまり、戦国大名達は、それぞれの領国に関する限り、地元の武士・農民が土地を「自力防衛」しなくても済むようにしたわけで、それらは地元の人々の利益に一致していたわけです。

そして、豊臣秀吉の天下統一、検地・刀狩りは、戦国大名が各領国で行っていたことの「全国版」とも言えるものです。

そういう意味では、検地・刀狩りは、秀吉個人の願望や野望だけでなく、広く全国の人々の「願い」とも一致する方向だったと言えるのではないかと思います。

さて、先にも述べたように吉利支丹政策や唐入りは、検地や刀狩りとも、少なくとも秀吉の中では「一体」のものだったようです。

つまり、唐入り(中国への侵攻、その前段階としての朝鮮への侵攻)を考えていた秀吉にとって、九州制覇は、前線基地の掌握と言う意味を持っていたようです。

そして、九州に多い吉利支丹大名の処遇と言う事、それだけでなく、島津氏等、九州の大名達への「仕置き」を考えた場合、かなり一貫した考えの中で、吉利支丹政策も成立していったようです。

いわゆる「伴天連追放令」は、上記の本の中でも全文が取り上げられています。

また、その前日に出された「覚」も上記の本では書かれています。

この「覚」では、大名の「知行」(つまり、領有権)は「当座」(=秀吉が認めたから、その領国支配を認められているに過ぎない)のもので、地域の人々と大名は「一体」ではないと言う論理になっています。

そして、そういう「大名」の一つとして「伴天連知行」=現実に九州に「教会領」を持っている吉利支丹勢力が位置づけられています。

吉利支丹であるかどうかの前に、大名は領国争いをしてはならない(武士も農民も土地争いをしてはならない)=私戦は一切禁止される

と言うのが秀吉がうち出した論理で、これは、戦乱の世で自分自身の身柄も土地も一切保障されていない状態に終止符を打ち、泰平の世をもたらすと言う点において、全国の人々の願いと一致した方向だったと言うのは先に書いた通りです。

そういう中で「伴天連知行」=領主としての吉利支丹勢力も、秀吉の采配に服すべきだと言う論理が、いわゆる「伴天連追放令」には入っているわけです。

では、個人の内面=信教の自由は、どうなるのかと言うと、
「覚」では、「其の者の心次第」、つまり信じるのは自由と言っているわけです。

そして、吉利支丹領において、「心さしも之無き所、押して給人、伴天連門徒に成すべき由申し、理不尽なる候段、曲事候」
つまり、本人が吉利支丹になる気がないのに、領主が吉利支丹だから、領民や家来を吉利支丹にしてしまうのは駄目だと言っています。

実は、当時のヨーロッパでは、「領主の宗教が領民の宗教」、つまり、領主がカトリックなら、その州や国はカトリック、領主がプロテスタントなら、その領内はプロテスタント、と言う形で新旧両派の妥協が成立していました。

日本に来た吉利支丹宣教師達が、領主を改宗させて領民を改宗させるやり方を取っていたのは、この「ヨーロッパ方式」を日本に当てはめたものだと言えなくもないのです。

ですから、吉利支丹になるかどうかは、「その人の心次第」で領主の宗教を領民に押し付けるのはおかしいと言う秀吉の「覚」、いわゆる「伴天連追放令」の論理は、実は、「信教の自由」を認めているのではとも読めるわけです。

ところが、この秀吉の論理には、もう一つの側面があるわけです。
つまり、「布教」=「宗教」と言う要素を取り除いて考えると、自分の主張を他人に向かって述べることはどうなのかと言う事、現代流に言えば、言論の自由とか表現の自由という事につながるのかもしれませんが、

ここで秀吉は、「仏法をそしる」=仏教批判をするのはケシカランと言う論も言っているのです。

だから、内面で信じるのは自由だが、他人の思想を批判する言論や表現については、「公権力」に従うべきだと言う論にもなっている点に注意が必要です。

どうやら、いわゆる「伴天連追放令」については、「いわゆる」と言う「枕言葉」をつけて論じてきたように、単なる吉利支丹禁教令ではなく、けっこう、内面の自由を保障する論にもなっているようです。

ただ、「具体的な行動(表現)」となった場合、公権力の支配に服するべきだと言う論にもなっているわけです。

ところで、今の日本ですが、政治、あるいは宗教、その他の分野でもいいのですが、
自分がどういう考えを持っていてもいいが、他人に介入するな=つまり、その人の心次第だが仏法をそしるなと言う秀吉の論に近い考え方を持つ人が多いのではないでしょうか。

しかし、「表現の自由」は、ある表現をすることで、「外部」に働きかけると言う側面を持っています。

もちろん、「働きかけられる」ことは迷惑だと考えるのもその人の心次第(自由)ではあるのですが…

それから、社会の混乱があまりにひどい場合、一定の形で、言論や表現の自由を制約することはいいのかとか、

けっこう秀吉のいわゆる「伴天連追放令」について考えていくと、

現代の「民主主義」について考えさせられる点が多いのです。

本日のところは、このぐらいにしておいて、
少しづつ、いろいろな角度から秀吉の政策について、考察をすることを続けたいと思います。

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