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「ゆるふわ」を冠して許されたい

人生は酷い。

年を重ねるほどに、その考えは澱みをまとった確信になりつつある。
まずもって、「人生にやり直しは利かない」という定型句の重みをより強い輪郭を以て実感することが増えた。今まで大小さまざまな選択肢を取って今この文章を書くに至っているが、その道程において「なんでこんな道を選んだんだ」という自問をしたことは数限りない。中にはそのあとリカバリーが効くものもあったけれど、その大体は「今更どうしようもない」となるものばかりだ。本当にやり直しが利かないじゃあないか、人生。
そして目の前にあるいくつもの選択肢、その中のどれが当たりでどれが外れなのか、そもそも当たりが入っているのかどうかすら誰も知らない。本当に誰も知らない。こちらに対して何かしらの悪意ある人間が用意した選択肢もあるだろうけれど、相手がそれを悪意を以て供しているということを自覚してくれているならまだマシであって、なまじっか無辜の善人が純然たる善意のもとで提供してくれた選択肢がの方が断然タチが悪いことだってある。受けても断ってもしんどい。ああいうのほんとどうすればいいんですかね。
更に言えば、たとえ選んだ選択肢が”当たり”だったとしても、その隣にあった選択肢が”大当たり”だったかどうかもまた、誰も知り得ない。ひとつの選択肢を取った時点でその他の選択肢はなかったことになり、結果そっちの方が良い道だったのかもしれない、といった悔恨は尽きることがない。ないものねだりの根源。
(この手の話を書いた小説で渡辺淳一の「光と影」というものがあります。戦争帰りで同じような大けがを腕に負った二人の兵士のうち、片方は通例として腕を切除され、もう片方は医者の気まぐれで腕を残存させたまま治療することに。前者はこれまた通例として除隊となり倹しい生活を送ることになり、後者はそのまま軍に残ることとなり不具の腕を抱えたまま将校となって幸福な生涯を終えた、というもの。話の終局で前者の元兵士は医者からその事実を聞かされて気を違えてしまうのですが、まさにそういう話だったなと。閑話休題)

では、人生とはどうしようもないゴミクズなのか。
そうはあんまり思っていない。あんまり、であって、全く、ではないけど、そこまで言わなくてもいいんじゃない?といったくらい。
酷いものがそれだけで無条件に悪いものとは言えないし、ましてや即断で切って捨てるようなものでもないと思っている。そしてよしんばそれが悪いものだからといって、それを理由に受容しないのもまた、言ってしまえばつまらない。
素晴らしいものしか愛せない人生というのも随分と狭隘であるし、基準に一切の遊びが認められない仕組みはとても脆い。極めて微細な精密機械でしか求められないレベルの精度を家庭の日曜大工に求めたところで、早く本を仕舞いたいがために拵えているはずの本棚は一生完成しない代物となるし、元よりご家庭の本棚にそんな精度はきっと必要ない。
かといって、ありのままの姿で愛してくれ、といった随分なご都合主義を吐く気も更々ない。むしろ唾棄する。見てくれが悪い本棚ができたところで、それを空想上の陶芸家のように「違―――う!」とぶっ壊すことはしないが、次に作るときはもっと上手く作ってやる、くらいの気概は起きる。一度目で上手くいかないなら二度目、それでも満足しないなら三度目。その積み重ねを飽くまで続ける。飽いても続ける。


人生は酷い。

しかし決して無価値ではない。なんなら無価値でも一向にかまわない。
少なくともそう信望したい。

そんな日々を送る「象」の人が「犀」の人を唆して始めたのが、この交換日記のような記録のような呟きのような、我々の軌轍、足跡、あるいはノートの落書きです。


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