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漢籍の復権を考えよう~仏教・漢学・国学・キリスト教の近代史から考える

三国一の花嫁と言う言葉があります。
三国と言うのは、インド・中国・日本の事です。

この3カ国で一番の素晴らしいお嫁さんと言う意味です。

なんでインド・中国・日本の3カ国なのかと言うと、
近代以前の日本では、お釈迦様がお生まれになった天竺(インド)、孔子や老子を輩出した唐土(中国)から文化を輸入していると考えていたからです。

今昔物語では、天竺・唐・本朝(本朝は日本の意味です)の物語を集めた形になっています。

神皇正統記は、天竺・震旦(中国の古称)・日本の説を比較して論じています。

つまり、インド発の仏教ではこう言っている、中国の儒教や道教ではこういう説を唱えている、日本の場合、こういう考えもあるが・・・

と言うように、仏教、諸子百家、日本の思想文化を並べて考える事が常だったわけです。

そして、仏教のお経が仏典、中国思想の古典が漢籍、日本の書物が国書と呼ばれました。

仏典や漢籍が学問の中から外れていく要因となったのは、蘭学と国学の成立だったと思います。

そもそも、ガリレオやニュートンは、熱心なキリスト教徒で、神様が創造した世界について探求するうち、「自然科学」的な世界観に到達していきました。

やがて、皇帝ナポレオンから、お前の本には神が出てこないと言われたラプラスが、陛下、もはや、神は必要ないのですとお返事、

自然科学は、キリスト教から分離していきます。

江戸幕府は、キリスト教と無関係な自然科学等に限って、蘭学を学ぶことを認めました。

蘭学を学んだ人々は、須弥山が世界の中心にあると言うような仏教的世界観が間違いであると考えるようになりました。

西洋医学を学んだ人々は、漢方医学の認識が間違ったものと考えるようになっていったようです。

当時は、吉利支丹対策として、仏教の檀家制度が導入さ江戸幕府は儒教を公認の学問としていました。

仏典・漢籍は、幕府のお墨付き書物でしたが、蘭学を学んだ人々は、徐々に疑いの目を向けるようになっていきます。

また、オランダはプロテスタント教国であるため、聖書、すなわち、原典を読むと言う思想も伝わった可能性があります。

「遊楽としての近世天皇即位式(森田登代子 ミネルヴァ書房)」によると、当時の絵画には、オッパイを出して、赤ちゃんに母乳を与えながら即位式を見物する女性の姿が描かれているそうです。

「古事記はいかに読まれてきたか(斎藤英喜 吉川弘文館)」は、国学者の本居宣長は、京都で「天皇見物」をする人々の自由な雰囲気に触れた可能性があるとしています。

どうやら、幕府公認、官製学問である儒学に対して、自由な思想の発露として、古事記のような日本の原典を学ぼうとする「国学」が生まれてきたようです。

しかし、国学が持っていた仏教・漢籍への否定的思想は、別の展開を見せるようになっていきます。

「邪教/殉教の明治: 廃仏毀釈と近代仏教(ジェームス・E. ケテラー ぺりかん社)」は、江戸時代の冨永仲基等の仏教批判を「論拠」にして、薩摩藩内で仏教より神道を重んじる政策が取られ、明治維新直後の「廃仏毀釈(仏教を否定し、神道を重視する政策)」につながっていった事を指摘しています。

同書では、当初、仏教を弾圧する方向だった明治政府が人心掌握のために必要と考えて、政策を転換していったことも述べられています。

大河ドラマ「八重の桜」では、八重の兄・覚馬と新島襄が初対面で、どちらも「天道無限」を読んでいる事を知って、感動するシーンが描かれています。

この「天道無限」は、北米系の伝道師が、日本人にキリスト教を伝えるために書いた本で、当時の国学者は、「西の国の国学のようなもので、はなはだよろしき教え」としています。

事実、明治初期のキリスト教(プロテスタント)入信者には、神道・国学系からの改宗が多かったようです。国学的な倫理観とシンクロさせようとした北米系伝道師の発想は、部分的には成功し、いわゆる「武士道的キリスト教」につながっていきます。

これより前、維新直後には吉利支丹を邪宗門として取り締まり対象としていた明治政府ですが、欧米諸国の批判を受けて、限定付きの「解禁」に踏み切ります。

この後、仏教・キリスト教・神道の関係者と、政府側が話し合う「三教協議会」が作られました。

懇談を継続するうち、徐々に仏教やキリスト教関係者が政府の立場を「理解」するようになっていったことは、第二次大戦下で、宗教指導者が、戦争協力する下地を作ったと思われます。
(仏教やキリスト教の指導者が、政府の戦争宣伝の片棒を担いだことは事実で、必ずしも言論弾圧に屈したと言うよりは、積極的に関わったと言う側面もあります。)

他方、近代化の中で、西洋的な科学技術の受容、研究は奨励されました。中国の古典を学ぶ漢学は徐々に廃れていったようです。

漢方医学に光が当たるのは、日中国交回復後の1970年代からです。
中国では、近代科学と漢方を融合させて、新しい漢方医学が起こっていると言った事が、日本国内で紹介されました。

(私事になりますが、こうした中で中国の「鍼治療」にも注目が集まり、当時、体調不良だった私の父も「鍼治療」を受けて、身体が軽くなった気がすると言っていました。)

僕自身について言えば、野菜を育てるようになってから、中国から伝わった二十四節季や節季を元に日程が計算されている「八十八夜」、「半夏生」等の雑節に、意外と合理性があると気づくようになりました。
八十八夜の別れ霜(立春から88日経てば、霜は降らなくなる)と言った現象は、原理的には、マックス・プランクの輻射式で説明出来ます。(マックス・プランクの輻射式については、僕は化学科の工業物理化学の講座で学びました。)

食・農業関係でも医食同源、薬膳など、漢方的な考え方で取り組む人が出ています。(これも、僕自身の経験ですが、夏あまりにも暑くて、食欲が出なかった時、ソーメンをシソの薬味で食べて、一息ついたことがあります。シソに含まれる紫蘇酸は、化学的にはペリルアルデヒドと言う物質で、食欲増進効果があるのだそうです。)

こうした経緯を経て、21世紀の現代では、キリスト教も特に弾圧されることもなく、日本にいるイスラム教の人々もチャドル等の「独自文化」を保っていられるようです。(フランスなど、西欧諸国では、チャドルは禁止されている場合があります。)

お寺や神社にお参りする人も多く、「結婚式はキリスト教、初詣は神社、葬式は仏教」と呼ばれる日本独特(?)の宗教文化が形成されています。

もちろん、自然科学は、現代社会を支えるものとして理解されています。漢方医学や節季のような中国発の思想も、自然科学的な説明と繋がりながら、その「良さ」が理解されつつあると言えるでしょう。

そうした中で、中世以前と比較した場合、抜け落ちているのが「漢籍」、つまり、儒教や道教等の思想についての理解ではないかと思われます。

僕が、漢籍の思想に注目するようになったのは、高校時代です。
ベトナム戦争が終わった後、ベトナム側の対応を孫子の思想で理解しようとする記事を読んだことが一つのきっかけでした。

「囲師は欠くべし、窮寇に迫らず(敵を包囲する場合は、どこかに逃げ道を作っておいてあげる、困っている敵を追い詰めない)」と言う孫子の発想が、ベトナム側にあったのではないかと言うものでした。

西洋思想には、論理的一貫性を追い求める傾向があるのかもしれません。それは、敵を徹底的に追い詰める発想にもつながっていくでしょう。

しかし、新興国が勃興し、多様な世界観を持つ人々が共生・共存する世界を考えなければならない今、「東洋的寛容性」と言うのも大事なような気がします。

中国に仏教が伝来した後、儒教や道教と仏教は共存しながら存在してきました。
日本でも、仏教と儒教・道教、そして、日本の思想・宗教は共存してきたわけです。

キリスト教神学自体、西洋では、「異教」であるアリストテレスのようなギリシャ思想と結びついて発達してきました。

ですから、例えば、「道の言うべきは常の道に非ず、名の名づくべきは常の名に非ず(宇宙の真理である道(タオ)は、これが道だなどと名付けて、指し示すことができるようなものではない)」と言う荘子の言葉と、

「神の国は、ここにある、あそこにあると言えるようなものではない。あなたがたの間にあるのだ」と言った福音書の言葉を結びつけて考えてみても良いのではないかと思います。

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