忘れても消えないもの。

コラボカフェは私には一生縁のないものだと思っていた。

先日、よもぎちゃんの写真展「夢の備忘録」に行ってきた。

中は普通のカフェでもあるので、昼食代わりにポテサラと生ハムが挟まったパンを食べた。室内に入る前に注文をするタイプの店に未だ慣れなくて、終始挙動不審だった。お会計を終えてから、あれだけ行く前は飲むと言っていたコラボメニューをすっかり忘れてしまったことを思い出し、自分の緊張しいが恨めしかった。

中に入ってすぐ、まだ鮮明に見えない四角い写真が窓に貼りめぐらされている光景は異空間だなと思わせる仕様だった。それは自分がカフェなど行き慣れていないからかもしれないが。客は私たちと、一人の女性だけ。

こういった感想を格好付けて書くことは苦手なので、言いたかったことを素直に書くことにしよう。

写真がたくさん貼ってあった窓の目の前で、友達と横並びでパンを食べた。パンが思ってたより美味しかった、前を向くと写真が必ず視界に映る。ああ、なんてことはないのだな、と、思った。会ったこともないのに好きだと思う人、その人の撮る写真、その写真に映る女の子たち、香ばしいパンと滑らかなオレンジジュース、聴いたことない音楽、静かな空間、ひとりパソコンと向き合う女性、知らないことにした渋谷の街。これは、特別だけど、誰かにとっての日常で、非日常なんてどこにもないのかもしれないと思った。でもそれらが合わさる空間に私は初めて巡り会って、確かに、特別を感じたのだ。

何かの活動に一つ意味があるとするならば、誰かの非日常と日常の境界線をぼかして繋ぎ合わせることなのではないだろうか。

個展を見ることなど一度もなかった。静かなカフェに行ったこともなかった。渋谷と井の頭線は苦手で、新宿ばかり行く人間だった。それがどうだ、こんなカフェで物書きがしたいと思った。実際これは通勤の電車内で書いているのだけど。こういう場所がいくつかめの居場所になるならば、日々は確実に豊かになることだろう。食わず嫌いで近寄れなかったカフェという場所と私を繋げてくれたよもぎちゃんの写真は、星々のようにきれいで愛おしかった。

店員さんが掃除道具をしまい忘れていることがとても日常らしく、なんだかほっとした。あの写真を撮ったよもぎちゃんも、写真に映る子たちも、きっとどこかで同じようになんてことない日常を過ごして生きているのだなあと思い、それを忘れたくなくて撮った一枚。

無限ちゃんが写真を撮っていたカウンター辺りに私も立ってみたりした。何が見えるのだろうか、と。同じ場所、同じ道、同じような生き方。それらを辿っていたとしても、誰かの思いなんて早々分かりはしないのだなと感じた。店内にある全ての写真にそれぞれの思いがあるのだと思う。「人の夢と書いて儚い」を用いた小林司のツイートを行く前もここでも帰りにも飲み込もうとして、出てきたものは、「儚い」とは白くてぽわぽわした可愛いもんじゃないのだなという答えだった。白くて柔らかそうな洋服も、黒くて堅く見えるワンピースも、それが全てじゃない。寂しげで消えてしまいそうな可愛らしさも、凛とした美しさも、どこからか感じる生きてやるって意思も、人の夢なのだなと思った。

写真だらけのカフェは視線がたくさんあるようで落ち着かない気持ちもあった。でもその居心地の悪さがむしろ嬉しかった。生きるって、たぶんずっときれいなものを見続けたり安心し続けたりできないけど、その形で正しいんじゃないかと、そう思った。

そんなことを考えて店内を歩き回っていたらウェイ系みたいな人たちが数人入ってきて、よもぎちゃんだけが貼られてる場所を見落としてしまい、少しだけ悲しく、何も持たぬまま立ち去るのが寂しくて、風景画がたくさん映った方の写真集を一冊買った。その感想は私だけのものとする。

微睡みから目が覚めた気持ちで外に出てしばらく歩いたけど、道も空気も東京のよろしくない部分が詰められたかのようにきたなくて、やっぱり渋谷は好きじゃないなと思った。今は、そんな感じでいいのかもしれない。気持ちがここにあることが生きてるってことなのではないか。

これをまとめるとするならば「良い」とその一言に尽きるだろう。今の私にはこれくらいしか分からなかった。それでも、こんな体験のはじまりがよもぎちゃんの写真でよかったなと思う。女の子を救いたいと思う彼女のやさしくやわらかで強い光の写真が手を引いてくれたような気がした。あなたの写真を見た人間もたしかに救われているよ、と、それだけが伝わってくれたら。

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