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コトバアソビ

【声劇台本】
比率:♂1:♀1 
所要時間:100分


【まえおき】
 この作品は初めて書いた声劇台本のため、非常にセリフバランスが悪いです。サシ台本としていますが1:2で、(N)部分を分けても良いかと思います。
 また、この作品は演じる方によって趣の違う感じになればいいなぁと思っています。( )書きのところを一切読まないとか、今後投稿予定のコトバアソビ~日常想起~という作品と交互に演っていくとか、アレンジOKです!
 演者様の性別不問です。
 配信なども自由!
 このような作品をお読みいただけただけで嬉しいです♪


【登場人物】

シイナ ♀
 女子高校生。
 偏屈な性格。
 人に対して心を開かない。
 表向きは病弱で大人しい、
 空気が読める子を演じている。
ソータ ♂
 男子高校生。
 「爽やか」という言葉を
 体現したような人。
 人当たりが良く活発で朗らか。



空は青いまま


シイナ(N):

 世界は決して美しくはない。

 過去にも未来にも現在にも

 輝かしさなんて存在しない。

 それは偏った見解だ。

 解っている。

 けれど、

 一度自己を否定し、周囲を否定し、

 全てを否定してしまえば、

 途端に色彩は失われ、白黒に濁る。

 濁ってしまえば、

 美しく見える事など

 あろうはずもない。

 だから、世界は美しくない。

 死のうと思った事はない。

 生きる意味を

 感じられないのだから、

 死ぬ意味だって感じられない。

 なので、淡々と訥々と生きている。

 こんな事を考える事自体が

 愚かなのだろうか?

 愚かでも別にいい。

 だって、

 私なんていう些細な存在が

 どんな事を想おうが、

 考えようが、

 空は青いのだから。



邂逅


シイナ(N):

 旧校舎の屋上から見える景色は、

 今日も平坦だ。

 晴天の空もいつもと変わらぬ広さで、

 眼下で動く人間も、

 手近にしか目を向けない。

 私は、今日も蚊帳の外から、

 そんな小さな世界を

 見下した気になっている。

シイナ(N):
 あと少し時計の長針が動けば、
 高らかに鐘が鳴り、
 人の気配は失われるだろう。
 私はそんな景色をぼんやりと
 眺めている。
 確か次は英語の授業だっただろうか?
 それとも現国?
 まぁ、どちらでもよい。
 サボりとか言うような積極的な行動を
 とっているつもりはなかった。
 ただ、心と体が動かないから、
 留まり続けているだけだった。
 これが、この一年間で作り上げた
 私のスタンスだ。
 私はこうして、
 このままあと残りの二年間を
 過ごしていこうと思っていた。
 けれど、その日は少し違った。
 いや、その日から少しづつ私の世界は、
 私だけの世界は、
 変わっていってしまった。

<舞台>旧校舎の屋上 5月

屋上の扉がシイナの背後で軋みながら開く。
シイナはその音に思わず息を呑み、身を硬くする。

ソータ:
 おっ!?……おはよう。
シイナ:
 っ!?
ソータ:
 へぇー、
 ここって立ち入り禁止じゃないんだ?
シイナ:
 (いや、立ち入り禁止だし……。)
ソータ:
 入れるとは思わなかったなー。
 穴場だね。
シイナ:
 …………。

ソータ、シイナに近づく。
シイナは振り向きもしない。

シイナ(N):
 旧校舎の屋上は、
 本来誰も立ち入れない場所だった。
 そもそも旧校舎自体が
 実験室や資料室等の限られた箇所しか
 使われておらず、人の出入りが少ない。
 建物も旧と呼ばれるだけあって
 老朽化していて、
 例に漏れず屋上も
 いつ崩壊してもおかしくない状態だ。
 そんな場所を学校側が封鎖するのは、
 ごく自然な話だった。

ソータ:
 サボるには最高な場所じゃん。
 アンタ、凄いね!
シイナ:
 …………。

シイナ(N):
 私がここに居られるのは、
 別に私の力ではない。
 私がこの屋上を見付けたその時、
 かけられていた南京錠は、
 それとなしに触っただけで脆くも
 崩れてしまったのだ。

ソータ:
 んー、今日もいい天気だなー。
シイナ:
 !?

ソータごろりと寝っ転がる。

シイナ(N):
 此処は、私が踏み込む迄のその間、
 少なくとも何年かは放置され、
 風の赴くまま朽ちていた。
 そんな場所に、
 彼はどっしりと制服の尻を付けたのだ。

ソータ:
 昼寝日和だな。

シイナ(N):
 言う通り、空は雲一つない晴天だった。
 陽射しは暑く、風は涼しい。
 季節は春。
 五月のゴールデンウィーク明け。

ソータ:
 アンタは、いつからここにいんの?
シイナ:
 ……。
ソータ:
 学年は?
シイナ:
 ……。
ソータ:
 授業出なくていいの?
シイナ:
 ……。
ソータ:
 俺はさー、
 天気のいい日は教室で授業って
 非効率だと思うんだよねー。
シイナ:
 ……。
ソータ:
 しかも数学なんて、
 眠ってくださいって
 言ってるようなもんじゃない?
シイナ:
 ……。
ソータ:
 不可抗力ってやつだよね。
シイナ:
 ……。
シイナ:
 (こんだけ無視してるのに、
  話しかけ続けるって、
  どういう神経してるんだろう?)
ソータ:
 なのにさー、数学の森永が言うわけよ。
 高校生にもなって大人に
 『勉強しろ!』
 とか言わせるなーって。

シイナ(N):
 昼休みを告げる鐘が鳴ると、
 私は踵を返して食事を摂りに
 屋上を後にした。
 彼は、喋り疲れたのか、
 ブレザーを丸めて枕にし眠っていて、
 私が立ち去った事に
 気付いていないようだった。
 そして――――戻って来た時には、
 そこに彼の姿は既に無かった。
 彼はもう来ないだろうと思った。
 私は一言も喋らず終いだった。



接触


<舞台>旧校舎の屋上 5月

屋上の扉がシイナの背後で軋みながら開く。
シイナはその音に思わず息を呑み、身を硬くする。

シイナ(N):
 もう二度と来ないだろうと思っていた
 例の彼は、またひょっこりと、
 あれから二週間後にやって来た。

ソータ:
 あっ、みっけ!
シイナ:
 っ!?
ソータ:
 いるかなって期待はしてたんだけどさ、
 本当にいるとは思わなかった。
シイナ:
 …………。
ソータ:
 この間は、
 俺が寝てる時に居なくなってたじゃん?
シイナ:
 …………。

ソータ、シイナに近づく。
そのまま薄汚れた屋上の床にべたりと腰をおろす。
シイナ、ソータから顔を逸らす。

ソータ:
 いつもそこに立ってんの?
シイナ:
 …………。
 (いつもなわけないだろ。
  いつもここに居たら、
  私は直ぐに退学になってしまう。
  もしくは留年だ。)
ソータ:
 座ればいいのに。
シイナ:
 …………。
 (……そう言う事か。
  でもやっぱり答えは否だ。
  足が疲れたと思ったら帰るし、
  時には何か敷いて座ったりもする。
  けれど断じてそのまま直に座る
  なんて事はしない。)

シイナ(N):
 授業の開始を告げる鐘が鳴る。
 今日この時間は、
 私のクラスは体育の授業だった。
 丁度立っている場所と反対側に位置する
 グラウンドの方から、
 ワイワイガヤガヤと
 男女の入り交じった声が聞こえてくる。
 今日は、
 体育祭の練習を行っているらしい。
 私は、「保健室に行く」と
 嘘を吐いて休ませてもらった。
 彼はどうなのだろう?

ソータ:
 今日は、ちゃんとサボる為の
 アイテムを準備して来たんだよねー。

ソータ、ガサゴソとビニール袋を漁る

シイナ:
 (ビニールあるなら、
  それに座ればいいのに……。)
ソータ:
 はいっ、アンタには……イチゴオレね。
シイナ:
 っ!?
ソータ:
 あれ?
 バナナオレのほうが良かった?
 でも、ごめん。
 バナナオレは俺のお気に入りなもんで。
シイナ:
 …………。

シイナ、ただ目をみはって固まる。
ソータ、辛抱強くそのままイチゴオレを差し出し続ける。

ソータ:
 お近付きの印に……どうぞ。

シイナ、根負けしてイチゴオレを受け取り、ぺこりと頭を下げる。

シイナ:
 (……どうも。)
ソータ:
 [満足そうに笑んで]ん。

シイナ、小さなパックジュースの背中に付属のストローを差し込んで、イチゴオレを飲む。

シイナ:
 (……私が必ずしもここにいるとは
  限らないのに。
  それとも偶然二個持っていたとか?
  ……そんなわけないか。)
ソータ:
 もうすぐ体育祭かー。
 晴れるといいねー。
 今日みたいにさ。

シイナ(N):
 今日は一際空が澄んでいて、
 青も深くて……。
 だから、彼の声もBGMに聴こえた。
 その日も、
 やっぱり私は一言も喋らなかった。
 でも、やっぱりその内寝入ってしまった
 彼の横を通り過ぎる時、
 『ありがとう』
 と書いたメモを残していった。
 彼がそれに気付いたかどうかは判らない。



浸食


<舞台>旧校舎の屋上 6月

シイナ(N):
 六月も半ばになると、
 季節は通常に回り出した。
 先日の体育祭の時の暑さが嘘のように、
 厚い雲が立ち込め、
 糸のような雨が途切れる事無く
 降り続いている。
 旧校舎の屋上にも、
 例に違わず梅雨の洗礼が降り注いでいた。
 私はそんな中でも、
 屋上へと続く扉がある
 箱形の建物の部分の庇の下に、
 小さく身を丸めていた。
 体育座りをした上履きの足先は、
 庇の保護の下に入りきれていない。

ソータ:
 雨でも関係ないんだね。

シイナ(N):
 彼は扉を挟んだ向こう側に座っていた。
 彼は、あれからちょくちょく
 この場所に姿を見せるようになった。
 大体一週間に一回くらいだろうか。
 彼は、例え私が一言も喋らなくても
 別に気にしていないようだった。
 性懲りもなく毎度笑顔で現れて、
 明るく声をかけてきて、
 朗らかに独り言を繰り返して、
 最後には決まって、
 「またね」と
 再会を匂わせる事を言い残していく。
 初めは、到底理解出来ない振る舞いに、
 我が目を疑ったり、
 身体を強張らせたりしていたが、
 それも気にならなくなってきていた。

ソータ:
 そう言えば、この間の体育祭、
 見学してたっしょ?
シイナ:
 …………。
ソータ:
 体調悪かったん?
シイナ:
 …………。
 (別にそんな事はない。
  まぁ、あの暑さには
  少しやられたけどね。)
ソータ:
 それとも面倒かった?
シイナ:
 …………。

シイナ(N):
 会話なんて一つも交わしていないのに、
 不思議と彼は私の考えを
 感じとれるようになってきていた。
 そして私も、
 いつからか彼の問い掛けに、
 声には出さないが、
 頭の中で応えるようになってきていた。
 何かが確かに変わってきていた。

ソータ:
 でも、
 あそこでずっと見学してたほうが
 逆に辛かったんじゃない?
シイナ:
 …………。
 (まぁね。
  ……て言うか、
  そんなに目立ってたのか、あの場所。
  失敗だった。)

シイナ(N):
 彼の手には、今日もバナナオレ。
 そして、
 やっぱり私には何故かイチゴオレ。
 霧雨だった雨は段々と強くなり、
 屋上の綻びに溜まった水も
 段々と幅を拡げ始めていた。
 庇の保護が通用するのも
 後少しの時間だろう。
 上履きの先だけで済んでいた被害は、
 靴下にまで侵食しつつある。
 そろそろ引き上げ時だ。
 隣に座る彼は、
 もっと深刻な被害を受け始めていて、
 灰色のズボンの裾は
 その色を濃くし始めていた。
 しかも懲りずにまた直に座っている。
 ここに来る度に
 毎度毎度制服を汚していて
 困らないのだろうか?

ソータ:
 くだらないって
 思うかもしれないけどさ……
 行事とか、学校生活とか、
 参加してみると楽しいよ。
シイナ:
 …………。
 (大きなお世話だ。
  彼は一体何がしたいのだろうか?
  私を更正でもさせる気なのだろうか?
  学校生活云々と言うくらいなら、
  こんなトコに来なきゃいいのに。)
 っ…………。

シイナ、ポケットからコインを二枚取り出し、ソータへと突き出す。

ソータ:
 〔ニカっと笑って〕いいよ。
 好きでやってるだけだし。
シイナ:
 …………。
 (それじゃ私が困る。
  貸しを作ってばかりは嫌だ。)

シイナ、首を振り、更に二百円突き出す。

ソータ:
 いいって……
 それに、コレ一個八十円だし。
 ぼったくりになっちゃうじゃん。
シイナ:
 …………。
 (そんな事知っている。
  学内の自販機が割安な事くらい。)

シイナ、再度頭を振り、いいから受け取れ、とばかりにコインを示す。

シイナ(N):
 流石にここまでくると、
 頑なに言葉を発しないようにしている事が
 馬鹿馬鹿しくなってきた。
 ただの意地でしかない。
 少しの間、無言の睨み合いが続いた。
 けぶるような雨の音だけが
 鼓膜を震わせていた。
 しびれを切らしたのは彼のほうだった。

ソータ:
 ……じゃあ、
 次会う時はアンタが買って来てよ。
 えーっと、
 多分来週の今日と同じ時間に
 来ると思うからさ。

シイナ(N):
 頭の中でカレンダーが広がる。
 木曜日の五限。
 私のクラスは、英語。
 今日は先生が出張で自習だったので、
 特に何も言わずに出てこれた。
 けれど来週は普通に授業があるだろう。
 なんで、
 私が必ずここに来られると
 決めつけているのだろうか。
 ……まぁ、いいか。
 保健室にでも行くと言えば。
 僅かな思考の後、私は了承を示した。
 と言うか、
 そもそも彼自体は大丈夫なのだろうか。
 最近ちょくちょく来ているように
 思うのだが……
 もうすぐ、試験期間に入ると言うのに。
 少し疑問に思ったものの、
 特に質問はしない。
 私は、とうとうコインを引っ込めた。
 雨に掻き消されながら、
 僅かに授業終了を告げる鐘が
 鳴り響いていた。
 満足そうに笑んでいる彼に、
 私は一つ頭を下げて、
 またしても彼より先に屋上を出る。
 彼は、もしかすると
 私が喋れないと
 思っているのかもしれない。
 別に私は、
 彼が嫌いとか、
 好きとかそんな事は思っていない。
 ただ、住む世界が違い過ぎるから、
 考え方が違い過ぎるから、
 関わりたくないだけ。
 それでも、私達は初めて、
 次に会う約束をした。


解禁


<舞台>旧校舎の屋上 6月

シイナ(N):
 梅雨明けを待たずに、
 空は晴れ間を見せた。
 湿気も南風がさらっていき、
 暑いばかりになっていた。
 どうやら今年の暦は気が早いらしい。
 その日私は、
 朝から旧校舎の屋上にやって来ていた。
 鞄も持ったまま、制服を着て、
 教室に一度も立ち寄らずに
 真っ直ぐに来ていた。
 今日は彼との約束の日だった。
 彼が来ると言ったのは、
 四限目の昼休み前の時間だ。

ソータ:
 おはよー。
 〔欠伸をしつつ〕あれ?
 ……今日は、そこにいるんだ。
シイナ:
 …………。
ソータ:
 なるほどぉ、レジャーシートかぁ。
 なんかピクニックみたいだね。
シイナ:
 …………。

ソータ、シイナの下へと歩み寄る。
シイナ、買っておいたバナナオレを押し付けるように突き出す。

ソータ:
 うわっ……ん……?
 なんか怒ってる?
シイナ:
 …………。
 (別に怒ってない。
  そもそも怒る理由がない。)
ソータ:
 んー、……ま、いっか。
シイナ:
 (良くねーよ!?)

ソータ、シイナのすぐ隣、一人用のレジャーシートの隙間に座る。
ソータ、やっとバナナオレを受け取る。

ソータ:
 [耳元で囁くように]ありがとう。
シイナ:
 …………。
 (……なんだ、このラブコメ展開は。)

シイナ、イチゴオレを開けて飲む。

ソータ:
 ナルホドなー、
 シートとか敷けば
 制服汚さないで済むよね。
 うん、アンタ、頭いいね。
シイナ:
 …………。
 (そんな事で褒められても嬉しくない。
  と言うか、
  やっぱり汚れを問題視していたなら、
  早く対処しろよ……。)
 はぁ……。
ソータ:
 あっ!今馬鹿だコイツって思ったっしょ!?

シイナ、首を振って否定。

ソータ:
 まーーー。
 馬鹿って言われたら
 馬鹿かもしれないケド……。
 いやいやいや、
 ちょっとお茶目なだけだって!

シイナ(N):
 彼は、私と話がしたいのだろうか?
 今更、そんな事を考えた。
 初めは、
 たった一度きりの偶然だと思った。
 次からは、
 ただの興味本位だと思っていた。
 でも、こうも何回も回数を重ねて、
 約束までして、距離も縮まって……
 じゃあ、今はなんて言い訳する?
 なんだか、意地を無駄にはって
 口を利かない事のほうが、
 制服が汚れるのに
 直に座り続けていた事より、
 馬鹿らしい気がしてきた。

ソータ:
 いいよ、いいよ。
 どうせ俺は馬鹿ですよーだ。
シイナ:
 私のほうが馬鹿だよ。
ソータ:
 …………。
 ぅ……あっ!
 そっ、そんな事ないって!
 つーか、
 馬鹿さ加減なら負ける気しねーし。
 って何言ってんだ?俺。
シイナ:
 ホント、何言ってんだろうね。
ソータ:
 [苦笑]あっ、そうだ!
 俺秘密兵器持って来たんだよねー。

ソータ、自分の鞄の中を漁る。

ソータ:
 じゃーん!
 ポテトチップスのりしお~!
シイナ:
 …………うん。
ソータ:
 あれ?反応薄っ!
シイナ:
 ポテトチップスと
 バナナオレってどうなの?
ソータ:
 それが合うんだなー。
 ビバ!塩分と糖分って感じよ。

ソータ、盛大な音をたててポテトチップスを開封し、シイナに勧める。

シイナ:
 ……どうも。

シイナ、ポテトチップスを齧る。

ソータ:
 どう?
シイナ:
 胃がもたれそう。
ソータ:
 ダメかーーー。
 ……ん、アンタ、手……手、怪我してる。
シイナ:
 そっちだって。
ソータ:
 ん?
シイナ:
 肘のとこ、怪我してる。
ソータ:
 あぁ、これは部活で……
 アンタも部活とかやってんの?
シイナ:
 やってない。
ソータ:
 ふーん。
 じゃぁ、よくこんだけサボってて
 留年になんないね。
シイナ:
 別にサボってない。
ソータ:
 サボってるじゃん。
シイナ:
 ちゃんと最低限やってる。
ソータ:
 ふーん。

シイナ(N):
 そんな、ポツリポツリとした、
 無くても構わないような、
 取り留めの無い、
 他人行儀な、
 いまいち噛みあわない会話が続く。
 ここから、
 私達のコトバアソビが始まった。

ソータ:
 ねぇ、そう言えば名前なんて言うの?
シイナ:
 シイナ。
ソータ:
 へぇ、シイナさんね……
 シイナ何さん?
シイナ:
 シイナが名前。
ソータ:
 そっか……シイナさんね。
 うん、覚えた。
シイナ:
 さん付け、気持ち悪い。
ソータ:
 ……意外に注文多いね。
シイナ:
 わざわざ面倒な会話してるんだから、
 云いたい事言う。
ソータ:
 はは……そっスか。

ソータ、今までとのシイナのギャップに思わず吹き出し笑う。

ソータ:
 くくっ……あ、そうそう、
 俺はカナ……じゃねぇや、
 ソータね、ソータって呼んで。
シイナ:
 ん、わかった。

シイナ(N):

 何回もの出会いを繰り返して、

 私達は初めて会話した。

 私はやっと口を開いた。

 何回もの別れを繰り返して、

 私達は初めて名乗りあった。

 見事に、大して広くない旧校舎の屋上に、

 人間関係の縮小図が模されていた。

 私が何故頑なに口を開かなかったのか、

 何故口を開いたときに

 素直な自分を表現したのか、

 その理由は私自身も解らない。

 ただ自分の好きな場所で

 仮面を被って過ごすのが

 嫌だったからかもしれないし、

 彼が何度も懲りずに

 話しかけてきたからかもしれない。

 けれど、いつの間にか、

 私は口と共に心まで開いてしまっていた。


流動


<舞台>旧校舎の屋上 9月

シイナ(N):

 私は彼のことを知らない。

 識ってはいても、知らない。

 私達はただ狭い空間の上でだけ存在し、

 その場だけで互いを見、

 言葉を交わす。

 それでいい。

 それ以上はいらない。

 そう思っていたのに……

 段々とあの場所だけが、

 私達の総てになっていった。

シイナ(N):
 夏休みは最悪だった。
 暑いばかりで、する事は無く、
 時間も無駄にダラダラと過ぎていった。
 私は特に予定と言える程の事も無くて、
 図書館との往復をして過ごした。
 あっという間と言えばあっという間。
 でも、平坦で色味の無い毎日を過ごすより
 何倍も心は削られた。
 だから、始業式は気分も機嫌も悪かった。
 体育館で校長の話を聞く気には
 到底なれない。
 ならばと、荷物を持ったまま、
 屋上へと逃げ出す。
 これなら、
 家に居るのと大差ないかもしんないな……

ソータ:
 おぅっ!おっはよー。
シイナ:
 …………。
ソータ:
 へへっ、やっと来たね。
 待ってましたよー。
シイナ:
 ……何やってんの?
ソータ:
 リフォームですよ、リフォーム!
シイナ:
 リフォームって……。
ソータ:
 リクライニングチェアに!
シイナ:
 プールサイドにある
 プラスチックのやつね。
ソータ:
 ベッドサイドテーブル!
シイナ:
 どう見ても教室の机だね。
ソータ:
 いやいやいやぁ、
 物は言いようってやつっしょ?
シイナ:
 まぁ……それはそうかも。
ソータ:
 あー、パラソルも必要だったかなー?
シイナ:
 ……それはいくらなんでも
 目立ち過ぎでしょ。

ソータ、芝居がかった動きでシイナに椅子を勧める。

ソータ:
 どうぞ、お姫様。
シイナ:
 ……ん。

シイナ、言われるがまま、座る。

シイナ:
 (不本意だけど、浮上した。)
ソータ:
 極めつけは、コレ。
シイナ:
 ……イチゴオレね。
ソータ:
 そして、俺は勿論……
シイナ:
 ……バナナオレ。
 飽きないの?
ソータ:
 すぐ飽きるくらいなら、
 好きになんないよ。
シイナ:
 ……よく解らない理屈だね。
ソータ:
 そう?
 俺、嫌いなんだよねー。
 諦めるとか、飽きるとか……
 一応体育会系だからかなー?
 ってわけで、再会に乾杯!

パックジュースで乾杯。
勿論、音は鳴らない。

ソータ:
 あー、夏はやっぱ炭酸かなー。
シイナ:
 はぁ?
 今飽きるのは嫌いとか言ってなかった?
ソータ:
 いや、
 別に飽きたからってことじゃないって。
 バナナオレは殿堂入りですから。
 でも、時節を楽しむのも
 日本人の嗜みじゃない?
シイナ:
 いや、なんか、
 「ぽい」こと言ってる感じだけど、
 いまいちズレてるから。
ソータ:
 まーまー、いいじゃん。
 っで?シイナは炭酸いけるヒト?
シイナ:
 別に平気。
ソータ:
 じゃあ暑い内は炭酸にするわ。

ソータ、欠伸と伸びをして目を閉じる。

シイナ(N):
 確かに、気持ちいい……。
 パラソルも必要かな。
 次は炭酸にする。
 彼の一言一言が
 また会おうと言ってるみたいだった。

シイナ:
 ところでさ、これどうしたの?
ソータ:
 ……ん?
シイナ:
 こ・の・椅・子。
 どうしたの?
ソータ:
 あー、これね。
 中学ん時の友達が
 夏休み中監視員のバイトしてて
 貰ったんだよ。
シイナ:
 貰ったって……。
ソータ:
 運ぶの結構大変だったんだよー。
シイナ:
 …………。
ソータ:
 夏休み中の部活終わりに、
 一人でこっそり運んだんだぜー。
シイナ:
 ここまで?
ソータ:
 そーよ。苦労したんよー。
 折り畳み式ってのが救いだったわー。
ソータ:
 シイナは夏休みどうしてた?
シイナ:
 ……何も。
ソータ:
 そっか。
 俺はねー……
 [少し声を沈ませて]
 ……俺も何も無かったかな?
シイナ:
 そっか。



転換


<舞台>旧校舎の屋上 9月

シイナ(N):
 中間試験が間近に迫った頃から、
 以前にも増して
 ソータは屋上に現れるようになった。
 私は、
 ここのところ珍しくも予定が嵩んでいて、
 あまり屋上にも、
 学校にすら来ていなかった。
 だが、私が居ない間にも
 ソータが屋上に来ていた痕跡があった。
 だから、
 私達が久しぶりに顔を合わせた時には、
 まるで彼のほうが
 先住民であるかのような
 そんな錯覚に陥った。

ソータ:
 久しぶり。
シイナ:
 うん。
 ……今日は、コーラなんだね。
ソータ:
 今日二本買ってきてねぇや、ごめん。
シイナ:
 ううん……別に。
ソータ:
 最近、来なかったね。
シイナ:
 ちょっと家の用事があって、
 学校も休んでた。

シイナ(N):
 老朽化して薄汚れた屋上に不釣り合いな、
 プールサイドでよく見るデッキチェアは、
 砂埃を被る事なく、
 真っ白な状態を保っていた。
 屋根は無いし、
 一週間程前に雨も降った。
 折々拭き掃除が行われていなければ、
 この白さは保てない。
 加えて、椅子と椅子の間には
 もう一つ真新しいものが増えていた。
 以前は教室の机で賄われていた空間は、
 組立式のラックのようなものに
 変わっていた。
 三段のそれは、上に板があり、
 テーブルとしても充分使用出来る。

シイナ:
 これも持ってきたの?
ソータ:
 あぁ、そーよ。
 近くのゴミ捨て場に落ちてた。
シイナ:
 へぇ~、よく見付けたね。
ソータ:
 引き出し、開けてみて。
シイナ:
 ……これは?
ソータ:
 布。
ソータ:
 この椅子そのまま座ると硬いじゃん?
シイナ:
 これも拾ってきたの?
ソータ:
 いんや、流石にそれは買ってきた。
シイナ:
 ……そう。
ソータ:
 これから寒くなるし、
 丁度いいかなって。
シイナ:
 私の分も?
ソータ:
 そりゃぁ、そうでしょ?
ソータ:
 俺だけぬくぬくして、
 シイナはそのまま座っとけとか言ったら
 俺すっげぇ嫌な奴じゃね?
シイナ:
 …………。
ソータ:
 あっ!
 金がどうのとかは言いっこなしな。
 俺が好きでやってることだし。
シイナ:
 (ありがとうって言うべきなんだろうな……)
ソータ:
 ……あー、なんか、気ぃ悪くした?
シイナ:
 ……ううん、してない。
 凄いじゃん、名案だね。
ソータ:
 …………。
シイナ:
 な、何……?
ソータ:
 ……いや、なんかあった?
シイナ:
 っ!?
 な、んで……?
ソータ:
 褒められると思わなかった……
 絶対呆れるかと。
シイナ:
 何ソレ?
ソータ:
 だって、
 シイナが褒めてくれたの初めてじゃん、
 なんか心境の変化かなーって。
 あー、ホッとした。
 ぜってぇ怒られると思って、
 俺ちょっとビクついてたのに。
シイナ:
 そりゃ、
 流石にここまで徹底的にやられたらね、
 呆れなんて吹き飛んだよ。
ソータ:
 あー、今の録音しておけば良かった。
シイナ:
 やめろ。
ソータ:
 えーなんでー?
 貴重なのに。
シイナ:
 見付かったら、私はシラきるから。
ソータ:
 えー、なんでよ!
 共犯じゃん、一緒にゴメンナサイしよーぜ!
シイナ:
 ゴメンじゃ済まないでしょ?
ソータ:
 そーかな?
シイナ:
 当たり前。
ソータ:
 じゃあ今から対策考えとくかな。
シイナ:
 そうだね。

シイナ(N):
 何の得にも、
 損にもならないような
 言葉を交わして……。
 様変りした、ふたりぼっちの世界で……。
 周りの時間を無視して、
 全て忘れて、
 無二な時間を過ごす。

ソータ:
 そういや、文化祭さー……。

シイナ(N):
 コーラを飲むソータの左腕には、
 前には無かった大きな痣があった。

シイナ(N):

 私はこの時、知らなかった。

 気付かなかった。

 ソータが創った世界に溺れて。

 小さな箱庭が全てと思って。

 もう何も見ない。

 何もいらない、と。

 いつの間にか、

 逃げるのを止めて、

 投げ出してしまっていたんだ。


夜空


<舞台>旧校舎の屋上 10月

シイナ(N):
 夜は暗い。
 でも、都会の夜は
 決して真っ暗とは言えない。
 街灯や家々の灯り、
 ネオンなんかで、
 歩くには全く問題ないほど
 明るく照らされている。
 その晩は、いつもより更に、
 ぼんやりと明るかった。
 きっと校庭で行われている
 後夜祭のキャンプファイアーのせいだ。
 上を見上げると、
 背後が明るいせいか
 より一層深い濃紺の闇が拡がっていた。
 私は、
 文化祭の後片付けが粗方終わったところで、
 労い合いが行われ始めた教室を
 誰にも気付かれぬように
 そっと抜け出した。
 こうして一人上へと上って来た。
 こんな夜更けに
 この場所からの景色を見るのは初めてだった。

ソータ:
 居る気がした。
シイナ:
 …………ソータ。
ソータ:
 なんか、久しぶりだな、
 シイナが其処に立ってんの。
シイナ:
 星が見えたから。

ソータ、抱えていたビニール袋の荷物を下ろし、いつもと同じ席、屋上に据えられたデッキチェアに腰をおろす。

ソータ:
 あー、疲れたっ!
シイナ:
 後夜祭出ないの?
ソータ:
 出ないよ。
シイナ:
 …………そう。

シイナ、つられるようにソータの隣の席へと座る。

ソータ:
 ちゃんとサボらずに来てたんだな、
 文化祭。

ソータ、シイナの頭を撫でる。

ソータ:
 エライエライ。
シイナ:
 馬鹿にしてる?
ソータ:
 してない。
シイナ:
 いや、完全にしてる。
ソータ:
 してないって、ほらっ、ご褒美!
シイナ:
 ……何ソレ?
ソータ:
 たこ焼きだけど?
 あ、ヤキソバもあるぜぃ。
シイナ:
 いや、それは見ればわかる。
 そうじゃなくて、
 何故私はソータに
 ご褒美をもらわなくちゃならないんだ?
ソータ:
 文化祭にちゃんと出席してるから?
シイナ:
 …………さ、帰ろうかな。
ソータ:
 だーーっ、ウソウソっ!
 俺がシイナがまだ残ってたら
 打ち上げしたいって思っただけです!
シイナ:
 打ち上げ?
ソータ:
 そ。
シイナ:
 必要性が感じられませんが?
ソータ:
 そう言うなって!
 一年の時にはお互いのこと
 知らなかったわけだしさ、
 来年も同じクラスになれるとは
 限らないし……。
シイナ:
 私が来年はサボらないとも限らないし?
ソータ:
 そうは言ってないじゃん!
 …………俺がしたかったんだよ。
シイナ:
 …………。
ソータ:
 あ!
 今、他の奴とすればいいって思っただろ?
シイナ:
 別に思ってないし。
 思ってたら、そのまま言う。
ソータ:
 そっか。
 まっ、とにかくさ、
 俺はシイナと打ち上げしたかったんだよ。
シイナ:
 ん……わかった。
ソータ:
 [ニッコリ笑んで]おしっ!
 じゃぁ、これっ。
シイナ:
 ラムネ?
ソータ:
 そ!祭って言ったらコレだろ?
シイナ:
 なんか、そういう決めつけ多くない。
ソータ:
 いいからいいから。

ソータ、ラムネの瓶を差し出し、シイナが受け取ろうとしたところで引っ込める。

ソータ:
 あっ、ちょっと待って……
 開ける時、手、汚れるから……。

ソータ、ラムネの蓋を開け、吹き出さぬように開封してから、改めて渡す。

ソータ:
 ほいっ。
シイナ:
 ソータが手汚れてるじゃん。
ソータ:
 気にすんな。
シイナ:
 気にするわ!いいから拭け。

シイナ、ウエットティッシュを取り出し、渡す。

ソータ:
 お、サンキュー。
 準備いいなー。
 まるで、俺が打ち上げしようって言うのが
 解ってたかのようじゃん。
シイナ:
 違う。いつも持ってる。
ソータ:
 はは、
 ……なんか今日は気がたってますね、
 シイナさん。
シイナ:
 ソータのご褒美発言辺りからね。
ソータ:
 あーーっ、悪かったって。
 根にもたんでよー?
シイナ:
 ……ちょっとテンション高過ぎじゃない?
ソータ:
 お祭り気分ってことで、勘弁してよ。
シイナ:
 もう後の祭りでしょ?
ソータ:
 はいはい、解りました。
 口ではシイナに勝てません。
シイナ:
 …………そろそろ、飲んでいいですか?
ソータ:
 あぁっ!
 待って待って、乾杯しよう乾杯。
シイナ:
 …………。
ソータ:
 はいっ、乾杯!
シイナ:
 …………乾杯。

シイナ(N):
 声に一拍遅れてぶつけられたラムネ瓶は、
 硝子じゃないから
 景気良い音は鳴らなかった。
 ソータは、
 持ってきたたこ焼と焼そばを
 食べやすいよう蓋を開けて、
 テーブル代わりのラックに並べる。
 割り箸は二膳。
 ラムネも二本。
 それらは間違いなく私なんかの為に
 用意されている。
 そんな状況はなんか新鮮で、
 こそばゆい感じで……
 でも、悪い気はしなかった。

ソータ:
 ……ねぇ?シイナってさ。
 朝っ……ふわ~ぁ、
 早く起きんの平気な人?
シイナ:
 ???
 別に平気。
 起きようと思えば起きれるし、
 寝てようと思えば寝てられる。
ソータ:
 んー……俺はダメだー。
 眠いぃー。

シイナ(N):
 とうとう後夜祭もお開きになるようだ。
 明るかった背後が、
 祭りの後特有の弱々しい灯りに変わった。
 近所迷惑上等で流されていた音楽と喧騒も
 しんみりとした雰囲気をもち始めている。
 これから各々、
 クラスやら部活やらで
 打ち上げなんかに
 繰り出していくのだろう。
 星を見上げて、
 たこ焼を頬張って、
 焼そばをつついている間に
 随分時間がたってしまったようだ。
 ただ、なんとなく、
 後夜祭ですらもう終わるというのに、
 「帰ろう」と切り出しにくかった。
 でも、そろそろ言わないと、
 またソータが眠ってしまう。
 それに、
 下手したら
 施錠されてしまうかもしれない。
 結局口火を切れない私は、
 空になったパックを纏めることで、
 消極的に意志表示した。
 重ねたパックをビニール袋へ。
 ソースで汚れた割り箸は二つ折に。
 ラムネの瓶は別に捨てないといけない。

ソータ、突然シイナの腕を掴む。

シイナ:
 っ!?
ソータ:
 ねぇ?シイナはさ、好きな人いる?
シイナ:
 いないよ。
ソータ:
 ……俺も。
 俺もいない。
 つーか、そう言うの全然解んない。
シイナ:
 …………。
ソータ:
 …………うっし、帰りますかっと!
 あー、完全に後夜祭終わってるし。
シイナ:
 行きたかったの?
ソータ:
 いんや。
 シイナといるとあっという間に
 時間がたつなって思っただけ。

シイナ(N):
 私達二人はさっさと片付けを終えると、
 ゴミ袋を提げ、屋上を後にした。
 校内は静まり返っている。
 そんな中を私達二人は、
 誰とも擦れ違う事なく歩いていく。
 私からすれば、通い慣れた道。
 例え暗くとも歩く事に困難はない。
 ソータも夜目がきくほうなのか
 怯む様子もなかった。

ソータ:
 なんか、変な感じだな。
シイナ:
 何が?
ソータ:
 シイナと屋上以外で一緒にいることが。

シイナ(N):
 人の姿を見る事もなく、
 校舎を抜け、
 私達は校門へと辿り着く。
 生徒達は既に帰宅したようだ。
 まぁ、家路についたかどうかまでは
 分からないけれど。
 島津さんは、
 部活の打ち上げにいったのだろうか……。
 ふとそんな事が頭を過った。

ソータ:
 それじゃあ。
 また、屋上で。
シイナ:
 うん、また。

シイナ(N):

 あの時、

 ソータは間違いなく

 「また」と言った。

 日付は決まっていない

 時間だって決まっていない

 それを打ち合わせる術もない

 だから、いい。

 別にいいのだけれど……。

 その日からソータは、

 当分の間、

 屋上には来なかった。



汚濁


<舞台>旧校舎の屋上 1月

シイナ(N):

 いつから変わったのだろう?

 以前に戻っただけだろうか?

 折角彩られ始めた景色が

 白黒になったのは

 君がいた時には

 気付かなかったのに

シイナ(N):
 寒さも最高潮に達し、
 椅子に座ってじっとしているのも
 厳しくなった頃、私は気付いた。
 一月が半ばにかかる頃、
 そろそろ
 ソータが来てもいいんじゃないかと、
 私は再び屋上に通うようになった。
 二週間程度毎日欠かさず授業に出て、
 飽きてしまったというのもある。
 だが、ソータは一向に現れなかった。
 その場合、大抵暖を求めて、
 保健室やらに逃げ込むようにしていた。
 ソータが姿を見せなくなったのは
 気にはなるが、
 寒いなか待っているなんて、
 堪え性の無い私には出来ない。
 だが、たまたまその日は、
 そろそろデッキチェアやらの
 掃除をしておこうかと、
 雑巾を片手に、
 屋上に留まっていた。
 濡らした雑巾は、
 あっという間に指先を凍らす。
 指先は直ぐに赤くなる。
 それでも、
 ソータが来た時の事を考え、
 砂埃を拭う。
 こんな面倒まで背負って……。
 ソータが来るまで屋上は護っておく!
 とか、
 心のどっかで思っているのだろうか……
 完全に能天気が感染ってしまったか、
 と自嘲する。
 その時だった。

ソータ(男子高校生A):
 そろそろ降参しろっての!

シイナ(N):
 そんな声が聞こえて来たのは。

ソータ(男子高校生B):
 おい、あんまデカイ声出すなって……。

シイナ(N):
 私は数日前に見掛けた、
 中庭での光景を思い出していた。
 音をたてぬよう気をつけながら、
 屋上の柵へと近付き、見下ろす。
 すると、
 先日とほとんど変わらない位置に、
 同じように一人を取り囲む姿が見えた。
 いつから、
 中庭は虐めの定番場所になったんだ?
 彼等の姿を眼下におさめ、
 私は助けを呼ぶわけでも、
 咎めるわけでもなく、
 この間のように静観する。
 すると、
 再び呆れるくらい決まりきった感じで、
 暴力の雨がたった一人に降り注ぐ。
 人を傷付ける事に何の抵抗もないのか、
 音をたてて足や拳が身体に食い込む。
 顔を狙わないのは、
 慈悲ではなく、
 虐めが露見しないためだろう。
 私はその光景を
 くぐもった目でぼんやりと見つめる。
 途端に視界にフィルターがかかる。
 裏庭に敷かれた芝生。
 所々に聳える木々。
 総てが色みを失っていく。
 白黒に濁る。
 醜く汚れていく。
 あーあ、折角鮮やかだったのに……。
 勝手に景色が塗り替えられていくのを、
 私は何の抵抗もせずに見ていた。
 背後の錆びた扉は開かない。
 ソータは来ない。

ソータ(男子高校生A):
 あんな事しておいて
 よく学校来られるよなっ!

A、拳を脇腹に叩き込む。

ソータ(男子高校生B):
 潔く辞めろってのっ!

B、太腿目掛けて蹴りあげる。

シイナ(N):
 彼等は、
 私がいることには全く気付かない。
 立ち入り禁止の旧校舎の屋上に
 人がいるとは思っていないのだろう。
 いや、寧ろ授業中だから、
 誰かが見ている事自体
 ないと思っているのかもしれない。
 それとも、
 がなりたてる声から判断するに、
 自分達に非はないと思っているのだろうか。
 少しだけ目を凝らし、
 暴力の衝撃で右へ左へと
 激しく揺さぶられている、
 輪の中心にいる人物を見てみる。
 俯いていて表情は判らない。
 悲鳴や苦鳴を漏らしてもいないから、
 歯を食いしばって耐えているようだった。
 でも、多分、この間と同じ人物。
 彼はどのくらいの間、
 この無情な暴力と罵詈雑言に
 耐えているのだろう。
 ここまでされる程に、
 彼は悪逆非道な事をしたのだろうか。
 周りの連中に味方するつもりは
 毛頭無いのだが、
 それでも、
 こんな仕打ちをうけるくらいなら
 学校に来なければいいのに。
 協調性の無い私はそんな風に思う。
ソータ(男子高校生A):
 その、なんてことないです、
 って顔がむかつくんだよ!

A、顔を殴ろうと拳を振り上げたところをBに止められる。

ソータ(男子高校生B):
 おいっ!顔はやめとけよ!
 バレたら面倒くせぇ。
ソータ(男子高校生A):
 解ってる……って!!

A、止められた拳を下ろしはせず、肩の辺りに振り下ろす。

ソータ(男子高校生B):
 お前は、
 停学程度で済んだかもしんねぇけど、
 こっちはすげぇ迷惑被ってんだよ!
ソータ(男子高校生A):
 大会は出場停止、
 一年もマネージャーも辞めた……。
 お前のせいで、
 みんな人生滅茶苦茶にされてんだよっ!

シイナ(N):
 大体二十分程度だろうか。
 震える足でかろうじて立っていた彼が、
 とうとう地面に平伏したところで、
 暴力は止んだ。
 それまで底の見えない怒りを
 心のままに振るっていた連中は、
 突然気がふれたかのように笑い始める。
 彼が倒れた事で
 やっと優越感を感じる事が出来たようだ。
 早く倒れてしまえばよかったのに……。
 周りの連中は
 更に二言三言捨て台詞を吐いて、
 渡り廊下があるほうへと去っていく。
 一部始終を目撃していた私は、
 特にその場を動かず、
 倒れた彼の行く末を見ていた。
 遠くからでも判る
 ふいごのように揺れる肩。
 それが怒りからくるものなのか、
 あれた呼吸なのかまでははかれない。
 息があって、
 意識もあるようなのは確かだった。
 周りの連中が立ち去るのを
 待っていたのか、
 十二分に時間をとってから、
 彼は起き上がった。
 そのままどこかへ立ち去るかと思いきや、
 壁際まで這いずって、
 寄り掛かるようにして座り込む。
 全身がひどく痛むのだろう。
 動きも、座る姿勢すらぎこちない。
 私は、
 俯いたまま、
 ぐったりと座る彼の頭頂部を見ていた。
 すると、徐に彼が顔を上げる。
 ゆっくりと
 僅かに痛みに顔をしかめながら、
 彼は天を仰いだ。
 見下ろしていた視線と
 見上げた視線がしっかりと合う。
 私は、
 逃げたり隠れたりするつもりはなかった。
 瞬く眼をそのまま見続けた。
 見上げた先に私の姿を見付けると、
 彼は―――ソータは笑った。



甘言


<舞台>旧校舎の屋上 2月

シイナ(N):
 旧校舎の屋上から見える景色。
 すっかり葉が散った木立、薄曇りの寒空。
 罵声に怒声、
 肉に食い込む暴力の響き、
 微かに零れる苦鳴……。
 もうすっかり見慣れた。
 中庭で繰り返される愚行が、
 今日も変わらず行われていることを
 確認すると、私はさっと踵を返す。
 止めにいこうとか、
 見たくないとか、
 そんな気持ちはない。
 準備するためだ。
 屋上の端に纏めてある
 デッキチェアとテーブル代わりのラック。
 雨避けの為にかけてあるシートを外し、
 定位置まで引っ張り出す。
 少しだけ気になった汚れを
 雑巾で払い落とす。
 椅子を組み立て、
 ラック内に仕舞ってあるラグを敷く。
 これで準備完了だ。
 後は座って、待つだけでいい。
 流石に2月ともなると寒い。
 私は新たに持参した膝掛けを
 胸元まで引き上げた。
 またソータが屋上に来るようになった。
 しかも前の比ではない。
 私よりも頻繁に、ほぼ毎日来ている。
 先住民である私すら寒くて一日置きに、
 数時間来るくらいだというのに。
 膝掛けにくるまるようにして震えていると
 背後で扉が開く音がした。
 いつの間にか中庭の騒乱は静まっている。

しばらくして、シイナの背後で屋上の扉が開く。

シイナ:
 お疲れ様。
ソータ:
 今日は早いじゃん。
シイナ:
 教室騒がしくて、うんざりした。

ソータ、崩れるようにどしんと座る。

ソータ:
 なんで?なんかあった?
シイナ:
 さぁ?
 皆騒いでるわけじゃないけど、
 そわそわしてる。
ソータ:
 ?……あぁ、なるほど。
シイナ:
 そっちこそ、今日は早いんじゃない?
ソータ:
 ……ん?
 さっき下からシイナが見えたから。
シイナ:
 そういう事か。
 ……血、出てるよ。
ソータ:
 ……え?マジ!?
 鞄の金具当たったんかな、はは。
シイナ:
 (無理してまで笑う必要ないのに……)

ソータ、血を拭いながら、他に傷がないか探す。

ソータ:
 ……ところでさっ。

ソータ、声を弾ませ、シイナに向けて手を出す。

ソータ:
 ……。
シイナ:
 ……何?
ソータ:
 !?

ソータ、期待するようにキラキラしていた大きな瞳を、驚いたように見開き、その後不満げに伏せる。
ソータ、差し出していた掌を悪あがきのように指をわきわきさせて引っ込める。

ソータ:
 なんだよぅ。
 期待してたのにさー。
シイナ:
 だから、何を?
ソータ:
 別に手作りとまでは言わないのにさー、
 シイナは
 俺が甘党って知ってるはずなのになー。
シイナ:
 (……面倒な奴。)
シイナ:
 だぁかぁらぁ……何が?
シイナ:
 (まぁ、先に
  知らぬふりをしたのは私だけどね。)
ソータ:
 だぁかぁらぁ、チョコだよ!
 チョコ!!バレンタインの。

ソータ、「チョコ―、チョコー」と嘆きの声をあげる。

シイナ:
 ………………バレンタイン?
ソータ:
 ……。
シイナ:
 ……。
ソータ:
 シイナ……
 もしかして、バレンタイン知らないの?
シイナ:
 ……知ッテマスヨ。
ソータ:
 え?
 ソレ、ガチで知らない人の反応じゃね?
シイナ:
 いや、知ってるし。
ソータ:
 なぁんだ、知らないのかー、
 じゃあしょうがないよねー。
シイナ:
 [早口に]兵役を拒否させぬために
 結婚を禁じた皇帝に背いて、
 影で若い男女を結婚させていた
 神父バレンティヌスを守護聖人とした、
 男女が想いを伝える行事でしょ?
ソータ:
 え……逆に何ソレ?
シイナ:
 知らないの?
 なんだ、ソータのほうが
 バレンタイン知らないんじゃん。
ソータ:
 いや、普通知らないでしょ?
シイナ:
 ちゃんと知らないのに、
 チョコが欲しいとか図々しいよね。
ソータ:
 えーーっ

シイナ、ソータの膝の上に可愛げのない油紙みたいな包みを放り投げる。

シイナ:
 はい。
ソータ:
 え?え?
 このタイミングで!?
シイナ:
 (いいから、とっとと開けろよ。)

シイナ、ソータに渡した包みと同じ包みを取り出し、開封する。
そのまま中に入っているものを取り出し、かぶりつく。
白い粉が微かに舞う。

ソータ:
 えーっ!なんで大福!?
シイナ:
 食べたかったから作った。
ソータ:
 え!?これシイナが作ったの!?

シイナ(N):
 包みの中には大福が二つ。
 形は多分崩れていないはず。
 和菓子って、
 洋菓子に比べると
 手作りが難しいと思われがちだが、
 この大福はそうでもない。
 本格的に作るなら、
 それこそ労力も時間も設備も技術も
 必要になるのだろうが、
 所々で手を抜く術を取り入れれば、
 さして難しくもない。
 実際この大福も、
 電子レンジを使用しているため、
 大して面倒をかけずに作成されているし。

ソータ:
 すげー。大福って作れるんだー。
シイナ:
 早く食べなよ。
ソータ:
 [大福に豪快に噛みつき]んー!
シイナ:
 ちょっと!
 なんで一気に……ほらっ、お茶。

シイナ、ホットの緑茶をすかさず渡す。

ソータ:
 [お茶を飲み]っんまい!
シイナ:
 はいはい、良かったね。
ソータ:
 いや、マジで!
 大福とか和菓子って日頃買わないから、
 レア感あるし。
シイナ:
 さっきまで、
 チョコチョコ言ってませんでしたか?
ソータ:
 言ってた!
 言ってたけど、
 この大福で目が醒めました。
 チョコなんていう
 いつでも食べられるものに
 こだわってた自分を
 殴ってやりたいね!
シイナ:
 調子いい。

ソータ、もう一つの大福も頬張る。

ソータ:
 まぁ、嘘は言ってねぇしぃ。
 それに、
 シイナの手作りだっていうんだから、
 旨さ二倍増しでしょ!
シイナ:
 なんだそれ?
ソータ:
 だって……
 選ばれし者しか食べられないっしょ?
シイナ:
 私は伝説の料理人か何かか?
ソータ:
 そんくらいの価値はある。
 ……シイナ。
シイナ:
 ……ん?

ソータ、手を伸ばしシイナの手を取る。

シイナ:
 っ!
ソータ:
 手……怪我してるじゃん。
 これ、火傷だろ?
シイナ:
 そう……だけど、
 大した怪我じゃないから。
 耐熱ボウルを取り出す時に油断して……。
ソータ:
 [被せるように]でも、
 大福作る時に怪我したんだろ?
 だったら、その……ごめん。
シイナ:
 いや、本当に大した怪我じゃないし、
 悪いのは私だし、
 そんなすっごい頑張って作った
 とかでもないから。
 謝るとか、やめてよ。
 それに……
 ……ソータのほうが傷だらけじゃん。
ソータ:
 俺のは、
 シイナのと違って
 誰かのために付いた傷じゃないから。
シイナ:
 何それ?
 傷は傷じゃん。
 なんで怪我したかなんて関係ないよ。
 私もソータもお互いに手を怪我してる。
 ただ、それだけのことでしょ?
 (ごめんなんて……
  そんなことを言って欲しくて
  作ったんじゃない。)

シイナ、手を振り払おうとする。
ソータ、逃げようとするシイナの手を両手で包み込むように閉じ込めて。

ソータ:
 …………そっか。そうだよな……。
 [ニッコリ笑んで]シイナ……
 サンキュ、な。

シイナ(N):

 なんなんだろう?

 近くなるわけでもない距離。

 膨らむわけでもない想い。

 ただ言葉を交わして、 

 ただ同じ時間を共有して、

 何も好転しないのに、

 何も変わらないのに。

 どうしてなんだろう?

 傷だらけで、痛い思いをして。

 無理して笑う必要ないのに。



切願


<舞台>旧校舎の屋上 4月

シイナ(N):
 桜が戸惑いつつも咲いた頃、
 新学期が始まった。
 私は、
 大した波風も、
 感慨もなく、
 最終学年へと進学した。
 春休み明けの数日は生憎の雨模様で、
 私は春休み後の屋上の様子を
 直ぐに見には行けなかった。
 春雨は南風を連れてきて、
 桜の花弁を舞い上げた。
 麗かと言える日和がやって来たのは、
 新年度の恒例行事を終え、
 通常授業が再開された頃だった。

シイナ:
 直ぐに散っちゃいそうだね。

シイナ(N):
 葉を付け始めた中庭の欅の木の間を、
 桜の花弁が風に乗って舞っている。
 黄緑色の中をすり抜ける桃色は、
 些細な筈なのに、やけに目についた。

ソータ:
 ……うん。

シイナ(N):
 視線を景色の移り変わりへと
 向けたまま、
 私の手は忙しなく動いている。
 春休みが終わってまだ数日だと言うのに、
 ソータは傷だらけだった。

シイナ:
 桜ってさ、
 咲く時期考えたほうがいいよね……。
ソータ:
 ……うん。

シイナ、ソータの怪我を消毒、手当を行っている。

シイナ:
 だってさ、
 この時期梅雨以上に
 高確率で雨降るじゃない?
ソータ:
 ……うん。

シイナ、ソータに後ろを向くように指示する。

シイナ:
 直ぐ散るのが解ってるのに、
 咲く事ないと思う。
ソータ:
 ……うん。

シイナ(N):
 ワイシャツ一枚しか
 身につけていない背中。
 指先でシャツを摘むようにして
 めくり上げる。
 異性の、
 しかも同年代の男の子の
 生身を見るという事には、
 正直抵抗があった。
 恥ずかしいというか、
 気まずいというか、
 少なからず動揺する。
 でも、
 その動揺や躊躇を彼に悟られるほうが
 何倍も恥ずかしい気がして、
 冷静を装った。
 しかし、
 ソータの背中を見た途端、
 生身の肌を直視する事以上の
 衝撃が襲ってきて、
 息を飲んでしまった。
 会話をしていた事を忘れて、
 今度は私が黙りこむ。
 私が黙ってしまっても、
 彼は虚ろに前を見つめたままだった。
 露になった背中は、
 人間の肌の色をしていなかった。
 時間がたちやっと治り始めた名残の黄、
 痛みが怪我となって定着した青、
 真新しい衝撃を吸収した赤――――。
 その三色が斑に混じりあい、
 背中から肩、腰、腹へと拡がっていて、
 到底人の肌には見えなかった。
 こんなに酷かったんだ……。

シイナ、あまりの傷の多さと範囲の広さに戸惑いながらも、大きな痣にシップを貼る。

シイナ:
 おしまい。

シイナ(N):
 めくっていたシャツを無造作に放して、
 私はふいっと顔を背けた。
 傷を見て衝撃を受けたと悟られぬよう、
 何気無いふりをして、
 自分用の椅子へと戻る。
 私が離れてからも、
 数秒間、
 ソータはぼーっと虚空を見ていた。
 横目で様子をうかがいつつ、
 背もたれに身体を預け、
 彼が買って来てくれたイチゴオレを啜る。
 口の中に広がる甘味。
 よく考えると、
 こうしてイチゴオレを味わうのは
 久しぶりだった。
 視界の端で、
 緩慢にソータが動き始める。
 乱れたシャツを軽く整え、
 カーディガンとブレザーを羽織る。
 けれど、
 前のボタンも止めぬまま、
 ダラリと腕を垂らして、
 再びフリーズした。
 何かあったのは明白だった。
 寝ている時以外は
 やたらにニコニコと饒舌に話すソータが、
 こんな状態なのは始めての事だ。
 なんだかまるで、
 此方に何かあったことを
 アピールしているかのようで、
 少し苛立たしい。

シイナ:
 ……はぁぁ。
ソータ:
 あ……。
 手当て、ありがと。
シイナ:
 どういたしまして。
ソータ:
 ……その、またよろしく。

シイナ(N):
 どうしたの?
 何かあった?
 煩わしいそんな台詞の群が
 頭の中に浮かんでは消える。
 けれど、
 それは訊いていい事なのか
 判断出来なかった。
 それは、
 質問する事が気に障るかもしれない
 というような事ではなくて……
 私とソータの間で
 そんな質問の言葉はそぐわないような……
 だから私は、
 瞳の奥を覗き込むように、
 ただじっと見続けた。

ソータ:
 …………。
シイナ:
 …………。
ソータ:
 ……ねぇ、シイナ?
シイナ:
 ん?
ソータ:
 ルール違反、していい?
シイナ:
 ルールなんてあった?
ソータ:
 ……はは、
 じゃあうざかったら聞き流して。
シイナ:
 ん。
ソータ:
 …………俺さ
 ……スポーツ推薦でこの学校入ったんだ。
シイナ:
 …………。
ソータ:
 ……けど、去年怪我しちゃって、
 レギュラー外されて……。
 勿論大会も出れなくて、
 今は休部してんだけど、
 もう戻る場所なんかなさそうでさ……。
シイナ:
 …………。
ソータ:
 部活は辞めざるをえないかなって、
 やっと踏ん切りついたんだけど……。
シイナ:
 …………。
ソータ:
 そしたら、
 学校も辞めなきゃいけないかもしんなくて……。
シイナ:
 っ!?

シイナ(N):
 スポーツ推薦は、
 文武両道を掲げるこの高校が、
 近隣の中学で目覚ましい活躍を残した生徒を
 科目検査無しに優先的に入学させる制度だ。
 しかし条件がいくつかある。
 一つは言わずもがなだが、
 推薦制度を受けた部活動への加入。
 二つ目に、
 その部活動を三年間続ける事。
 しかしながら、
 怪我等の事由により
 やむ無く部活動を
 辞めなくてはならなかった場合――
 殆どの生徒が、
 自主的に学校を辞する事を
 選んでいるらしい。
 でも、ソータの場合、もう三年生。
 受験生の立場だし、
 部活だってあと数ヶ月で引退の筈。
 情状酌量の余地はあるはずだ。
 ソータが
 卒業まで学校に残りたいと言えば、
 例え退部したとしても―――。

ソータ:
 ……ほらっ、
 俺今結構な問題児だからさっ。
 ははっ……条件出されたんだよ。
 学校に残りたいなら成績あげろって……。
シイナ:
 …………。
ソータ:
 今後の成績、
 学年順位二桁をキープ出来たら、
 学校に残ってもいいって……。
シイナ:
 それで、ずっとボーッとしてたの?

シイナ(N):
 スポーツ推薦の枠から外れた生徒が、
 退学や転校の道を選ぶ一番の理由は、
 学校の授業についていけないからだ。
 進学校である我が校で、
 運動の功績のみで入学した生徒が
 勉学についていくのは難しい。
 でも、
 全教科90点以上を取れというなら
 酷な話だが、
 学年順位二桁なら無理難題でもない。
 ソータの成績が現時点でどんなもんかは
 知らないが……。

シイナ:
 そんなに悩まなくても……
 そこまで難しい話じゃないじゃん?
ソータ:
 …………。
シイナ:
 …………。
ソータ:
 …………。
シイナ:
 ……え?そんな絶望的?
ソータ:
 …………はい。

シイナ(N):
 うちの学校の一学年の人数は、
 大体150人くらい。
 二桁以内という事は、
 半分よりも下で済むわけで……。

シイナ:
 今……何位?
ソータ:
 …………132位。
シイナ:
 (う……微妙。
  確かに絶望的かもしれない。)

ソータ、シイナの両手をばっと握る。

シイナ:
 なっ!?なに?
ソータ:
 シイナ!

二人、見つめ合う。

ソータ:
 頼むっ!
 俺に勉強教えてくれっ!
シイナ:
 無理!
ソータ:
 なんで!?
 俺よりは成績いいでしょ!?
シイナ:
 それは……そうだけど……。
 教えたことなんてないもん!
 無理!
ソータ:
 頼む!頼むよっ!!
シイナ:
 だからっ……。
ソータ:
 俺……まだ此所にいたいんだ!
シイナ:
 (此所って……屋上の事??)
ソータ:
 俺、シイナと卒業したいんだよ!
 一緒にっ!!
シイナ:
 …………わかった。

シイナ(N):

 それは、たった一度の邂逅の筈だった。

 それは、偶然起こった

 数分の共有の筈だった。

 それは、無意味な

 戯れ言の応酬の筈だった。

 なのに、

 いつの間にか奥の方に染み込んで……。

 なのに、

 いつの間にか変わっていって……。

 なのに、

 いつの間にか大切に……。

 私達は、前に進んでいるのだろうか?



展望


<舞台>旧校舎の屋上 6月

シイナ(N):
 梅雨は、
 季節に見合う程に、
 連日雨を地上へと溢した。
 いつもなら、
 屋上に行けない鬱々とした日々を
 過ごしていただろう私は、
 今回に限っては忙しく動いていた。
 連日図書室で過ごし、
 ソータに勉強を教えた。
 そして、
 今日は中間試験の結果発表の日だった。
 先週一週間、
 試験の答案が返され、
 同時に解答が配られた。
 一緒になって勉強してきたせいか、
 私も今回はいつもより良い点数を取れた。
 まぁ、順位はいつもと変わらないが……。

シイナ:
 あー、
 やっぱり結構汚れちゃってるな……。

シイナ(N):
 廊下に貼り出された学年順位を確認し、
 私はそのままの足で屋上へとやって来た。
 老朽化した屋上は、
 梅雨の洗礼を受けて、
 所々水溜まりをつくっている。
 ビニールシートをかけてある
 デッキチェアやラックも、
 隙間から入り込んだ
 ねっとりとした砂埃に汚れていた。
 入口の方を振り返るが、
 扉が開く気配はない。
 何やってんだか……アイツは。
 しょうがない、やるか。
 持っていた雑巾を硬く握り締める。
 手始めに、
 ビニールシートを取り払い、
 バサバサと払った。
 しかし、こびりついた泥は落ちない。
 ましてや、
 一人では大きなシートを
 上手くはためかせる事も出来なかった。
 仕方無く、汚れた面を内側にし畳んだ。
 雨避けのカバーは後回しにし、
 椅子やラックを雑巾で拭っていく。
 カバー程ではないが、
 こちらも水気を帯びた砂が付着している。
 ぱっと見は綺麗に見える箇所も、
 拭くと雑巾は黒く汚れた。
 結局私は、
 掃除を終える迄に
 何度か校内の水場まで
 行ったり来たりしなくてはならなかった。
 なんとか掃除を終え、
 私はいつもの位置に椅子を設置した。
 学校鞄とは別に持ってきた袋から、
 数日前に持って帰って洗濯してきた
 フリース生地の布を取り出し、敷く。
 彼は、
 持ってきた物を
 掃除こそしてくれるものの、
 どこか抜けているので、
 今まで洗濯した事は無かった。
 しかし、
 敷物として使っているのだから、
 これが汚れていたら意味が無いだろうと、
 勝手に持って帰って洗う事にした。
 新品同様とはいかないまでも、
 きちんと掃除をした椅子とラックは、
 随分綺麗になった。
 しかし、
 私自身は汗だくに近い状態だった。
 この時期特有の
 温いじっとりした空気のせいもあって、
 ブラウスが肌に張り付く。
 雨が降れば、
 肌寒い事もあったので、
 未だ長袖を着用しているのだが、
 そろそろ衣替えしてもいいかもしれない。

シイナ:
 はぁぁ……。

扉が勢いよく開く。

ソータ:
 シイナっ!
シイナ:
 タイミング悪す……っ!?

ソータ、シイナを抱きしめる。

ソータ:
 マジで感謝してるっ!
 ホント、奇跡だよっ!
 ありがとうっ、シイナ!
 ホントっ!マジで!
シイナ:
 だぁ~っ!わかった!
 わかったから!放せぇい!

シイナ、ソータを引き剥がす。

シイナ:
 苦しいってば!
 …………。
ソータ:
 …………。
シイナ:
 …………。
ソータ:
 ……ぷっ!
シイナ:
 なんで笑う?
ソータ:
 だって、反応薄っすいんだもん。
シイナ:
 だって、結果知ってるし。
ソータ:
 もっと喜んでくれるもんかと思った。
シイナ:
 掃除が終わる前なら、
 喜んでたかもしんない。
ソータ:
 え?
ソータ:
 ……あ。
 掃除してくれたんだ……。

ソータ、ガバッと勢いよく頭をさげる。

ソータ:
 いやぁ、シイナには頭あがんないっス!
シイナ:
 はいはい。

シイナ、ソータ、各々椅子に座る。

シイナ:
 それで?どうだったの?
ソータ:
 どうだったって?

ソータ、当たり前のようにイチゴオレをシイナにわたす。

シイナ:
 行ってきたんでしょ?先生の所?
ソータ:
 ん?あぁ!
 行ってきた行ってきた!
 アイツすっげぇ苦い顔してたよ。
シイナ:
 ふーん。
 でも、
 条件が撤回されたわけじゃないんでしょ?
ソータ:
 うん。
 このままキープ出来なきゃ意味ないとか
 嫌味くせぇこと言ってた。
シイナ:
 へぇ。
 60人抜きしたんだから余裕でしょ?
ソータ:
 64人抜きね。
シイナ:
 ソータは、
 今回見事に
 学年成績68位に入る事に成功した。
 それは、
 本人も言っていたが
 奇跡に近いジャンプアップだった。
 勉強を見ていて思ったのだが、
 ソータは文系科目が
 壊滅的に出来なかった。
 特に英語は、
 中学生からやり直す事を
 お勧めしたいくらいの出来だった。
 だからと言って、
 他の教科も満遍なく悪くて、
 多少理解が及んでいる数学に関しても、
 平均点に到達するかくらいのものだった。
 だから、
 今回の結果は
 ソータの執念と努力の結果だと言えた。
 大袈裟なこの喜び様も解らなくはない。
 実際、私もソータの名前を
 貼り出された掲示板から見つけたその時、
 思わずガッツポーズしたくなったくらい
 なのだから。

シイナ:
 まぁ、
 とにかく一山越えたわけだし、
 良かったじゃない。
 後は継続して復習を続けていけば
 いいんだからさ。
ソータ:
 うん……まぁ、そだね。
シイナ:
 (お疲れ様、颯大くん。)
ソータ:
 南さんにも礼言わないとなー。
シイナ:
 そうだね。

シイナ(N):
 試験までの間、
 体育祭の日以来、
 私達は図書室で勉強するようになった。
 それまでは、
 空き教室やこの屋上で
 勉強していたのだが、
 やはり腰を据えて出来るほうが良かった。
 結果自然と足は
 図書室へと向かうようになった。
 そして、
 体育祭時に面識が出来た事で、
 司書の南さんも
 声をかけてくれるようになった。
 南さんは、
 私があまり得意ではない
 現代文や古典に秀でていた。
 それに口下手な私よりも
 解りやすく上手に教えていた。
 ソータは相変わらず、
 誰に対しても
 にこにこ尻尾を振るもんだから、
 試験直前頃には、
 すっかり二人は仲良しになっていた。
 同時に半ば巻き込まれるようにして、
 私も以前より彼女と話すようになった。

ソータ:
 ねぇ、後でお礼行くからさ、
 シイナも来てよ?
シイナ:
 嫌。
ソータ:
 なんでよ!?
シイナ:
 私は別にお礼言う必要ないもん。
ソータ:
 さては、自分にはお礼はないのか、
 って不貞腐れてる?
シイナ:
 はぁぁ?
ソータ:
 大丈夫だって、
 もちろんシイナ様にも
 お礼するつもりだからさ。
シイナ:
 いや、まずは前言を撤回しろ。
ソータ:
 シイナは心配性だなぁ~、
 俺がそんな恩知らずだと思ったわけぇ?
シイナ:
 おい、話を聞け。
ソータ:
 まっ、
 半分は俺自身のご褒美ってのも
 あるんだけどねぇ。
シイナ:
 だからっ!

ソータ、シイナの眼前に紙片を突き出す。

シイナ:
 っ!?……??
ソータ:
 遊園地、一緒に行こう!
シイナ:
 …………。
ソータ:
 ほらっ、直ぐにまた忙しくなるだろうし
 ……思い出作りに、さ。
シイナ:
 ……いいよ。

ソータ、破顔する。

シイナ:
 (またイチゴオレだと思ったのに……。)
ソータ:
 ねぇ、シイナ?
 お礼ついでに、お願い聞いてくんない?

シイナ(N):

 その日

 私の携帯の

 二桁に満たない電話帳に

 名前が一つ増えた



夢路


シイナ(N):

 どこからが夢?

 いつからが夢?

 どちらが夢?

 何が夢?

 私達の夢は

 きっとここから・・・・・・

<舞台>旧校舎の屋上 9月

シイナ(N):
 季節の移り変わりは、
 もの凄く早いものだと思っていた。
 ぼーっと突っ立っている間に、
 春も夏も秋も冬も、
 足早に過ぎ去っていく。
 人も木々もとっとと衣替えを済まして、
 後はなんでもない風を装って、
 日々を乗り越えていくだけだと
 思っていた。
 でも、実際はそうではないらしい。
 夏休みが終わったからと言って、
 直ぐに風の色が変わるわけでは
 ないらしい。
 今更、十八年目にして、
 その事実を知った。

シイナ:
 遅くなった。
ソータ:
 んー、おはよ。
シイナ:
 (勉強するなら、
  机になるものを用意すればいいのに。)

シイナ(N):
 お昼前、
 二限目が始まったばかりの時刻だから、
 その挨拶は強ち間違いではない。
 だが、
 私の言った言葉の返答としては、
 いまいちズレている気がする。
 きっと、集中しているのだろう。
 指先で無意味に何度もペンを回すのは、
 集中している時のソータの癖だ。
 私は邪魔にならないよう
 自分の席へと着いた。
 チラリと見えた参考書には
 英字が並んでいた。

シイナ:
 (英語の問題を考えこんでも、
  答えは出ないだろうに。)

シイナ(N):
 英語は今のソータの課題だ。
 元々弱いという事もあるが、
 受験を視野にいれると
 英語の強化が必須だった。
 だが、
 英語のライティングの問題は
 殆ど暗記物に近い。
 解らない時は、
 考えたって出てくるものではない。
 辞書等でとっとと調べて
 再インストールするほうが効率的だ。
 でも、
 私は変に声をかけたりしなかった。
 出来れば、
 ソータがそのまま
 顔を上げなければいいと思った。
 私達は、
 余程の場合以外待ち合わせをせず、
 自然と屋上に集まるのが殆どだった。
 私は今まで通り、
 一日の半分くらいは
 この屋上で過ごしている。
 ソータは、
 以前より授業に
 参加するようになったが、
 数時間づつ飛び飛びで、
 毎日何時間かは顔を出している。
 だから、約束等無用で、
 毎日当たり前のように顔を合わせている。
 でも、今日に限っては、
 この時間に屋上に来るようにと、
 昨夜連絡が来たのだ。

ソータ:
 ほっぺ、どうしたの?

シイナ(N):
 思わず両手で左頬を覆う。
 私の左頬は、
 よく見ないと判らない程度だが、
 赤く腫れていた。
 髪をおろしているから、
 俯いていれば誰も気づかないだろう。
 だが、やはり外を歩いていると、
 人の目が頬へと向いている
 気がしてしまう。

シイナ:
 …………殴られた。
ソータ:
 ……俺のせい?
シイナ:
 自意識過剰。
ソータ:
 違うの?

シイナ(N):
 ペンを握ったままのソータの右手。
 強く握り締められたシャーペンは、
 小刻みに震えているように見えた。
 まだ暑いのに長袖のワイシャツ。
 今は無防備に腕捲りされている。
 結果、露になっている醜い痣や傷。
 ぼんやりとした虚ろな眼。
 唇は噛み締められ、真一文字。
 らしくない。

シイナ:
 はぁぁ……
 身内にね、
 気にいらない事があると殴る人がいるの。
ソータ:
 …………。
シイナ:
 (ほらっ、
  やっぱりドン引きするじゃんか。)
 お母さんも散々やられてたみたい、
 ソータみたいに痣だらけだった。
ソータ:
 …………。

シイナ(N):
 容赦せず私は話し続ける。
 だって、訊いたのはソータだし。
 自分のせいだなんて勘違いして、
 ヘラヘラ顔を曇らせてるんだから。

シイナ:
 でも、
 お母さんが死んでからは、
 私に白刃の矢がたった。
ソータ:
 …………。

シイナ(N):
 中学に通っている間、
 理由が解らないまま、
 私はよく殴られ続けた。
 父親が出張で家を空けている際は、
 軟禁される事も、
 食事を貰えない事もよくあった。
 父親は、
 勿論私が殴られている事に気付いていた。
 なんせ、強かに杖で打たれ、
 病院に運ばれた事だってあったのだから。
 でも、父親は何も言わなかった。
 仲裁しようとしなかった。
 母親の時も、私の時も。
 殴られるのは、
 私が可愛くないからだと
 ずっと思っていた。
 昔から冷めていたから、
 甘える事も、
 笑う事もろくにしなかったから。
 でも、中学三年の時。
 骨折するまで杖で打たれたあの時。
 私の母の名を
 憎々し気に繰り返しながら
 殴られたその時、
 やっと解った。
 私がお母さんの子供であることが
 あの人は気にいらないんだって。
 私が幾ら省みたって、
 生まれた時点で憎まれているんだって。
 視線を合わせないまま、
 話し続けていた私の、
 腫れた頬に何かが触れた。
 遠いところを見る私の
 視界に割り込むように、
 すぐ脇にソータが立っていた。
 手当てという言葉がある。
 痛む所に、
 掌を当て、
 さすって緩和させるという行為から
 出来た言葉だと聞いた事がある。
 ソータがしたのは正にそういう事だった。
 外気のせいか、
 やけに熱い掌が、
 熱をもって腫れている頬に触れていた。

ソータ:
 痛い?
シイナ:
 二日前の怪我だもん。
 もう痛くない。
ソータ:
 そっか……良かった。

シイナ(N):
 やっと、ソータが笑った。
 当てられた手は、
 頬にくっついたままだった。
 何かが
 胸の奥にぐっと込み上げてきた。

シイナ:
 初めて言い返した。
ソータ:
 うん。
シイナ:
 貴女のしている事は
 虐待ですよ。って……。
ソータ:
 うん。

シイナ(N):
 骨を折って始めて、
 私がされている事が
 躾ではなく虐待なのだと識った。
 でも、
 私は身内を訴える方法なんて
 知らなかった。
 だから、逃げた。
 実家を出て、
 離れた高校へ入学した。

シイナ:
 曲げられなかったから。
ソータ:
 うん。
シイナ:
 だって、
 やっと自分の道を見付けたから。

シイナ(N):
 上手く言葉に出来ない。
 唇が戦慄く。
 私はやっとやりたいことを、
 進路を見出だした。
 ソータにも、
 叔父さんにも、
 父親にも、
 それを伝えた。
 認めてくれなかったのは
 あの人だけだった。
 でも、
 例え誰に何て言われようと
 折れるつもりなんて毛頭ない。
 ソータのお陰だよ。
 そう思っているのに、
 その一言が、
 相も変わらず可愛くない、
 自己否定で他者否定の私には
 言えなかった。
 声が勝手に震えているのに、
 ソータが笑っているから、
 私は泣かなかった。

ソータ:
 俺もさ、
 見付けたんだ行きたい学校。
シイナ:
 ……うん
ソータ:
 有名なトレーナーを
 沢山養成している所で、
 姉妹校への留学も推奨してる所。
シイナ:
 うん。
ソータ:
 今の学力じゃキツイけど、
 絶対受かってみせる。
シイナ:
 うん。
ソータ:
 それをシイナに
 一番に伝えたかったんだ。
シイナ:
 うん。
ソータ:
 だって、シイナのお陰だから。


解放


<舞台>旧校舎の屋上 10月

シイナ(N):
 学校でいじめが浮き彫りになった。
 その日を境に、
 ソータの傷はどんどんと癒えていった。
 その回復力は目を見張るもので、
 まるで心が浮上していくのに
 比例するように、
 傷は瘡蓋をつくり、
 痣は薄まっていった。

シイナ:
 これも、もういらなくなるかな……。

シイナ(N):
 いつもの屋上で、私は呟いた。
 簡易救急箱の
 消毒液がきれかけていたので、
 新しい物を追加した所だった。
 屋上には、
 いつになく騒がしい音が響いてきている。
 楽しそうに笑う声、
 声を張上げ人を呼ぶ声、
 流行りの音楽……。
 いじめ、
 一人の教師の退職、
 そんな事は些事だとばかりに、
 文化祭が開催されている。
 校内外の人間が入り交じり、
 学校中に人が溢れかえっている。
 結局、
 教育委員会はこの学校にいじめはない、
 あったとしても
 今は終息していると判断したようだ。
 進学校である我が校が
 余計な汚名を被らぬよう、
 早々に対処した結果だ。
 しかし、当事者からすれば、
 それは少々的外れなものだった。
 だが、学校側からすれば、
 社会的に対処する事が
 何より重視されたという事なのだろう。
 要するに、揉み消し。
 救急箱を仕舞い、
 久しぶりに屋上の鉄柵へと近付いた。
 眼下の裏庭にも、今日は人の姿がある。
 屋台で購入したであろう
 食べ物をつつき合う学生カップルや、
 ジュース片手に休息する
 近隣の中学生グループ。
 彼等は、
 つい最近までその場所で
 血が吐かれていた事を知らない。
 知らないから、笑っていられる。
 ソータは、
 いじめの件で
 呼び出されたりする事は無かった。
 事情を聞かれたり、
 傷を見られたりなんていう事も無かった。
 あまりにも沙汰がないので、
 今回の事は
 ソータに関係の無い事なのかもしれない
 と思った程だ。
 いじめ問題に振り回されたのは、
 寧ろ教師達のほうだ。
 叔父さんも、
 保健室のコーヒーメーカーを
 隠さなくてはならなかった
 とぼやいていた。
 それでも、
 確実にいじめの騒動は、
 ソータの生活に変化を与えた。
 裏庭に呼び出される事もなくなって、
 クラスメイトにも
 受け入れられたようだった。

シイナ:
 もう、来なくなるのかな……。

シイナ(N):
 屋上の端に置かれた
 カバーの掛かった椅子を見る。
 いつも二脚引っ張り出して、
 綺麗に掃除して使用しているが、
 最近席が埋まる事は少ない。
 クラスに打ち解けたソータは、
 文化祭の準備もあって、
 屋上に顔を出さなくなった。
 会っていないわけではない。
 以前同様
 勉強をみてあげたりはしている。
 それに、毎日のように
 メッセージが携帯を鳴らす。
 勉強の話や下らない話、
 ちょっとした挨拶まで、
 ことあるごとに。
 でも、
 以前のようなとりとめのない会話、
 無意味な言葉遊びは、
 もう存在しない。
 昨年の文化祭時、
 この場所で夜空を見上げた事を思い出す。

シイナ:
 連絡、しておこうかな……。

シイナ(N):
 毒されついでとばかりに、
 制服のポケットから携帯を取り出す。
 以前は鞄に入れたままだった携帯も、
 震える回数が増えたので、
 携帯するようになった。
 文化祭が行われる数日前の事。
 私は珍しく担任教師に呼び出された。
 志望校の指定校推薦に
 選ばれたという話だった。
 出欠席は別として、
 首位の成績を
 三年間キープした事が
 決め手だったようだ。
 私はまだその事を
 ソータに伝えていなかった。
 楽しそうに、
 文化祭で
 「うどん屋をやることになった」
 「文化祭の実行委員になった」
 と話す彼に、言い出しにくかった。
 『先日、指定校推薦がもらえました。』
 味気の無い、何故か敬語な短文を送る。
 彼は、このメールを見たら、
 どういう反応を示すだろうか。
 「早く言え」と怒るだろうか。
 「へぇ」と受け流すだろうか。
 「良かった」と喜ぶだろうか。
 返信は、
 まるですぐ近くにいるかのように、
 間髪入れずに届いた。
 『いまどこ?』
 たったそれだけの、
 送ったものより簡素な返事。
 噛み合っていないやり取りに、
 少し悩んだものの、
 「屋上」と返した。
 交わす文字数が減っていく。

ソータ、勢いよく扉を開く。

ソータ:
 ……あれ?
 シイナぁ?

シイナ(N):
 風にたなびくように、彼の背が翻った。
 見開かれていた瞳はすぐに細められ、
 笑みを刻んだ。
 気が付けば、
 言葉が飛び出す前に、
 手を掴まれていた。
 身体が前へと引かれる。
 三秒後には、
 開いた扉を潜り抜けていた。

シイナ:
 ちょっ……!?何っ!?
ソータ:
 行くよ!
シイナ:
 どこにっ!?
ソータ:
 文化祭に決まってるっしょ!
シイナ:
 なんでっ!?
ソータ:
 お祝いするから!

シイナ(N):
 それだけ言って、
 ソータはまた前を向いて、
 走る事に集中してしまう。
 私は繋がった掌だけを頼りに、
 なんとかそれに付いていく。
 一気に旧校舎の階段を
 四階分駆け降りる。
 中庭を横切る渡り廊下へと向かう。
 このまま本校舎の中へ入れば、
 直ぐに人が溢れかえる。
 呼び子をする生徒、
 祭りを楽しむ客……。
 大衆の中に上手く埋没したとしても、
 通りすがる何人かは、
 私達を目にするだろう。
 賑わう人の中で、
 手を繋いで過ごす私達を……。

シイナ(N):

 でも、きっとこのままなんだろうな……。

 ソータは、人目なんて気にしないのだろう。

 ホント、敵わないなぁ。


離別


シイナ(N):

 何て云うのが良い?

 何て云うのが正しい?

 「さようなら」

 「おつかれ様」

 「ありがとう」

 それとも、

 言葉なんて必要ない?

 声をかける必要ない?

<舞台>旧校舎の屋上 12月

シイナ:
 ねぇ、ソータ?
ソータ:
 ん?
シイナ:
 私さ……
 バイトしよっかなって思ってるんだ。
ソータ:
 へぇ、いいじゃん!
 どこで?
シイナ:
 決めてない。
ソータ:
 まだ、検討の段階ってこと?
シイナ:
 そ。
ソータ:
 いいんじゃない?
 シイナはもう少し
 人慣れしたほうがいいと思う。
シイナ:
 そう、そこが問題……あっ、紐いる?
ソータ:
 おっ!サンキュー!
 ……でもさっ、
 やろうと思い立ったんだから偉いよ。
シイナ:
 うん……大学入ったら、
 せめて生活費くらいは出したいなって。
ソータ:
 そっか……がんばれ!
 応援する。
シイナ:
 ありがと……
 あー、結構錆び付いてるね?
ソータ:
 そだねー、
 掃除してたつもりなんだけどな……。
シイナ:
 まぁ、屋外に置いてたのは変わりないし。
ソータ:
 まぁね……
 悪ぃっ、そっち押さえて?
シイナ:
 ん、了解。
ソータ:
 よっと……
 あー、やっぱ羨ましいな。
シイナ:
 何が?
ソータ:
 バイト。
 俺もやろっかなー、一緒に。
シイナ:
 はぁ?何言ってんの?
 受験までもう一ヶ月もない人が。
ソータ:
 そーだけどさー、
 今更やっても変わんなくね?
シイナ:
 それは、やらないヤツの言い訳。
ソータ:
 ハイ、仰有る通りです……
 あ、コレどーする?
シイナ:
 捨てようよ。
ソータ:
 でも、
 シイナ洗濯してくれてたでしょ?
シイナ:
 そーだけど……
 使い道あんの?
ソータ:
 んー、まぁ思い出に?
シイナ:
 いらない、そんなもん。
 燃やせ。
ソータ:
 はーい……
 けどさ、いいな、
 シイナはとっとと合格しちゃってさ。
シイナ:
 ソータだって受かってるじゃん?
ソータ:
 滑り止めね。
シイナ:
 何言ってんの?
 半年前はあそこだって
 無理だったでしょ?
ソータ:
 ……そーだけどさぁ。
シイナ:
 ねぇ?
 それ一気に降ろすつもり?
ソータ:
 いんや、一回じゃ無理でしょ?
シイナ:
 じゃあ、
 先椅子だけ持ってっちゃおうよ?
ソータ:
 そだね、シイナ一個持てる?
シイナ:
 括ってあるから、
 大丈夫だと思う。
ソータ:
 キツかったら、途中で言って?
シイナ:
 うん。

シイナ(N):
 十二月に入り、
 私は志望校に合格した。
 ソータも滑り止めではあったが、
 一校私立に合格していた。
 三年生は早めに期末試験を行い、
 既に内申も出ている。
 私のように
 受験を早々と終わらせた者は
 まだ少なく、
 皆目の色を変えて躍起になっていた。
 冬休みまではまだ少しあるが、
 授業はもう殆ど無い。
 カリキュラムは
 組まれているものの、
 登校義務は無い。
 三学期は尚の事、
 クラスメイトと顔を合わすことすら
 無くなるかもしれない。
 だから、
 私達がこうして
 屋上で時間を費やす必要もないのだ。
 そこで私達は、
 屋上に持ち込んだ物を
 時間がある時に
 片付けてしまう事にした。
 タイミング良く、
 文化祭時に使っていた
 古くなった看板や暗幕等を
 処分するという話を聞き付け、
 丁度良いと言う事になった。
 だから、これから先、
 私達が此処に来る事は
 もう無いのかもしれない。

ソータ:
 シイナ、足元気を付けてな。
シイナ:
 解ってる。
 っつーか声デカイ、
 見付かったら怒られるんだから。
ソータ:
 ウィーッス。
シイナ:
 なにその適当な反応?
 嫌だよ、今更停学とか。
ソータ:
 大丈夫だって、
 文化祭で使用しましたーって言えば。
シイナ:
 捨てるのは
 倉庫の中の物だけなんだから、
 嘘だってバレバレでしょうが……。
ソータ:
 大丈夫大丈夫、
 なんとかなるって。
 それに、
 停学なんて大した事無いから。
シイナ:
 大した事でしょっ!?
ソータ:
 いんや、
 うちの学校の名に傷付くから、
 実際は無かったことになるよ。
シイナ:
 ナニソレ?何情報よ?
ソータ:
 情報ってゆーか、
 ……経験談?
シイナ:
 はぁ?初耳なんですけど?
ソータ:
 うん、言ってないし。
シイナ:
 ……あっそ。
 ……その能天気さは、
 ちょっと尊敬するわ。
ソータ:
 うん、していいよ。
シイナ:
 はいはい……
 あっ、そっち紐取れそうだよ?
ソータ:
 ん?あ、マジだ。
シイナ:
 直す?
ソータ:
 いいよ、抱えて持ってく。
シイナ:
 途中で落ちないでよ?
ソータ:
 はーい、
 あれは痛いから気をつけます。
シイナ:
 はぁ?まさかそれも……?
ソータ:
 そ、経験談。
シイナ:
 いつ?
ソータ:
 んー、丁度一年前くらい?
 あ、でもここの階段じゃないよ。
シイナ:
 それも初耳だし。
ソータ:
 うん、言ってない。
シイナ:
 どこで?
ソータ:
 駅の階段。
シイナ:
 怪我は?
ソータ:
 骨が折れました。
シイナ:
 そんなの覚えないよ?
ソータ:
 そりゃそうだよ、
 会ってないもん。
 俺学校休んだし。
シイナ:
 ずっとソータが来なかった時?
 んー、あったようななかったような……
 にしても、濃い高校生活してるね。
ソータ:
 まぁね。
シイナ:
 褒めてないよ?
ソータ:
 知ってる。

シイナ(N):
 私達の過ごした屋上は、
 あっという間に、
 古びた、
 今にも朽ちて崩れ落ちそうな、
 元の旧校舎の屋上に戻った。
 風化し凹んだコンクリート。
 錆びて所々崩れた柵。
 隅に蟠った落葉。
 夕陽がビルの隙間に沈んでいく。
 空は、群青と橙が混じりあい、
 昼と夜の境目を演出している。
 最終下校時刻を報せる鐘が、
 遠くのほうから聞こえた。

シイナ:
 そろそろ行こ?
 ファミレス寄ってくんでしょ?
ソータ:
 うん。
 あっ、ついでに教えて欲しい事あるんだ。
シイナ:
 何?また英語?
ソータ:
 オフコース!
シイナ:
 発音悪い。
ソータ:
 スンマセン。
 ……あ、ちょっと待って!
シイナ:
 何?忘れ物?
ソータ:
 うん、ちょっとね。

シイナ(N):
 何をするのかと思えば、
 ソータは頭を下げた。
 屋上に向かって、深々と―――。
 五秒経っても頭をあげない。
 ソータが、
 無生物である屋上に向かって、
 何を云おうとしているのか、
 何を思っているのか、
 さっぱり検討がつかなかった。
 でも……
 ソータの隣に並んで、
 同じように深く、
 私も頭を下げた。



飛翔


<舞台>旧校舎の屋上 3月

シイナ(N):
 今年は例年より早く、
 春がやってきた。
 南から大急ぎで暖かな風が吹いてきて、
 三月の始めだというのに、
 あっという間に花をほころばせた。
 桜が嘘のように花開いた。
 まるで、その日を祝うかのように……

ソータ:
 やっぱりここにいた。
シイナ:
 卒業パーティー、
 行くんじゃなかったの?
ソータ:
 行くよ、後で。
シイナ:
 そ……桜咲いて良かったね。
ソータ:
 うん。

シイナ(N):
 桜が綺麗だと、
 素直に思ったのは
 初めてな気がする。
 儚い花なのに、
 直ぐに散ってしまうのに、
 人々が開花を待ち望む理由が
 解った気がした。

ソータ:
 はい。
 この間は飲めなかったからさ、
 買ってきた。
シイナ:
 ありがとう。
 (やっぱり、イチゴオレは甘い)
ソータ:
 卒業おめでとう。
シイナ:
 そっちも、おめでとう。
 その柵、寄りかかると
 制服、汚れるよ?
ソータ:
 いいよ、もう着ないし。
 っつーか、
 もう着れないが正しいかな?
シイナ:
 なんで?
ソータ:
 ボタンがね……
 無くなってしまったのですよ。
 ご丁寧にワイシャツのボタンまで。
シイナ:
 はぁ……
 人気者ですね。
ソータ:
 まぁね。

シイナ(N):
 制服の第二ボタン云々なんて、
 未だに信じている輩がいるとは
 知らなかった。
 鼻高々で、
 ソータは胸を張っていた。
 羨ましいとは思わないが、
 なんとなく燗に触る。
 羽織る事しか
 出来なくなってしまった
 ソータのワイシャツ。
 下に着ているTシャツから覗く素肌には、
 もうグロい痣は見当たらなかった。

シイナ:
 ……良かったね。
ソータ:
 うん。
 ……だからこれはお礼。

シイナ(N):
 白銀色のエンブレムが刻まれた、
 足つきボタン。
 掌の真ん中で、
 それはポツンと転がっていた。
 小さなボタンを握り閉め、
 正拳突きを繰り出すように、
 直ぐ様それを突っ返す。
 ヒュンっと音をたてて繰り出された
 その一撃を、
 ソータはヒラリとかわした。

シイナ:
 いらない。
ソータ:
 いいじゃん、貰ってよ。
シイナ:
 だからっ、いらないってば!
ソータ:
 返品はききません。
シイナ:
 なんでよ!?
 欲しい娘にあげればいいでしょ!
ソータ:
 俺は、あげたい娘に
 あげたんですっ!
シイナ:
 意味解んない事言うな!
 そもそも、
 第二ボタン云々の話は、
 学ランが基本でっ……
ソータ:
 [かぶせて]知ってるよ。
 心臓に一番近いところだから
 第二ボタンでしょ?

シイナ(N):
 避けるのを止めたソータは、
 私の突きだした右手を
 左手で受け止める。
 ソータの左手が私の右腕を掴み、
 右手が左腕を抑え込む。

ソータ:
 そのくらい知ってるよ。
 …………だから、
 それは第一ボタン、
 ブレザーで心臓に一番近いヤツ。
 [囁くように]
 ……シイナが持ってて。
シイナ:
 ……わかった。
 そ、そのっ……
 私もっ、
 私もソータになんかあげたいっ!
 いつも貰ってばかりで、
 私だってソータにあげたい……
ソータ:
 [かぶせて]もういいよ。
 [にっこりと笑み]
 もう貰ってる。

シイナ(N):
 そう言って、
 胸元のポケットから
 何かを引っ張り出す。
 私の胸元にあるのと同じ、
 白い花を模したコサージュが
 僅かに揺れた。
 ソータが胸元から取り出したそれは、
 メモ紙だった。
 そこには、
 可愛げのない文字が
 たった五文字綴られていた。
 紛れもなく、私の文字だった。

ソータ:
 これがシイナが俺に初めて云った言葉。
シイナ:
 なんでそんなの、
 とっといてあるのよ……。
ソータ:
 なんだかんだ、
 結構これが支えてくれた……。

シイナ(N):
 はにかむように小さく呟いて、
 ソータはメモを小さく畳んで、
 元あった胸ポケットに戻した。
 だから私も、
 ソータから貰ったボタンを、
 同じように胸ポケットに仕舞った。
 校庭の方から、
 数人が声を合わせて、
 大きな声で礼を言う声が響いてきた。
 そろそろ、
 名残を惜しむ時間は
 お開きになるようだった。

ソータ:
 シイナっ!

シイナ(N):
 名を呼ばれ、顔を上げると、
 ソータは、右手を掲げていた。
 まるで、
 さよならする時の身振りのように、
 肩の高さで、
 弛く手を挙げていた。
 私には、
 それが別れの合図ではない事が
 直ぐに解った。
 言葉にされなくても、
 理解出来た。
 青空の下。
 勢いをつけて一瞬だけ合わさった
 二人の掌が、
 パァンッという軽快な音を響かせた。

シイナ(N):
 その日、

 私達は無事高校を卒業した。

 その後。

 ソータは、念願だった大学に。

 私は、地元の大学へと進んだ。

 頻繁だった

 メールのやり取りは、

 日をおう事に減り、

 卒業から七年の間、

 私がソータと顔を合わす事は

 無かった。

 卒業後のソータが

 どうしているのか、

 私はもう知らない。

 あの旧校舎の屋上が

 どうなっているのか、

 私はもう知らない。

 けれど、

 一つだけ解る事がある。

 次に会った時も、

 きっとソータは、

 笑っているに違いない。



空が青いから


シイナ(N):

 世界は決して美しくはない。

 人の心は弱くて、

 いつ揺らいでしまうか分からない。

 笑い続ける事なんて

 容易ではなくて、

 上手く行き続ける事なんてない。

 だから、世界は美しくない。

 けれど、それは見方の問題で、

 心の問題なんだ。

 心が弾めば、

 空には青空が広がって、

 心が沈めば、

 雲に覆われる。

 気分一つで、

 空は晴天の青にも、

 夕暮れの橙にも、

 曇天の薄墨にも染まる。

 だから、空は青いのだろう。

 青く見えるのだろう。

 もしかすると―――

 空が青いから、

 人は前に進めるのかもしれない。

fin

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