分業と「半農半X」(前編)
国民の年々の労働は、その国民が年々消費する生活の必需品と便益品のすべてを本来的に供給する源
アダム・スミスは、「国富論」をこう書き出しています。
ここにある商品があり、価格がついて売れる、
それはなぜかと言うと、その商品を作った人、運んできた人がいて、誰かの手元に届く、
「作る」、「運ぶ」と言う労働があって、その商品に「価値」が生まれ、売れるようになる、
もちろん、その商品にも原材料がいるが、その原材料も誰か生産者がいたのでしょうし、商品の作り手のところに運んでくる人がいるから原材料として使えるわけです。
原材料についての労働が行われて、原材料は商品として価値を持つ、その価値は商品の価格に原材料費として反映される、
つまり、商品の価値なるものは、突き詰めていくと、誰かの労働に期する、
そして、国全体、国民全体としてみると、「みんなの労働」で「誰かの労働の成果」を買っている事になる・・・
スミスが言っているのは、そういう事なわけです。
そして、
生産物、またはそれで購入されるものの、これを消費する人々の数に対して占める割合が大きいか小さいかに応じて、国民が必要とする全ての必需品と便益品が十分に供給されるかどうかが決まるであろう。
つまり、求める人々に対して、たくさんのモノがあるかどうか、需要に対して供給が十分かどうかと言う事が述べられています。
この事情は、
国民の労働がふつう行われる際の熟練、技能、判断力の程度いかん
に左右されるとしています。
わかりやすく言うと、これは生産性、効率の事です。パッパと、ドンドン物が作られる、効率の良い状態の方がたくさんのモノが供給され、国民はいろいろなモノを購入する事ができる、
効率が悪い状態では、モノが不足する、
スミスはそういう事を言っているわけです。
そして、
分業には作業の分割と職業の分化があり、それらは労働の生産力を増進させる最大の要因である。
労働の生産力における最大の改善と、どの方向にであれ、労働を振り向けたり用いたりする場合の熟練、技能、判断力の大部分は、分業の結果であったように思う
スミスは、分業をした方が生産性、効率があがると言っているわけです。
そして、分業には一つの作業を分割してある部分だけをやる分業と、社会的に、ある分野のことだけをやる分業がある、
ですから、スミス的な観点からは、なるべく、世の中がいろいろな職業に分かれ、そして、一つの職場の中でもある事をやる人、他の事をする人と言うように分業が計られた方が効率が良くなる、
その結果、十分にモノやサービスが提供され、人々は豊かに暮らせるようになる、
一言で言えば、分業が進むほど、人々は豊かになれると言う理屈なわけです。
果たして、そうなのか、
次回以降、スミス的な見解に対する反論をご紹介していきたいと思います。
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