見出し画像

【連載小説】 淋病おばさん南の島へゆく|第1章「陽炎の家」

 大学を辞めた。合コンだの、彼女だの、そういう正常な雰囲気が嫌で、行けなくなった。いや、理由なんて嫌なものでも好いものでもいくらでもあって、事実、無理に学校に行くと具合が悪くなる、どうしても朝起きれなくて、単位を落とす。ありのままに生きることを教育の良しとされたにもかかわらず、ありのままに生きていたらぶち当たる壁があった。
 名付けることのできない気分が、青春のすがすがしさとは相容れず、自分が誰か、何かによって損なわれていることが生きてる証左に思えて、タバコを吸い、酒を飲んだ。やってられなさはなかった。やってやるぜという、純粋すぎて、それを抱く年齢が相応でなければ、危うい情熱に傾けられていた。
 コンビニのバイトに落ちた時、社会はうんざりするものだと諦念した。そのころから組織だったものが嫌いになっていた。ありのままで生きることの明るさに促され、社会に夢を抱くには苦しむべき道は多すぎる。俺のような人間が空を見上げたら暗夜は果てしなく広がっている。そこ吹く風を、なんとなく嗅ぎ分けたのだと思う。たとえ物事に限度があるにしても、それを超えない範囲での自由はあるのだろうか。と。
 自由を求めて、行きついた先は、同性愛者の歓楽街。「ソドム」と呼ばれるバーである。そこでアルバイトをすることになった俺は、ますます、あの正常を保って いる若者たちとは違う若者になったようで、教育も、不自由もこれっきりだと、うかれた。
「八雲満……19歳?」
「はい」
「大学辞めたの?もったいない」
「……」
「ゲイなんだよね?」
「…はい」
「とりあえず今日はそこの席についてお客さんと話してて」
 「ソドム」は孤独な星々に飾られている。昼間は高層ビルのオフィスから出てきたサラリーマンやOLが昼食をとりに訪れ、夜は同性愛者が集まる。きらびやかな街の一角に「ソドム」はあった。禅のような小さな間取り。赤いしつらえのカウンターバーだった。壁には男性器の写真。鞭や縄がかけられていて、求愛の酒が窓から行き交う人を招いていた。
 しかし、 深夜になるとみんな酒を吐いている。みんな愛する者が欲しいと思いながら、欲望にまみれた手で、ホテルへ消えては性病をつかんでいる。そこではごく普通なことなのに、俺の目には穿った事実だけが浮き彫りになって、孤独を抱えてしまう。どうしたら俺は世界を不健康に感じる罪から解放されるのだろう。
 酩酊がおすそわけする武勇伝のかずかずは、なんでもないのになにかあるようにしか使いようがないにもかかわらず、それを語ることがそこに生きる者たちの叶わぬ人生への免罪符になっていた。
 俺もおちるところまでおちてゆくのだ。暗夜にしずみ、星々に同情され る。そうしたら、俺が俺であったという体たらくを野ざらしにできるのに。誰かのせいや、何かのせいにしたくはないのに、この街があまりに低すぎるがゆえに、俺をここにとどめているのだと理由づけたかったのだろう。それくらい無自覚に、自分の感じるこの街のすがたに奇跡をやってやりたかったのだと思う。俺は、この世界にぴったりハマる、自分の人生というパズルのピースの意味を見つけたくて仕方がなかった。
 そんな俺の前にあの人は現れた。外が白みがかった初夏。食中毒にあたって、深夜の病院で一時点滴を受けた帰りに「ソドム」に立ち寄った朝だった。空にはシリウスだけが輝いていた。
「ソドム」の扉を、べろべろに酔っ払った女性がガチャリとあけた。
「イラクの男は良かったわー。もうね、大きいし機関銃!あたしゃあんまりすごかったから。もう腰が砕けちまったよ」
「淋病おばさんのおでましだ」
「あたしの名前はレインボーだよ。レインボーで通してんだから、変なこと言うんじゃないよ」
「Rainbowかもしれねえが、Rinbyou持ちだろ」
「あたしゃ淋病じゃないよ」
「ほらほら、入って入って」
「あーら。見慣れない顔だね。この子誰?」
「八雲っていって去年の11月からいるよ。ヤッくん。いい子だからよろしくね。」
「あら、あんたもこっち?」
「とって食おうなんてダメだよ。うぶなんだから。男は処女」
「なんか学生してますって顔してるわね。サークルとかでいい男いないの?」
「サークル入ってましたよ」
「あらなんの?」
「……吹奏楽部」
「ああ、これ?」
そういうと淋病おばさんは、おもむろに手で何かを持ってるかのように口にもっていき、それをねっとりと嘗め回した。
「こらこら。それ楽器じゃないでしょ」
 空にはシリウスだけが輝いていた。つめたく輝く夜明けの玉座に、彼女は座った。そこに座って、むらむら燃えるような太陽の季節を夢見てい る。異教徒の儀式とはこのように始まるのかもしれない。やってやるぜというものの純粋さによりよく触れる機会がそこにあるかもしれない予感で俺は胸を高鳴らせた。
 淋病おばさんは小柄で赤いシミーズを着こなしていた。ジャラジャラとした飾り物を首に巻いたり、腕に巻いたりしていたのを覚えている。ふっくらした顔に、くりくりの目。それが時折とろんとなる。薄桃色の唇は表情豊かな顔の筋肉に包まれていた。豊満な胸は、聞かれてもないのに次から次に告白する男性遍歴に合わせて踊り出し、次はあんたの番と言ってのける。もちろんお断りだが、彼女は一向に構わなかった。
 「ソドム」のマスターも、俺に絡んでくる淋病おばさんに、もっとやれとやじっていた。俺の中では、おおよそ男色がまかりとおるこの街で、なぜこんなに自分の性に明るくいられるのだろうかという不思議な偏見が、彼女に興味を抱くきっかけだったのかもしれない。
 マスターと淋病おばさんは20年来の付き合いらしい。マスターはここ「ソドム」で働き出してから23年、2人は恋人同士であったことはなかったが、マスターとの縁も深く、マスターの良き理解者として、淋病おばさんとは家族のようだった。淋病おばさんは、旅をする。そうして夜になるとふらっとやってきては決まってカウンター席についた。上品に酒をあおると、「しかじかの男は良かったわー」と言いながら、機関銃のように話し出す。俺は、彼女が語るもはや戦場さながらの男たちとの情事について聞き入った。
「どうやったらそんな展開になるんですか?」
「誘ってるわけじゃないのよ。今回はたまたまそうなっただけなのよ」そんなわけがない。誘ったのだろう、明らかに。俺は「寂しいんですか?」と聞いたが、淋病おばさんは「あたし惚れやすいの」と返してきた。彼女は勇ましかった。普通は、こそこそとかひっそりと話すことをさらっと言い放つ。   
 しかし、俺がまだ、心も体も大人と呼べる規範がなかったゆえに、この世界で一緒に戦わせてくれと願い出たくなっていたのだろう。いうまでもなく俺は、彼女に興味を持ち、嫉妬し、憧れを抱いていたのだ。
「あんたいくつだっけ?」
「じゅーきゅーです」
「へえ。じゃあ、あんたもいずれあたしみたいになるんだろうね」
「どういうことですか?」
「あたし、男が好きじゃないんだよ」
「え?でも……」
「それは違うよ。あたしは、男を愛してはいるけど、男を愛してないんだよ」
愛しているけど愛していない?俺は「今はわからないです」と答えていた。
「きっとわかるよ」
俺はその時淋病おばさんが遠い目をしていることに気づいた。
それまでの笑っていて、楽しげな淋病おばさんが、ふと儚げな目をしている。それが、何を意味しているのかはわからなかったが、なんとも言えない色っぽさと、しっとりとしたビロードのような翳りがそこにはあった。真夏の夜にまどろんでいる陽炎のような翳りだった。
「おい、ヤっくん、ちょっと」
「なんすか?」
「この人はね、6年前に結婚するはずだったんだ」
「え?相手は?」
「もういないよ」
「お天道さんになっちまったよ」と淋病おばさんはポツリと言った。
「競馬にハマってね。借金しちまってこの世にいるか」
「そうなんすね」
何やら重い話なのだろう。
「競馬場探したわ、馬券買って。あたしって一途よね」
「いらっしゃったんですか?」
「いるわけないわよね。この街を出たの知ったの後からだった。でも、お天道さんはみんな見てたわ。あたしにあの人を許せるようにしてくれた」
「どういうことすか?」
「あたし見えるようになったの」
「スピリチュアルな話ですか?」
「そんなんじゃないから最後まで聞いて」
「幽霊とか神様とかですか?」
「いや、馬よ」
「馬?」
「こうやって輪っかを作って馬をみると色が見えるの」
そうやって淋病おばさんは親指と人差し指で輪っかを作り、覗き込んだ。
「本当に?」
「ヤバいこと言ってるのはわかってるわ。でもその色はある法則で色づいてるみたいで、それであたし競馬のことわかっちゃった。紫、青、赤、黄、白、黒の競馬冠位十二階。こないだだって色を順に並び替えて馬券買ったら500万あたっちゃったんだから」
「は?」
「あの人いなくなってからあたしの生活はそれで成り立ってるのよ。あの人が競馬で負けた分、あの人に泣かされてきた分、今巡り巡って私の元に失ったものが溢れている。あんただって経験あるでしょ。友達に貸したおもちゃがボロボロになって帰ってきたとき、こんなんじゃなかった思うこと。いまさら馬券が当たってもあの人への愛情が報われたわけじゃない。本当に失ったものは戻ってこない。でもなぜかこうして生きながらえてる。だからあたしが注いだ彼への愛は、ぜんぶお天道様のものだったんだって気づいたの」
「やばすぎじゃないすか」

「男を愛してダメになっても、お天道さんがいるから、いつも許せるの。あたしはたぶん、そうなってしまう人間の摂理が愛おしいんだと思う」

 過去も愛も陽炎だった。ふくよかで豊かな夢を望んでも、手に入らないことを嘆くことはしなかった。失敗や、し損なってしまうことすら、彼女にとっては喜ばしいものになっているのだ。悲しみさえ生命の糧として深く降りていくことができる。そこで燃えてるのは愛の灯火だった。この人のことをもっと知りたいという気持ちは自然と湧いてきた。静かに高揚した気持ちが、世界のピースになれない自分の情けなさを埋めていく。そんな過去も彼女の前では陽炎のようにゆらめく。
 燃え上がる地平線の彼方に沈む太陽がまた昇ってくるまで、人も灯火も星影もない夜はない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?