ミュージカル憂国のモリアーティOp.5 ―最後の事件― ネタバレ感想

美とは、魔である。

生物は我が身の危険を回避し、必要な獲物を捕らえるために、知覚を発達させた。
身体能力としては脆弱極まりないヒトという生物が地球という星の霊長となったのは、ひとえにその脳の発達がゆえである。
が、その発達した脳がゆえに、本来生存戦略のために用いられてきたはずの認知能力を歓ばせる快楽を、ヒトは識ってしまった。
その究極の在り方を美と呼ぶなら、それは最もヒトの理性を狂わせるものの一つであり、魔と呼ぶにふさわしい。

――或いは、二度とこの耳目で直接味わうことのできない至上の美を愛し、焦がれ、その喪失に涙した我々は、とうに後戻りはできなくなっていたのかもしれない。
いつかは消えゆくからこそ美しい舞台という魔に魅入られて、それを知らなかったことには最早できない。
けれど、後悔しても遅いなら、この鮮烈な記憶が残る限り狂い続けることしかできないのだろう――


ミュージカル憂国のモリアーティOp.5 ―最後の事件―
誰一人欠けることなく、全ての公演を完走できたこと、本当におめでとうございます。
※最初に芝居がかったお気持ち表明文をつけたことを後悔しつつあるけれども、ここからは口語体の普段のテンションで行きます。

思えば、私がモリミュに出会ったのは、2020年冬のジャンフェスで無料配信されていたOp.1。
何の気なしに、話題になっていたから憂モリのアニメを見て、ノアティック号で出てきたシャーロックに心惹かれ、原作を全部大人買いし、そして次が気になってジャンプSQ本誌というものを初めて読んだら53話のお手紙回。
夜中に1時間以上滂沱の涙を流した衝撃のままに見たモリミュは、配信越しでも、ものすごかった。
劇場全体がエンダースの犯罪の目撃者となったノアティック号。
至高の誘惑の三重唱。
他にも好きなところは数え切れないほどあるけれど、
「モリミュでミルヴァートン邸での三つ巴の対決を、そしてこの手紙を見たい」、
そして、原作で橋落ちを読んでからは、「モリミュでの橋落ちが見たい」。
きっと、制作陣の皆様と私たちファンが、「ずっと同じ気持ちだった」のだと思います。

この出会いから足掛け3年近くが経過しましたが、これほどまでに夢中になった作品は、私の人生で他にないと思います。
そんな作品に出会えたことを、そして、モリミュが生まれたのと同じ時代を生きられたことを、「最後の事件」の目撃者となれたことを、今はただ心から感謝しています。

****

という思い出話をしたうえで、Op.5の感想に入ります。そういう回想をしたくなる公演だったのです。
感想というか、Op.5を見て思いついてしまった特大妄想フィルターを書き綴ったものですので「この人にはこう見えたんだな」程度の話半分に聞いてください。客観性はないです。
事実誤認には極力気を付けますが、あっても生温く見守るか、Op.5ラストのシャロ→ウィ「生きよう」くらいの優しさでの指摘だと助かります笑
あと、自分の過去ツイートからの借用&解釈変更に伴う矛盾、どこか他の方の感想のn番煎じになっている可能性がありますが許してください。
他の方の意見を見て思いついたことは極力そうと明記します。そうしてなかったら、よっぽど致命的に影響力強い意見だったか、元々こいつはそう思ってたんだなと捉えてください笑

あと、私が観劇したのは大阪全部+東京の土日全部(計14公演)です。各回の記憶を混同している危険がありますことをご了承ください。
Op.4の反省を生かし、どうせ時間空いてりゃ当日券とりにいこうとするんだから、予定が空いているところは片っ端からチケットとっておけ作戦を敢行したのですよ苦笑
結果、「一回くらいは立ち見でストレスフリーの視界を味わっておいてもよかったかもしれない」と思っているから業が深いですね。

【総論】
憂国のモリアーティの全てを愛した人たちによる、モリミュをこれまで愛してきた人たちに向けて捧げられた、全ての感情の行き着く先に至るまでの物語であり、Op.1への回帰だった。
自分にできることを全力でやって、自分にできないことは、誰かに託す。そういう連鎖こそが支え合いであり、「生きる」ということだ。
そんな力強い叫びが聞こえる作品でした。

今回の大きな特徴は、毎回泣けるポイントが違ったことだと思っています。
その日の演技や観客側のコンディションによって、誰に主軸を置いて感情移入するのかが変わる。
それぐらい、全員が主人公たりうる強度で描かれた作品だった。
正直なことを言えば、誰かに感情移入している中で次から次へと様々な登場人物の濃厚な感情を表す歌や演技が繰り出され、観客の情緒が目の前で繰り広げられる光景に追い付かない状況に陥ったことも一再ではない。
初日なんて、ジョンくんがシャロに怒った時点で涙腺崩壊した後、1幕ほとんどずーっと泣きっぱなしでろくに記憶がない始末だったし。観劇中にハンカチだけでは不足だったのは初めてでしたよほんとに。ティッシュ必須だった。
それぐらい、憂モリの登場人物皆の魅力的なキャラクター、複雑かつ重厚なストーリー、全てを詰め込んだ作品だった。1回だけでは消化不良を起こしてもしょうがないというか、どこか1点にだけ集中させてくれない作品だったのも確かだと思います。
けれど、モリミュは、漫画原作を舞台化するにあたり、かなり台詞を最小限まで削っている。俳優さんの身体表現や舞台装置、照明で表現できることはそこに任せて、実際に口にする台詞をどれにするかは、かなり鋭敏に研ぎ澄ませている。
それでもなお、モリミュOp.5は最後の事件という原作2巻分の話を描くのに、3時間の時間を使って、あの場面を選んだ(マイ兄と兄様の追加シーンについては後述)。
そしてそれはいずれも、「なぜシャーロックがウィリアムを救えたのか」を描くために、必要不可欠な場面だった。シャロに寄せられる祈りという名の糸を拠り合わせ、どれぐらい靭い蜘蛛の糸とできるか。その説得力を増すために必要不可欠だった。今はそう思っています。
※ほら、蜘蛛の糸ってめちゃめちゃ強度強いじゃないですか。芥川の作品で描かれる印象と違って笑

【キャラ別感想(場面別感想を含む)】
※人によって濃淡出るのは許してください。みんな大好きです。あとキャラの順番が変な感じですが、喋る内容の流れに沿っているので、主演2名以外は順不同です。

○ウィリアム/鈴木勝吾さん
モリミュの全てを愛してはいるけれど、鈴木勝吾さんのウィリアムに、かなり別格に心惹かれているのはそろそろ隠しようもないわけでして。Op3以来勝吾さんの出演される舞台はほぼほぼ通いましたしw(1個だけ行けなかったんですが)
演技もそうだし、やっぱりあの歌で胸を突き刺されるために、何度でも劇場に通いたくなるのです。

その上で、今回本当に好きだったのが、ウィリアムのナンバーの多彩さでした。特に犯行声明曲が好きすぎて何かおかしくなりそうなのですが、フレッドへの独白も、「地獄へいざ往かん」も、もちろん手紙曲も、最後の曲も。少なくともモリミュの中で、一回の舞台の中でこれほど多彩な姿を見せてくれたことは今までになかったと思います。最初の頃、Op.2でバスカヴィル男爵をめった斬りにしながらあの高音を一ミリもぶれずに歌っている時点で「何なのこの方めっちゃヤバい(褒め言葉)」と思ったわけですが、殺陣しながらの歌をこれほどふんだんに浴びられて最高でした。

それに手紙ですよ。私が一番憂モリで好きなお話であり、今に至るまで一番心に残っている話。
あんなに優しく美しく柔らかく率直な曲で来ると思わなくてね。もうちょっと哀切の方に寄るかと思ったら、明るくてキラキラしていて、だからこそ苦しくなるほど切なかった。
というかさ、1幕の曲はあんなに複雑で早いパッセージの短調系難曲が揃っているのに、ウィリアム、こういう曲歌える人だったのね……って割と真剣に思いましたよええ。
なお、どうでもいい話ですが、私の中でG durは空色の調性なので(一部の割とよく使われる調性に対して調性共感覚があるっぽいです私。働かないのもある)、
シャロのプロファイリング完成曲の草原と空とか、Op.3の扉をあけての空とか、そういうのが幻視できるのも嬉しかったなぁ。余談。
あ、手紙曲の中で一番好きな仕草は、最後に「友達と~♪」と歌いながらシャロに手を差し伸べて、でもその手を恥じるように引っ込めて顔を歪める仕草です。
そこまで曝け出しておいて、結局黒い手紙を渡しておきながら、夢に陶酔できないなんて。

あと、各所で指摘されているエドガー・アラン・ポー「黒猫」をつかった謎かけに変えてきたところですよ、お手紙の文面。
なんとめんどくさかわいい(大好き)。そのときの背景音がOp.3の「巡れ輪舞曲」であり、シャロが手紙を見つけた瞬間がウィ「君には 分かるかな この胸に 揺らめく想いが」なの最高かな(相互さんの指摘を引用)。
Op.3のころは「君には分かるかな、じゃねーんだわwww」と言っていたのが遠い昔ですね。
リアムさんがなぜ「黒猫」を使ったのかは色々解釈あると思いますが、個人的には、「そもそもシャロを探偵とした劇」の脚本を書こうと思った時の元ネタとして、リアムさんの頭の中にエドガ・アラン・ポーの作品の影響があったのではないかという説を推したい。

いうまでもなく、エドガ・アラン・ポーとデュパン3部作は、世界最初の推理小説と言われており、正典シャーロック・ホームズシリーズにも、そのフォーマットの影響が顕著に見受けられる。
だとしたら、そもそもが「シャーロックの活躍を世に広めたい」が執筆動機だったジョン君と異なり、そもそも「探偵」を主人公に仕立て上げるなんて発想、独自の思い付きでなければ、出典元になれるのは、この時代デュパンくらいなものだ。
だから、この時、謎かけを作るときに、エドガ・アラン・ポーの引用をした。
煉瓦の壁の中を示唆するために別の作品からの引用・謎解きにする手段は他にいくらでもあったはずだ。私じゃ思いつかないけど、リアムさんならいくらでも思いつくはずだ(フレッド的感想)。

という前段付きで、黒猫という作品の何かにリアムさんが我が身を擬えたかどうかは分からない。
片目を喪ったというメタファーは、客に対しては否応なくリアムさんのその後を想起させるけど、この手紙を書いた時点で、リアムさんがその未来を予期していたわけはないし。
自分に興味のない(原作67話)人が自己憐憫に浸るとは思えないので、黒猫の憐れな命運に我が身を擬えて悲嘆したとも思いにくいし(客は擬えるけどさ。なんならシャロもそこはちょっと連想したかも)。
でも、黒猫の名が「プルートー」(ローマ神話の冥界の神)であること、2匹目の黒猫がギロチンの模様を浮かび上がらせたことという、黒猫に「死」がまとわりついている様子には、ちょっと我が身を擬えた可能性はあるかもなとも思う。

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で、その大好きなウィリアムに対して今回何を思ったかというと……「君、ほんと酷いね」ということでして。
※本当に好きな推しキャラに対しては、私、割と手厳しいこと言う傾向があるんです許してください。

意外とリアムさん、メンタリティは健全なんですよね。愛するモリ家のみんなに願うことは「どうか美しき 世界で生きて」であり(Op.4 M22 罪深き我は・・・)、
シャーロックにも「どうか君だけは 生きて還ってほしい」(Op.5の橋落ち場面)と、土壇場でも願う。
共に死ねることこそが救いになることがなるなんて発想はない。
もしそんな発想があれば、周りの皆への愛情だけは真実だったリアムさんが、皆に「生きて」と願うはずがない。
だから、残された皆の苦しみに必ずしも想いが至っていない残酷さもある。一緒に死んだ方が救われる人たちがいるってことに、考えが及んでいるようには到底見えない。
それこそフレッドが評した通り、「進んで死に向かっているようにしか見えない」。それが、愛した人たちをどれほど傷つけるか分かっているとは思えない。
特に対モランなんか酷すぎですよ。あれは可哀想すぎる。原作で読んでいた以上にそう思わされました。
でも、あれほど聡明で、人を愛するリアムさんがそこまで酷いことをしてしまったのは、それ相応の理由があるのも嫌というほどわかるから。ただ、温かい風に吹かれて癒されて欲しい。
橋落ちという名のテムズ川への入水に、洗礼じみた罪の清算の要素を、私はずっと見ていました。
「テムズの恵みで炎を消」されたのは、きっとウィリアム自身の中にある、世の中の理不尽への苛烈な「青い炎」(Op.3 ジャック・ジ・オリジン)でもあったと思いたい。

***

Op.4に関しては、序盤と千秋楽付近で「最初の方の公演だけ見た人と最後の方の公演を見た人とでは、感想話しても話噛み合わんやろ」と思うほどに見え方も解釈が変わったのだけれど(ここは私個人の意見ではなく、アニメージュのインタビュアーさんもそう言っています)、今回に関しては、そのような解釈の変遷というか傾向のようなものは見えなかったかなと思う。一方で、リアムさんの希死念慮の在り方については、割と回によって差があったかなというのが個人的意見。そしてそれゆえに、橋落ちもラストシーンも見え方が異なるのだけどね。

一番鮮烈に残っているのが、フレッドがシャロへの内通用お手紙を書いたのをルイスに見つかった後、ウィリアムが死の概念に囚われながらヴォカリーズを歌うシーン。あそこはオペラグラスで毎度ウィリアム定点していました。ごめん、フレッド・ルイス。君たちも大好きだよ。
あそこでどれだけ積極的に死の概念さんたちとウィリアムが絡むのかを毎度結構観察していたのですが、中盤は割と積極的に絡んでいたのに、少なくとも東京大千秋楽付近ではそのような様子は見受けられなかった。
死を、現在の苦しみから逃れられる救いの手段と焦がれるか、単に現在の苦しみから逃れたいから死を希うか。微妙だけど、すごく重要な差がここに表れていたのではないかなと思う。
あと2幕の兄様ソロの時のゴルゴダの丘の昇り方もね、結構違ったよね。

その上で「全てが 白紙なんだ」と歌うラストシーン。これをどう解釈するのかは、かなり人によると思う。
もちろん原作67話の屋上だと解することも可能だと思うし、私も初見時は「おい屋上やるの!?」と思った。
けれど、あそこには背景を示す情報が何もない。NYの病院の屋上での邂逅だと示す証拠は、何もない。何なら、シャロとウィの座っている位置が、原作と比較して左右が逆なんだわ。
だから、原作を知らなければ、あれはNYの屋上だと特定する材料は何もないに等しい。

だったらラストシーンがどう見えるか? Twitter(現X)上で見えた感想とか相互さんの言葉も借りると
・9と3/4番線(ハリポタの7巻ラスト近くでハリーがアバタケタブラ食らった後に飛ばされた場所。相互さんの評を引用)
・円環の理(まどマギ。これも相互さんのツイから引用)
・三途の川(の概念が英国、キリスト教に存在しないことは分かってますが、私は真っ先にこれを連想した)
・天国(相互さん引用)
要は、「現世のどこかではない場所」と捉えた人がそれなりの数いた。
私も、だんだんあそこが屋上だとは思えなくなっていった。
リアムさんが、本当に生きることを受け容れたのか、決定的な証拠となるような言葉は何一つ発していないことに気づいてしまったから。

シャロが「言っただろ お前を捕まえるって」と言った後、ウィが何と言ったか(歌ったか)文字だけで列挙してみよう。
「死の定めを追った先に 君がいた」「心がほどけていく」「凍えた部屋の中に温かな風が吹く」「全てが白紙なんだ どう歩くかさえ分からない 罪は決して消えない 償いの術も何も分からない」「この世界を」

これ、シャロに捕まることは自分に赦したにせよ、真っ当に生きる意欲のある人間の発する言葉ではなくないか???

死の概念は振りほどけたけれど(もとい、シャロという暴風に吹っ飛ばされたけれど)、だからといってどう生きていいかは分からない。
死ぬ気はないけれど、生き方の未来が見えているわけではない。ただ、風に吹かれることを、つい、己に赦してしまったに過ぎない。
行き場が見出せぬまま、真っ白な生まれたままの魂となってぽつんと宙に浮いているところに、シャロが寄り添った。私には概ね、そう見えていた。
生半可な言葉では表しきれない、魂の触れ合い。愛と呼ぶことすら生温い、ただそこに在るだけで満ち足りているような、そうあるのが自然なような。
回によっては「この人足折れてたのかな?」と思うほどに足が曲がっているように見えた回もあった。とても歩ける足ではないように見えた。
もっとも「泣いていた」報告は複数聞いてるけど、私は見えたことないですけどね!!

このラストシーン、私は「シュレディンガーの屋上」と評した。
原作勢にはNYの屋上に見えたのは分かる。けれど、原作通りの屋上で交わされた言葉であるかどうかは明言されていない。屋上かもしれないし、そうではないかもしれない。現実に生きて交わされた会話ではないかもしれない。でも、生きて交わした言葉かもしれない。
観測者(=観客)の数だけ解釈はあり得る。そんな多様性と揺らぎを包摂するラストシーンを、私はこの上なく美しいと思っている。これ以外の終わり方など、最後の事件の終幕において思いつかないと思うほどに。

どうしてそう思うかというと、原作のこの後、ウィはさんざん悩んだ末に「揺らぎこそが本質」「迷っても良いし悩んでも良い そう在り続けることこそが大事なんじゃないかと」という答えを得たからなのです。
※最後の事件は、空き家に至るまでの物語ではなく、ここまで産み出された全ての感情の一端の終着点でしかないと思っていますけれど、これはリアムさんの思考回路の傍証として使っているだけなので許してほしい。

この時代の作品で「揺らぎ」が扱われた時、自然科学の徒が何を思い起こすかというと、量子論なんですよ(私はその辺はにわかですからね、多少間違ってても許してね)。
「観測者が物質の状態を観測するまで、物事の状態は確定しない。Aという状態かもしれないし、Bという状態かもしれない」
シュレディンガーの猫は、直感的には信じがたい事象を導き出す量子論への反論として編み出され、しかし観測者自体も量子論の影響を受ける(揺らぎのある)存在だと指摘されることで破られた。
そんな不確定性こそが本質、と捉えたリアムさんが、私はすごく好きでして、それに類する印象を与えるラストシーンがOp.5に置かれたことに、祈りを捧げたいほどの感謝を覚えている。

***
とりあえず、ウエストコート橋落ちをどうか映像に残してくださいよろしくお願いします。
あまりハプニングを面白がるものでもないかもしれないけど、それでもあまりに衝撃だったので観劇後に騒いでいたら、あれが初見回だった方に「仕様じゃなかったの?」と訊かれて「いやあれ純然たるハプニング」と答えたのは忘れられない。
とはいえ、あれが衝撃だったのは、単に普段と違う格好だったことに騒いでいるわけじゃないつもりですよ。
そこに至るまでも比較的繊細で、手紙の時も涙声だった回のウィリアムが、ウエストコート姿=数学教授としての姿、Op.4の「罪深き我は・・・」を歌っていた姿、すなわち一番ウィリアムの素の魂に近い姿でダイビングキャッチされたことが、ハプニングであれ、一つの物語の完成に見えてしまって衝撃だったのです。ほんとに。

○シャーロック/平野良さん
まずね、「良かったじゃん!」って言えると思わなかったのです。Op.4が終わった頃は。
でもね、見ているうちに納得いきました。というのも、冒頭のシャロの憔悴っぷりが日に日に酷くなっていったから。
あと、2幕のシャロとジョン君のデュエット曲の言葉が意外でもあり、得心いったので。あの曲私ほんと好きです。

まあ何かというとですね、「人は脆く 儚いもの 生きるよすがなど 泡沫の幻」ってところですよ。
これ、シャロが生きるよすがを喪う経験したから、こういう言葉が出てきたんだろうなって。
じゃあシャロが生きるよすがを喪う経験としてあり得るのは何だろうって考えると、やっぱりミル邸での事件が一番あり得そうだなって思うのですよ。
ウィと出会い、ジョンくんと出会う前のシャロは「生き急いでいた」わけじゃないですか。マイクロフト曰く、ですけど。
そして、シャロの生きる意味は「謎を解くこと」だと、何度も繰り返しモリミュの冒頭でジョン君に語られていた。
だとしたら、ミルミルを撃って逮捕されて、至高の謎を追うことができなくなった状況こそが、シャロが「生きるよすが」を失った状態だと言えるのではないか。

ジョン君の幸せのためなら、リアムの望みのためなら、自分の生きるよすがなどどうでも良かった。要は、これで死ぬならそれでいい、くらいの自暴自棄状態だった。
だから、マイクロフトがやってくる(=自分を助けるために、政府そのものが動く)ことを拒絶して、「何しに来た」って反応になった。
それだけの絶望の中から、急に「お前のやったことは完全犯罪だから法では裁けない」と言われたところで、急には喜べないだろうし、とにかくぐちゃぐちゃだったんだろうなって、素直に思えたのです。
けれど、少なくともジョン君の結婚は邪魔されないし、自分も犯罪卿を追えるんだから「良かった」ことには間違いないから、あんな感じになったのかなって。私にはそう見えたな。
だって、ジョン君に「完全犯罪なら人を殺してもいいと思っているのか?」って責められたあとのシャロの反応、「お前たちがもう脅されることはねえ、それが良かったつってんじゃん」ってのは、友情2年生なりに、友人の幸せを一生懸命言祝ごうとして出てきた言葉なのだ(けど、当然、完全犯罪なら何をやってもいいなんて思っていたわけではなく、友人の幸福を祈ろうとして自分の罪悪感から目を背けていた結果があれだった)ってのがかなり如実に見える言葉で、「確かにそういう状態だっていうのもあり得るな」って思えた。

ただこうやって書いてみると、「手前の助けなんざ頼んだ覚えはない」という台詞は、マイクロフトがやってくること=シャロを助けようとすること、ってシャロが思っていた証拠ではあって、ああいう態度をとっていながら、案外シャロもお兄さんには甘えてるとこあるわよね、とも思う。
もっともマイクロフトも弟大好きなのでそりゃそうもなるわという話ですが。

***
あともう一つ絶対に触れておきたかったのが、「シャロもウィも、お前らここまで仲良くしておいて「あいつが俺のことどう思っているかは分からねえがな」って言ったらどう見たって鈍感すぎてやべー人だけど、ほんとにこの台詞言って大丈夫?」って問題。
だってOp.3の学生の時点で、どうみたってシャロもウィも、互いの立場を忘れて語らい、共に一人の青年の未来を拓いたひとときが、どうしようにもないくらいに楽しかったのは明白じゃないですか。

が、ほんの少し、221Bでの語らいの中身が変わったことで、「そらそうだわ……」と納得させてくれた。
それは、「Why me?(どうして俺なんだ)」が、原作ではどうしてシャロが探偵役に選ばれたのかという問だったのに対し、モリミュverでは、どうして探偵役のシャロに、ウィリアムに引導を渡す役が宛がわれたのかという問になっていたことだ。
確かに、犯罪卿が作った謎を解き明かし、世の中の不公平さを可視化して、市民が不満の声をあげるきっかけを作るためには、探偵役は必要だろう。なぜなら、警察にはそこまでの有能さを期待できないから(パターソンという内通者がいたからそう判断できたんだろうと思うし、そもそも本来の計画上だと、パターソンが探偵役をやる線もあり得たのではないかと私は考えているが、これは余談)。けれど、犯罪卿を断罪するのは、本来警察なりなんなりの役目だ。探偵役である必要は必ずしもない。ま、最初からウィリアムは「君は光となれ」って言ってるけどさ。苦笑

そしてこれにより、シャロがウィの友情を疑う理由は
・ウィリアムが本気で死のうとしていると、ルイスとフレッドがウィの救出を依頼に来た時点で見抜いてしまったこと
・この場合、ウィのシャロへの依頼事項は、「自分を公衆の面前で始末して欲しい」という趣旨だと予想できてしまったこと
・けど、この直前までにシャロはジョン君とのやり取りを通じて「自分のために友が殺人の罪を背負うなどという自己犠牲をかってに払うなんて、相手は喜ばないんだ」ということを心底理解したこと
・それゆえに、ウィリアムが「君のことを友人と思っているから、君に自分を始末してほしい」などという残酷な願いを抱いていることまでは、シャーロックは思い至れなかった
と、割とロジカルに理解できるのですよ。なんという巧みな改変かと、舌を巻きましたよ。上から目線に感じたら申し訳ないですが、ほんとここ凄いと思ったの。
「why me?」の前に「答えてくれ」と追加されたのも、一層に切実さを増していた。慟哭であり、悲鳴であり、執着でもあるような。何度このシャーロックの懇願に胸を刺されたか。

でもね、この直前まで、この二人は笑い合っていたのよ。シャロに勧められた椅子に、ウィリアムは座ったんだよ。
「WJM「教授」」と呼びかけられてウィは破顔したり、「さすがだね」と答えながら笑ったり、「明白だよ」と言いながらシャロの姿勢をミラーリングしたり。
どうしてもOp.3の学生を彷彿とさせる、互いの立場をひと時脇に置いた気の置けない友達同士である夢の時間が、ほんの一瞬、マッチで擦られた炎のように儚くも現出した。
でも、その炎はあっけなく消えた。シャロに「教授」と呼びかけられて灯った炎は、同じくシャロの「どうしてお前はそこまでお前自身の死にこだわるのか」という本題を突きつけられたことで消えた。
思い返せば、Op.3の学生もそうだった。「貴方は一体どちらのお立場ですか?」とウィリアムに訊かれ、苦しみながらも「犯罪卿を捕まえて、その罪に対する責任を取らせる」とシャロが回答したことで、二人の立場を忘れた語らいは終わりを告げた。
場を整え、シャロの思考をプロファイリングし、思うように動かすのはウィリアム側だったけれど、それでもシャロは自らがそうあることを自ら決断した。
その上での「Why me?」が、本当に辛かった。辛すぎて、大好きだった。あ、過去形で喋ってまた自分でダメージ受けた・・・

※なお、公式稽古写真で二人が座って話しているっぽい場面が出て「221Bで座るの!?」となったあと、初日公演で椅子を勧められても座らないリアムさんを見て「いや座らんのかい!?」となり、ですが9/3夜で初めてウィリアムが勧められた椅子に座った瞬間、「ウィリアムが椅子に座ったぞ!!」と、まるで「クララが立った!」のノリで大騒ぎしました。笑

***
ちょっと話が変わるんだけど、5月の平野さんの誕生日にモリミュ公式があげてくれた写真を見て、私は30分ほど号泣しまして。我ながら意味が分からん。
そのときに壊れたオルゴールのように繰り返した言葉が、「シャーロックがかみさまになっちゃった」でした。

ここでいう「かみさま」は、一神教上の神を指すものではなく、極めて日本人的な、八百万の神々を割とカジュアルにあっちこっちに作り始めるメンタリティを持った人間の戯言ですが、要は、シャーロック・ホームズという一人の人間が、他と変わらない一個の人格をもつ人間として扱われず、希望の象徴としてある種の神格化、ある種の消費をされる存在になってしまうことへの悲哀が、胸に突き刺さったのです。
それを嫌な意味で体現するかのように、橋落ちのあと、貴族と市民は「見たか 悪魔は死んだ」と歓喜を歌った。

一方で、実はOp.5のシャロにそこまでの悲しみは覚えなくてね。周囲からどれほどの希望を寄せられようと――それこそ、ルイスやフレッド、それにボンドといったモリ陣営の面々からさえ、「ウィリアムを救ってほしい」という希望を受け、市民からは「この状況を何とかしてくれ」という期待を一身に受けて、その死という悲劇までも勝利の代償として消費されてもなお、シャーロックがようやくウィリアムを捕まえられた歓喜のほうが、圧倒的に溢れていた。
どんな理屈をつけようと、シャーロックは大好きな友達を死なせたくなかっただけ。ウィリアムがシャーロックに捕まることを許容した時点でシャーロックの願いは叶っていた。だから、周囲の期待をどれほど背負おうと、あくまで自分の考えと決断に素直に生きた。
自分の判断だから、自分で責任取れる。先程触れた通り、ひと時の幸福をその手で捨て去る決断を下したのは、いつだってシャロの方だったしね。
そういう人間としての揺るぎない強さと眩しさがあったから、その後にシャロの行動がどう消費されていようと、「うわぁ…」とは思えど、シャロへの同情は生まれなかったのかなと思っている。
あと、三好先生のツイートで気づいたけれど、シャーロックには帰る家があるし。神様なんかじゃない、正真正銘のダメ人間だったシャーロックを知っている周りの人たちがいる。マイクロフトも、ハドソンさんも、レストレードも。
そして誰より、「お前の選択を信じる」と背中を押してくれたジョン君がいる。彼らがいれば、きっと大丈夫だって強く思えたから。

○フレッド/長江崚行さん
Op.5を「全員が主人公たりうる強度で描かれた作品」と私は評したけれど、その中でも、多分私が一番感情移入したのはフレッドでした。
とくに、初見時の1幕は本当に辛い場面しかない、ずっと重苦しい気持ちで見ていたのです。あと辛すぎて涙止まらんかった。
ヤード組が笑わせてくれる場面はあるけれど、ほんとそこしか息の抜きようがないと思っていました。
けど、何回か見ていくうちに、私の中で整理がついたのです。
この劇の中で最初に「シャーロック・ホームズ」という光に手を伸ばしたフレッドから周囲に、期待が、光を求める心が、広がっていく作品なのだと。
だから、その直前のカークランド邸でウィリアムの「僕はもう死にたいんだ(よ)」という本音を聞くところが、闇の底なのだと。

このカークランド邸のとこ、ウィリアムの演技にも「酷い(いいぞもっとやれ)」と言いまくっていたのだけれど、フレッドもすごかった。
ウィリアムがどういう風にフレッドを諭すかは割と日によって違った印象だけれど、それを受けてどういう風にフレッドが衝撃を受けたのかもまた、日ごとに全然違ったように見える。
膝からすこんと力が抜けたように崩れ落ちるの、「そうだよね…!!泣」って何度も思った。「ウィリアムさんに誰かが手を差し伸べないと」ってルイスに訴える時の涙声に、何度も鼻の奥がつんと痛んだ。
最初は「信じよう 僕の思う ウィリアムさんを(Op.4 M20 千々に乱れて)」って思っていたはずなのに、そのウィリアムさんが徹底的な自己否定というか、自分たちの為してきたことを正義とすることを否定したというのに、それで崩れなかったフレッドは本当に強いと思う。
ウィリアムを救うためなら裏切っても構わないと覚悟を決め、ルイスにバレても素直に説明し、仲間の意見を聞きたいと頭を下げる。
今回のモリ陣営、一人で死に突っ走るウィリアムのこと文句言えないレベルで仲間内コミュニケーションも崩壊寸前だったので、フレッドが「モランとボンドさんの意見も聞きたい」って言わなかったら、本当に救いようなかったよ。フレッドありがとう。

そうして自立して動くことを覚えたのち、2幕での貴族と市民が手に手を取り合って美しい世界への階を見て心動かされ、
怖くても苦しくてもあなたの示した道を僕は行こうって決心するところ、ほんと最高にかっこよかった。

そしてそれは、仲間たちの中で唯一ウィリアムに似ていると評された優しさを持っているフレッドだから、この光景にもっとも心動かされたのだろうとも思っていて。
逆にそれは、ウィリアムもまた、この美しい光景を見れば心動くことも……あるんじゃないのかなぁって……

あと、完全に理屈抜きに「最後の舞台の 幕は開いた~♪」めっちゃ好きです。かっこいい。
大千秋楽日の公演案内ツイートを見た後、現実逃避でこれ歌ってたのは余談。苦笑

○ルイス/山本一慶さん
モリミュという作品自体が、ルイスの成長譚だったとしても通るね? というくらい凄まじい主人公力を貴方に見ましたありがとうございます。

これは最初から計算づくでやったことだとは思っていないんですけれど、Op.1の「兄さんは いつも僕を 血を流す場所から 遠ざける」という兄さんソング第1弾あるじゃないですか。
あの要素って、原作ではバスカヴィル卿の粛清の時に出てくる話なんですよね。兄さん第一なルイスと、弱い者に手を差し伸べたいフレッドとの対立も。
これを、モリミュはOp.1のノアティック号の中でやってしまっていた。だから、Op.2のバスカヴィルの話では、この要素は出てこない。
それが、Op.5では綺麗に反転し、Op.1の兄さんソングをアカペラで歌い始めながら、兄さんがいままでルイスをずっと愛し肯定してきてくれたことを受け容れ、その兄さんを生かすためなら、シャーロック・ホームズを頼ることを決断し、「彼ならば」と歌う。
この「彼ならば」は、「兄さんは」と同じメロディに乗せて歌われる。

そして言わずもがな、フレッドがシャーロックに内通しようとしたのを見つけたルイスは「説得する手間が省けた」といい、フレッドと手を組む。
「どうしてあの天才的な頭脳を持つのが兄さんなんだろう」という、多分他の人には話したことのないコンプレックスをフレッドに打ち明ける。

Op.1時点でここまで見越していたとは思わないけれど(そもそもOp.1時点では原作でも最後の事件始まってないし)、この見事な反転と成長が、Op.2ではなくOp.1との対比として描かれたことが、この上なく美しいと私には思えた。
何せ「ここは大英帝国」を長調リプライズして本編を締めていますからね。最後にMを引き継ぐルイスの成長も、同じくOp.1からの対比となって描かれたことに、胸が熱くなった。

あとね、声の多彩さですよ。時々、Op.1~2くらいで聞いた、比較的細めの声も時々出てきて、それもすごく切なくて好きですけれど、2幕のラストで中央で歌っているルイスの圧倒的声量と迫力は、ウィリアムのそれをものすごく彷彿とさせた。
辛くて辛くて仕方ないけれど、それでもルイスが「この世界を美しいまま守る」とああやって歌ってくれたなら、きっと大丈夫だと思えた。
そうそう、2幕ラスト曲、ルイスが中央で他のモリ家のみんなが歩きながら歌うのをルイスがちょっとずつ追いかけながらやる振付け、あれOp.3の「M24 こころを抱いて」みたいに見えた。あの時も歩き去る4人の中央でリアムさんがちょっとだけ追いかける振りだったし。

だからリアムさんはちゃんと帰ってきてルイスにごめんなさいしなさいなので今すぐOp.6を(ry

○モラン/井澤勇貴さん
今回はあまりにも「モラン可哀想すぎるだろ!!」と叫んでいるのですけれど、同時に痛いほど作品のテーマの裏部分を担っているなと思った。
この順番で触れるのは、ルイスとモランの関係を喋りたいからなのですがね。

総論のところで「自分にできることを全力でやって、自分にできないことは、誰かに託す。そういう連鎖こそが支え合いであり、「生きる」ということだ。」がOp.5のテーマだったのではないかと私は評した。
前段は市民の皆様の項で触れるとして、後段の「自分にできないことは、誰かに託す」というのも、結構重要ポイントだと思っているのですよ。
・ウィリアムを救ってほしいとシャーロックに願ったルイスとフレッド
・犯罪卿から街を救ってほしいとシャーロックに願った市民やハドソンさん、レストレード警部
自分にはどうにもできないからといって諦めていたら、状況は変わらない。自分にできることを全力でやった上で、自分ではどうにもできないことに関しては他人に願いを託すしかない。
願いを託さなければ、そもそも叶うはずもないのだから。その願望の残酷さも触れたうえで、それでも願望を一点に集約させた眩しさ(=シャロの光への覚醒)もまた、存分に描かれていた。

つまり、「俺はお前を救いたい 誰よりも 誰よりも」と歌いながらも、ウィリアムの意に沿わないからと、自分の意志を呑み込んで、願いを託さなかった結果として、誰よりも残酷な「お願い」を聞くこととなってしまった。
……いやでもやっぱりリアムさん酷すぎるじゃろ。まあリアムさんが酷いのは一旦置いておこう。

フレッドに「計画を遂行しつつウィリアムを救う」という方針を聞かされた時のモランの怒り方は、日に日に増していったように思う。東京楽日近くの煙草投げ捨てるところ、まじで怖かった。
そして、フレッドに「モランこそウィリアムさんが死んで終わりでいいって本気で思っているのか!?」と詰め寄られたあとの「そうだ」という返し方も、序盤はフレッドに背を向けていて、まだしも自分の心に嘘をついていることに正直な仕草だったのに、最後の方の公演ではフレッドの方を振り向くようになっていた。ウィリアムのためになら、自分の心に嘘をつくのが上手くなってしまった、哀しい大人の姿があった。

あと、特に考えたいのが2幕のモランの行動でして。覚悟ガン決まりな兄様との会話はあとで兄様の項で触れるとして、タワーブリッジでのウィとシャロの対決を見守るルイスとの対話の部分。
「本当にいいのか?」というモランの問の前段にあった条件に今更気付かされたのです。ルイスは、ウィリアムを本人の意思に反して救おうと動いていることを、モランは承知していることに。
それでもなおルイスが「構いません」と返してしまった=モランがウィリアムを奈落の底に落とすための銃を撃つことを、ウィリアムを救いたいはずのルイスが認めてしまったのが、ミュ版では明確化されてしまったという重みが問題なのですよ。

露骨に言えば、「彼(シャーロック)ならば」、ウィリアムの生を認めて肯定して救ってくれるかもしれないとルイスは期待したけれど、モランが銃を撃つのを止めることでウィリアムの死を回避するという手段を、ルイスが否定したも同義ですよねこれ。
……あの、ルイスさん、そのソロ、ウィリアムのヒーローになりたかった大佐に聴かせるにはめちゃくちゃご無体な歌ではないでしょうか?? 私はめちゃくちゃ感動したけどさ。そして、その歌詞は原作でもモランに聞かせているけどさ。
それもあって、私は今回「大佐可哀想すぎるでしょ!」といっていたわけです。

が、きつい言い方になってしまうと自覚はしているけれど、これは深い忠誠心の裏返しとしての、自らの意志を貫き通しきれない部分への因果応報でもあったように、私には見えている。ほんときつい言い方でごめんなさい悪意はないです。
本当に撃ちたくないのなら、ルイスに確認などせずとも、銃を置く選択肢だってあった。けれど、ウィリアムの「お願い」を裏切らない選択をしたのもまた、モラン自身なわけですよね。
最後の事件の後も生きると言いながらもその実、生きる動機は「ウィリアムの最初で最後の命令だから」以外には見いだせていなかった。そういうところがきっと空き家に繋がると思うのでOp.6をお願(ry
ただ、因果応報ではあれど、弱さではないと、私は思う。それほどまでに深い忠誠心は、得難く貴重なものだ。それを悪く言うことはあり得ない。けれど、大佐自身のために、大佐へのブレーキがこの世にウィリアムしか存在しないことを、私は哀しく思う。

一方で、「この高さじゃ きっと助からねえ」という台詞が、原作における誰とも知れない市民のそれではなく、モリミュではモランの台詞になっていた。つまり、ルイスもこの台詞を聞いていたことになる。
私にはこの言葉が、モランがウィリアムのお願いを果たしたことへのせめてもの自己肯定に聞こえた。それすらなかったら、自分の行動への悔悟で狂いそうだったのではないかと、私には見えた。
ただ、これを聞いてもなおルイスは、「兄さん 僕は 信じています あなたはどこかで生きていると」と歌えた。だからこそこの言葉が一層強く映えて聞こえたのはある。

あとモランで絶対触れておきたかったのが、大阪の26昼でラストの全体曲でモランが自分のソロパートを歌わなかった事件ですね。
これもハプニングを面白がるものではないんでしょうが、そもそもが生きる動機が薄そうな大佐が、ラストの自分のパートを歌わずにふらふらと足取り危うく舞台を横切り、フレッドにぶつかって、その後の全員合唱のところでもじっと口を噤んでいた。本当に怖かった(褒めています)。あれは、ウィリアムの犠牲のもとに成り立つ美しい世界なんて認めないと無言で抗議しているようにしか見えなかった。だから、終わった瞬間に「大佐~!!!!!!!!!」と叫びましたとも、ええ。

こういうハプニングさえも、その場で表現に昇華されるのが凄いなと思っているわけです。ウィリアムのウエストコート橋落ちもそうですが。

なお、これについても、この回が初見だった方と「仕様だと思ってた」「いやあれ純然たるハプニング」と話したのは(ry

○アルバート/久保田秀敏さん
※私はくぼひでさんの配信聞けてませんので、矛盾してたら笑ってやってください。

覚悟ガン決まりすぎてほんとこの人怖い……というのが率直な感想(褒めてます)。そして、常人と思考路がかなりかけ離れている。だからこそ、全ての元凶となった。
この状況下で感情的に取り乱すでもなく、唯一マイクロフトの前で告解するのみ。優雅で静謐なたたずまいが、逆に狂気だと私は思った。

Op.3以来ずっと、兄様は
・ウィはゴルゴダの丘を一人登っているようにしか見えない(Op.3)
・私がもしお前を誘わねば(中略)氷のような痛み抱えて佇むこともなかったのか(Op.3 M12 共に重き荷を負いて)
・ウィにとって命奪い続けるこの運命はどれほどくるおしき道だろう(Op.4 M22 罪深き我は・・・)
と思い続け、全てをウィに負わせているだけな自分の罪深さと弱さへの悔悟しかない状態だったのが繰り返し描かれてきた。
その上で「共に重き荷を負いてゴルゴダへの道を歩もう」「私はお前と共にある」と言ってやることしかできないと、兄様は苦しんでいたじゃないですか。

だから、マイクロフトが訪問してきて「死は、終わりだ。償いなどではない」って言われたときに、あれは兄様にとって、新たな道への開眼、ある種の救いだったのだと思うのです。
ウィを死なせてやり、償いから解放してやることが、自分がウィにしてあげられることだと教えられたことで(注:あくまで兄様視点での話)、兄様は、ずっと苦しみ続けてきた無力感から解放されたから。
だから、「十字架の肩代わり」という生きる道を見つけてしまって覚悟ガン決まり状態になってしまった。ウィリアムの命令を受けて、どうしていいか迷いを持っているモランにも、そのモードで対応してしまった。

とはいえ、モランが自分の迷いだけを兄様にぶつけて、ルイスやフレッドがウィリアムを救おうとシャーロックに依頼した話を知らなくて済んだのは、兄様にとっては幸運だったかもしれないなとも思うわけで。
フレッドが「みんなの意見も聞きたい」と言ったときに、兄様だけその対象になってない(ため、作中だと兄様だけがウィの救出計画が動いていることを知らないことになる)くらいに
自分で作ったはずのモリ家においてでさえ孤立しているのは、見ていて辛かった。
ルイスは「他の誰にも気取られてはいけません」とフレッドに言ったけれど、フレッドの希望を入れて案外あっさりルイスが折れたの、実のところ意思確認対象に兄様が入ってなかったから説あるしね。
そして兄様に確認したら止められるに決まっているのは、今回の状況からも明白だった。

ではなぜここまで兄様がモリ家内でさえ孤立したかといえば、Op.3という一番早い段階で、ウィリアムの本心に気づいてしまっていたから。
Op.4で、次に違和感に気づいたモランに対して「恐らくウィリアムは(一人で死のうとしている)」と兄様が言おうとしたときに、その現実をまだ受け容れ切れなかったモランに遮られてしまった。
今にして思えば、モランが「俺はあいつ(ウィリアム)が望んだことなら あいつの望み通りにさせてやりてえ」と言ったときに、兄様が低く「ああ、私もだよ」と言ったのは何を思ってか。
モランとしては表面の本音の言葉だろうが(が、それとてウィリアムの考えを変えられないだろうという諦念があったからこそでもあるのはOp.5のとおり)、兄様は、やっぱりウィリアムと共に死なせてもらえないという現実に悔悟を深めただけではなかったか。
あれほど柔らかく穏やかで包み込むような讃美歌を歌っていたはずの兄様が、Op.4よりもさらに頑なで、冷たく、激しく歌うのは衝撃だった。

○マイクロフト/根本正勝さん
流れでマイクロフトについて。Op.2ぶりの登場ありがとうございます。さすがに今回来ないわけはないと思っていたけど、私にしてみれば初めてマイクロフトを生で観られたのが、何よりうれしかった。

まずは兄様との追加シーンについて。
稽古場写真でマイクロフトと兄様が向かい合って座っている写真が出て「いやそんなシーンあったっけ? 最後のMI6再任固辞の場面で座るの?」と思っていたら、まじで原作にはないシーンだったのまじでびびったのが3週間前とか考えたくないけどね…笑
実のところ原作では、ジャック・ザ・リッパー事件とスコットランドヤード狂騒曲の間でマイクロフトは兄様と接触していまして、そのときに「友人としてユニバーサル貿易社を訪ねてくる」という、原作読んでいても「いやあなた方いつの間にそんなに親しくなったんです?」と突っ込みたい一幕があったのですが、これすらない状態でM叙任式のときに「あいつらしいと思ったよ・・・」と言ったら、「いやほんとに待って!?」ってなること請け合いだったので、入れていただいて良かったですほんとに。

マイクロフト→兄様の説得も、シャロ→ウィリアムの説得も、実は趣旨は一緒な辺り、兄弟だなぁというか、同じ教育受けてきているんだなぁという感じがする。
その一方で、その説得を受けた側の反応の違いは興味深いというか……有体に言えば、その説得をするまでにどれだけ信頼関係築いたかに依存していると私は思うぞ……もっと具体的に言えばOp.3にもマイクロフトが出て(ry
いずれにせよ、マイクロフトにしてみれば、「共にMI6として働き続け、贖罪の道を共に歩もう」と言いたかっただろうに、兄様が明後日の方向の回答を持ってきてまじで驚いたと思う。それを「あいつらしい」で流すマイクロフトもマイクロフトだけどさ。

っていうのはあるにせよ、実はマイクロフトが「死は、終わりだ。そこに償いなどありはしない」と明言したのは、兄様がなぜ自分を幽閉するという結論に至ったかの補助線として以外にも、かなり重要な意味があったと思っています。
それは「死は償いではない」という価値観を、観客に提示すること。

実のところ日本という国は死刑を有する少数派の国であり、かつ世論の8割が死刑を容認している(ソースは適宜ググってください)。
誰にも何にも言われない素の状態の価値観だと、「死を以て償う」方に親和的な価値観を持っている観客が多いことは想像に難くない。
けれど、一応は「君達の敵でも味方でもない」、比較的中立的な立場を守っており、政府そのものとさえ呼ばれるマイクロフトからこの言葉が発せられることで、憂モリという作品はそういう価値観の下に作られていないことを高らかに宣誓したのではなかろうか。
これが、モリ陣営の誰かだったり、或いはシャロからだったりすると、単にウィリアムを死なせたくないがための発言としか観客には聞こえなくなるので、マイクロフトほどの中立的な価値観の宣誓にはできないのである。
マイクロフトはそれぐらい重要な屋台骨を担ってくれたのだと、私は思っている。何せ「ウィリアムのような犯罪者なんて死んで償うべきだ」と思っている観客は、Op.5の世界になかなか入りこめないだろうからね。
※なお、「一応は」とつけたのは、モリ計画に対する沈黙を保っている時点で、マイクロフトは実質的にモリ計画の味方だからだ。万一の時の歯止め役であるのは事実だろうが。

もう一つ、マイクロフトのソロ曲にも触れておこうと思う。
マイクロフトは弟に自由に生きてもらうために、自分一人でホームズ家の過去に犯した罪への償いを担い、大英帝国への忠誠を誓った。そのことはシャロには教えていない(Op.2より)。
けれど、これまでのあらすじが終わった直ぐ後のシーン、ジョン君は、シャロに怒ってこう言った。
「なんで俺に何の相談もなく 勝手に背負おうとするんだ」と。

……そりゃ、マイクロフトも考え込むわよね。自分が弟にした仕打ちと一緒なのだから。
けど、ジョンくんに教えられたことを噛み砕き、呑み込んで、成長したシャロは、自分をないがしろにすることで悲しむ人がいるのなら、そういうことはしないと決めた。
Op.2の「大英帝国」で「祖国の闇全て この身に負いて」と高らかに歌ったマイクロフトが、そんなシャロに「願わくばこの国を照らす光となれ」と歌ったのは、かなり業が深いと私は思う。
ついでに言うなら「光となれ」と歌うのは、Op.1のラストに繰り返されるメインテーマにおけるウィの台詞「僕は悪魔を討つ悪魔となろう 君は光となれホームズ」を彷彿とする。
ウィの先見の明と、天才二人が同じ結論に至ってしまったことへの天を仰ぎたくなるような何かを、私は見た。

あ、関係ないことですが、1幕ラストの女王陛下の椅子を出すマイクロフトがめちゃくちゃ好きです。あれ、光の加減の問題で見えたのが1回だけだったので、ほんと得した気分になったわあの日は。

○ジョン君/鎌苅健太さん
「お前の活躍を刻」むと同時に、ウィリアムを、彼が望んだ形で刻んだことは、誰よりルイスの救いだったと思う。
「物語」がもつ価値の体現者こそ、ジョン君だった。

無数存在するモリミュが大好きな理由の一つに、ジョン君が、この物語の語り部であり、正典の執筆者であることをとても大事にしてくれていることが挙げられる。
「物が語られている」と感じられる二重構造、ほんとツボなのですよ。
その中で、ジョン君がシャーロックの活躍を綴ったから、今私たちは、この物語を味わうことができている。その影にどれほどの悲しみと絶望があったかを思い知らされながらも。
私たちが彼らの活躍を見て、読んで、その世界に没入して心踊らされている時、作中の人物は確かに私たちの中で生きている。
そうやってシャロを生かすのは、ジョン君にしかできないことだった。

「名探偵ホームズは 時の彼方まで」
それは同時に、相棒としてのワトソン先生も、ハドソンさんもマイクロフトもレストレード警部もモランもフレッドも、時の彼方まで語り継がれることと同一である。宿敵としてのモリアーティも、もちろんその一だ。
そのときの挿絵が、あの221B訪問時の恰好で、犯罪卿コートではないリアムさんだったことに、私は泣いた。
恐るべき悪役で、名探偵の宿敵として描かれていて、容姿はぜんぜん違うけれども、あのときのシャロに「犯罪卿」としては相対さなかったリアムさんの気持ちまで書き残してくれたような気がして、救われた気がした。
(そもそも原作の方で、221B訪問時のウィリアムの恰好は、正典をオマージュしたのは分かっていますが)
そんな「救われた」感覚は、マイクロフトに「最後の事件」の小説を見せてもらったルイスの中にもきっとあったんじゃないかなと、私は思いたいのだ。

ジョン君の心情の補完も本当に良かったなぁ(しみじみ)
シャロがあんなに悄然としているから、「お前が犠牲になったことを」というのがめちゃくちゃ説得力あるし、それでもシャロの行動は自分たちのためだったと分かっていて、ああいう怒り方ができる友人って本当に貴重だよ。
「お前はお前を愛して欲しい」と歌うの、シャロが我が身を顧みない傾向があるのに気づいていたからだとは思うんだけど、ミル邸からの盗みを一人でやろうとしていたことのみならず、ジャック・ザ・リッパー事件の真相を隠すと判断する苦しみをシャロ一人背負って、それをシャロ本人が全然気にしてなかったときからの積み重ねなんだと気づいたときには鳥肌が立った。一度は心配の声をかけ、もう一度は「お前一人に生かせるものか」と立ち上がり、最後は机を投げてでも説得しようとした。この二人の相棒も、Op.1から比べれば遠いところまで来ていたのだと、振り返ってしみじみとしてしまった。

シャロ、できれば221Bでリアムさんの説明をしているときに、ジョン君にミル邸での出来事をちゃんと説明しておいてあげて欲しい。あれは紛れもなくジョン君のためではあるけれど、ウィリアムの存在も影響していたことを、ちゃんと教えてあげて欲しい。
そうでなければ、ジョン君のみならずメアリーちゃんまで、必要以上の罪悪感に苛まれるだろうから。

あともう一つ。シャロが221Bに帰ってきた後の2人のデュエット。あれ序盤のジョン君の表情、めちゃくちゃ硬かったんですね。オペラグラス定点してびっくりした。
が、シャロの歌が進むにつれて、意図が分かっていくうちに、全てが氷解し、シャロの決断を包み込むような笑顔になる。
その上で、「彼の全てを 受けて止めてやってくれ」って歌えるの、ジョン君聖人すぎじゃありませんこと? ウィリアムとは列車でちょっと会っただけなのに、そこまで友人シャロの言うことを信頼して、後押ししてあげるなんて。

あ、ちなみにジョンくんのソロ曲の直前にレストレードが日替わりを生やした(初日はあそこに日替わり要素なかったので「生えてきた」としか言いようがない)結果、あのシリアス曲の直前まで笑いが引かなかったの、まじでごめん。ほんとに。

○レストレード警部/髙木俊さん
ほんっとに今回、私、レストレード警部を大好きになりました。もちろん元々好きだったけど。
初日にソロ曲で大泣きし、大千秋楽の日替わりでまた大泣きし、暇さえあれば警部のアクスタを色々と撮りまくり(未だに結構撮ってる)笑、まじで警部に持ってかれていた。
今までもそうなんですけど、レス警部の日替わりって、作中の世界観に浸ったまま素直に笑えるのが本当に好きなのです。
正直に言えば、笑いのセンスが合わなくて、恐らくは笑いどころとされていたはずなのに笑えないことほど辛いことはないのですよ。作中世界に浸ることから、弾き飛ばされてしまったかのように感じてしまうから。
でも、警部は絶対的に安心して見ていられた。ビジネスカタカナ語が分かってなかったり護身術が残念なこともあったけれど笑、でも頼りたくなる市民の味方な街のお巡りさんだった。
もう一回言いますが最終日の日替わり、ぼろ泣きしましたよええ。シャロも、ハドソンさんも、警部をちゃんと光として認めてくれていたことに。

ソロ曲もね、
「俺は英雄にはなれないが この胸に抱いた矜持は捨てぬ」「人の光にはなれないが 光を灯す蝋となろう」

あまりにもいいこと言いすぎですよ。卑屈になるでもなく虚勢を張るでもなく、そういう在り方であることを自然体で受け止めて胸を張る。なかなかできることじゃない。精神面が成熟した大人の言葉ですよね。
憂モリ世界のみなさんは大体超人なので、観客が「こうなりたい」とか言ってもほぼほぼ無理ですが、警部だけは、がんばれば私たちもそうなれるかもしれない手の届きそうなヒーローなんですよね。
そして作品全体のメタ的な位置づけを見ても、「自分にできることを、果たせる役目を誠実に果たし、届く範囲の人に、手を差し伸べる」ってことが、最終的な贖罪としてルイスが、真っ当に前を向けている人が選んだ道だった。
それを最初からできていた警部は、ヒーローなんですよ。パターソンが言うまでもなく。

あと、ハドソンさんとの手紙のところで日替わりが生えてきたの笑いました。初日は別に何のやり取りもなかったと思いますが、多分全体バランスを見て、あそこも笑いどころにしたほうがいいと判断されて、追加されたのだと想像します。
正直ヤードまわり以外はまったく笑いの余地がなく、2幕は息つく間もない怒涛の展開なので、すごく心地よく見られる配分でした。

が、重要なことに気づいたんです。ファンの希望としてはあってほしいOp.6が仮に上演されたとしても、レストレード警部はそもそも原作に出てこない……orz
え、これが警部の卒業公演だったの!? やだやだヾ(:3ノシヾ)ノシとなっていたのはきっと私だけではないはずだ。

○ハドソンさん/七木奏音さん
今回ハドソンさんが来てくれたの本当にうれしかった。転スラから相当無理して参加してくださったのは察ししています本当にありがとう。
そしてハドソンさんの曲めちゃくちゃ好きです。序盤のアンサンブルさんの「ホームズは」「ホームズは」の畳みかけるところも好きだし、普段のハドソンさんの明るさを保った序盤も、温かい夕方の陽だまりのような後半も。
だって、この作中で、何も悪いことしてないし細かい事情を把握していたわけでもないのに、覚悟の一つもなくいきなり辛い別れを突きつけられた大賞は明らかにハドソンさんでは…いや、警部もそうだけど…

気付いて泣いたのが、ウィリアムが221B訪問して手紙を残して去った後のシャロとジョンくんのシーン。あのあとの暗転で221Bセットを片付けているのは3人娘で、ハドソンさん出てきてないんですよ。
長期間拘留されて、ようやく帰ってきたシャーロックを「おかえり」って迎えて、その日の夜のうちに、いつの間にかシャーロックはテムズ川に落ちてしまったのですよ(この部分を書いてまた泣きだしたのでまじで重症)。
ずっと帰りを待っていた人をようやく出迎えられたのに、見送りの一つもできずにいなくなってしまって。ついでにジョン君も結婚したから221Bに常に住んでいるわけじゃなかったでしょうに。急にがらんとした家に取り残されたハドソンさんのこと考えたら、どれほどの喪失感だったか想像に難くない。

そこからのラスト曲、「あなーたーの かえりをまってーるわ いつまでも いつまでも」のところ、ほんと辛かった。泣いた。
でも、ハドソンさんがそれを言わないと、ホム陣営側の他3人がシャロの想いを継いで前を向こうと押し殺しちゃっているから、ハドソンさんが素直に悲しみを悲しみとして表出してくれるのは、救いだった。
この1フレーズがあるかないかで大違いだし、それを言ってくれるのはハドソンさんしかいないよほんとに。
ハドソンさんが素直に悲しんでいるから前を向けている側面もあるんじゃないかな、他3人も。

あと三好先生のツイートから引っ張ってきてますけど、帰る家を焼いてしまったモリ陣営と、3年間ずっと帰る家を綺麗に守っていたハドソンさんとね。
ハドソンさんが守ってくれた221Bがあったから、シャロはまだ、正義の概念になり果てず、人に戻れるんだって希望を守ってくれたような気がしてね。ほんとハドソンさんに救われました。
ハドソンさんにしか出せない作品世界の深みを与えてくれたこと、本当にありがとうございます。

○ボンド/大湖せしるさん
実は最後の事件中のボンド君に関し、私は今までちゃんと考察できていなかったことをここで白状しようと思う。
というか、モリミュで見せられて初めて理解できたことが多すぎるのだ。
ボンドは、アイリーンという核あってのボンドであることを。ボンドはアイリーンの新しい人生ではあるけれど、アイリーンであったこともまた、彼(彼女)の人生の揺るぎない一部なのだと。

いうまでもなく、ソロ曲の話ですね。ボンドとアイリーンが切り替わるあの曲、正直私は相当に驚いた。
アイリーンが、「ウィリアム様を救って シャーロック」と言うのはなぜだろうとかなり考えた。
もちろん自分がシャロに救われた経緯があるから&ヤードの冤罪騒ぎのときもボンドの期待通りに冤罪を晴らすために動いてくれたから、シャロへの信頼があるのは、十分に理解できる。
そして、新しい命を、人生をくれたウィリアムへ「ボンド君」が感謝しているのもわかる。
じゃあ、最後の最後まで怯え切っていた「アイリーン」が「ウィリアム様」を救ってほしいとあそこまで切実に歌うのはなぜだろう?とね。

何回か見ていてようやく思い出しましたよ。アイリーンが、階級社会を打破するために、孤独な戦いをしていたことを。
守るべき後輩も殺されていて(その意味では、サム君を喪ってもなお戦おうとしたホワイトリー議員、とでも評すべきかも。アイリーンは)、頼れる人は誰もいなくて、それでもこの社会をどうにかしたかったから、盗みや強請りといった非合法な手段に訴えたことを。
仲間たちを守るために背を向けて、一人死のうと孤独になっていくウィリアムを見てしまえば、アイリーンだった頃の心細さを思い出して、シンパシーを感じても何らおかしくないではないか。

あとですね、このソロ曲の時に、アイリーンモードに切り替わった瞬間にヴァイオリンが入ってくるのほんと最高だった。ボンド君のときは林さんにライト当たらないし、下向いてたし。
アイリーンがシャロ陣営扱いされている何よりもの証拠じゃないですか。
ウィリアムとシャーロックに代表される2陣営の間にあって、正しくトライアングルの頂点になれるのは、アイリーンだったんだなって。
所詮は異物扱いでしかなかったミルミルと違って(アニメージュインタより。これは最大の褒め言葉です悪しからず)。

彼(彼女)だからこその立ち位置でこれからも生き抜いていく姿を見られることは、遺された人たちの大きな救いになると思う。そんな頼り甲斐に近いものを、ボンド君から感じました。
だって、死んだことにして助けてもらったのは自分も同じことだから、表向きの「死」には一番惑わされにくかったんじゃないかなって。
せしるさんに演じてもらったからこそのボンドだと思う。本当にありがとうございます。いやこれキャスト全員に言いたいけどね!?笑

○アンサンブルの皆様
「片や俺たちのように戦場で地獄を見た人間がいる」「片や劇場で絵空事の悲劇に涙してのうのうと生きている連中がいる」 ――Op.2 レイモンドより

Op.5を見ていて真っ先に思い出したのが上記の台詞でした(という割にうろ覚えで、配信で台詞確認しに行った笑)
モリミュの創り手の皆様は、この作品を「絵空事の悲劇」にはしたくないのだと、今回とみに感じた。
私たちも大英帝国の存在し得たかもしれない市民の一人で、観客一人一人が抱いたいかなる感想もまた、犯罪卿が世界を変えるために演じた劇に対して、市民が抱いたかもしれない感想なのだと、私は思っています。
それだけの懐を持っている作品だと、私は感じた。

その上で、私は今回の民衆に何を思ったかというと、赦しの気持ちがあったんです。Op.4では、市民の身勝手な救世主願望と、それに伴う掌返しに、「申し訳ないけど全く共感できない」と言ってしまっていたのに。
それは間違いなく、「自分たちの街を守る」という目の前に差し迫った脅威には、自ら立ち向かう気概を持っていることが、そしてそのためにはひと時でも、心の垣根を取り払うことができるのだと、見せつけられたから。
出来ることをやった上で、「犯罪卿をやっつける」という望みは、名探偵に託さずにはいられない切実な祈りだったのだ。
国が軍や警察を片っ端から動員しても捕らえることのできない恐るべき犯罪卿に対抗するのは、自分の手に余る。だから、名探偵に託す。それはもう、しょうがないねって、なんか赦せたんです。
多分、その祈りを背負ってどうしようにもなくなった人たちでも、「たった一人でもいい、自分の生を肯定してくれる人がいれば、人は生きていける」ってメッセージと合わせ技だったからだと、私は自己分析している。

実のところ、この手を繋いだ経験一回で、全てがうまく回るようになるとは思いません。深く根付いた差別意識は、そうそう簡単に消え去るものではない。
けれど、勝利の高揚という美酒に酔いしれている間は、ひととき忘れることができるのかもしれない。その成功事例が一度できることは、ゼロとは大きく違うのです。

「見たか 悪魔は死んだ」の曲、私はものすごくレミゼの「民衆の歌」を連想しました。
※なお、私Op.1の「大英帝国」を初めて聞いて、「これ、レミゼの「Look down」ぽくない?」って言っていた(自分の過去ツイート遡った)。今にして思えば、割といい線ついていたかもしれない、自分。

あまりの展開にしんと静まり返っていた原作と違い、市民たちが快哉を叫んだのは、意図的だと思います。初見では、名探偵が死んだのにあの喜びようなのはグロテスクでは?と思ったけど。
でも、あれが「リアルな人間」ではなく、「名探偵」という機能、概念に見えていたのだとしたら、話は分かる。概念は死なない。強いて言うなら、忘れられることが死であって、その回避は、ジョン君の小説で補強される。

そもそも2幕の冒頭で市民が「光あれ」なんて叫んだのは意図的ですよね。暗闇しかなかったところに光が生まれ、昼夜の概念が生まれる天地創造。
その後にロンドンを「ソドムとゴモラ」の火が覆うという危機に瀕し、そこから脱した。市民たちは劇の観客じゃない、天地創造神話の中に生きる当事者にも似た感覚だったのではなかろうか。
ついでに言うと兄様がウィをイブに、自らを蛇に擬えた話も交えると、Op.5って割とがっつり創世記……
いずれにせよ、単なる勝利の美酒ではない、天地創造にも似た壮大なスケールの物語において、皆が主演として舞台に上がり、その果てに得た勝利。だからこそ皆はあれほど酩酊し、シャーロック・ホームズもまた、「名探偵」という役、概念として扱われた。

でも、それに酔えない人もいる。モリ陣営はもちろんのこと、名探偵の死を素直に悲しむ少女2人に、観客はどれほど救われたか。

ということで、総論はここまでにしつつ、アンサンブルさんと括るのがあまりに勿体ないというか申し訳ないので、順不同で一言ずつ。
(見間違いがあったら本当にごめんなさい。けど、アンサンブルさん全員に感想がするする出てくるって相当では?)

・永作さん
まじで大声で言いたいのですが、あの凛として美しい女王様と、「ホームズさんはッ↑♪ まだ戻らないのォッ↑↑!?」」の方を同一人物が演じてるって信じがたい話なのですが(真顔)
あと何度でも言いたい、前楽の時にレス警部の肩キメてたのまじで最高でした。そういうのほんと好きです。ハドソンさんとレス警部の生えてきた日替わり、あれほんとに目が2対欲しかったです。
221Bの扉の前で面白いことする皆さんとハドソンさんレス警部、どっちも見た過ぎて困る。日替わりは全景でくださいよろしくおねがいします。
そうでなくても、貴族役として小憎らしいほどの麗しさと高慢さを讃え持ちながら高らかに歌うのがほんっとに好きなのに、マギーとかドワイト夫人とかマルチナのお母さんとかの優しい年配女性の演技も素敵でね。これがギャップ萌えというやつかそうなのか。

・伊地さん
そりゃあ私はOp.4でウィギンズくんに会いたかったなと言いましたよええ。けれど、さすがに舞台中央で赤い旗を振り回すとは思ってなかったんですよガブローシュみたいなことをry
犯行声明曲の序盤のどすの聞いたお声も、最後に探偵の(だと思いたい)死に涙する純粋な少女もどちらも好きです。
熊田さんのエリンちゃんも含め、二人がいなかったら、ラストの曲、観客のぐちゃぐちゃの情緒の持っていき場がなかったです本当にありがとうございます。
彼女たちの未来だけは、大人がしっかりと守ってくれますように、という切なる祈りがあのシーンから立ち昇っているように思いました。

・熊田さん
私の中で一番目を惹かれたのは、ハドソンさんソロの時のコンテンポラリーダンスです。ほんと動きが美しくて、まじで目が2対欲しかったです。
それに、真ウィリアム君ですよ。まじで怖かった。ぬるぬるウィリアムに近づいていく動きがほんとに怖かった(褒めてます)。
「貴族の身で 貴族殺しを」という犯行声明曲の第一声を担ってくださっているところ、あれもめちゃくちゃ好きです。

・蓮井さん
2代目グレッグソン、本当に最高ですありがとうございます。Op.3でビル君やってたという事情を抜きにしても、心の癒しと化したヤード組が大好きです。
Op.5は前半が暗いので、最初にグレッグソンが出てきた時にまじで安心しましたほんとに。私達観客は笑いどころに飢えていたんです。今回こそ円盤に日替わり残してもらうの心底希望してます(ってアンケートに書きました)。
あとね、ミルヴァートントルネードがものすごく藤田さんミルミルっぽくて最高でしたありがとうございます! 願わくはお顔も拝見したかったです。お写真で拝見したミルミルverの蓮井さんもめっちゃイケメンやった・・・
市民の時もほんとに目を惹かれてね。何度も引用した「ノブレス・オブリージュ」の台詞がめちゃくちゃ好きです。高貴なる者の義務を市民が貴族の前で言い放ち、それを皮肉でも何でもなく力強く響かせる説得力が素敵でした。
あとあと(加筆が多すぎる)、カークランド伯爵として殺されるやつ。あれウィリアムの長尺の歌の間ぜんっぜん動かないのすごすぎるし、そこから舞台袖にぬるぬるっと捌ける動きがまたすごかった。人間ってああ動けるんだと真剣に思いました笑

・白崎さん
Op.1からずっとモリミュの屋台骨を支えていただいてありがとうございます。たぶん、最初にアンサンブルさんのお顔を覚えたのは白崎さんでした。
色々ありますが、やっぱりウッズさんのときが一番印象深いですね。頼りがいある貧民街側のリーダーとして説得力ある存在感があったのは、白崎さんが演じられたからこそだと思います。
あともう一つ印象に残ったのは、兄様が女王陛下に謁見してる時に同時進行でウィリアムが殺していた貴族ですね。あの時の断末魔と抵抗と死に際の恐ろしい顔がめちゃくちゃ印象に残っています。

・大澤さん
ノーブルな立ち姿の佇まいがすごく鮮烈です。ダンスシーンとかすごく目が惹きつけられるんですよね。その上で、嫌味たらしい貴族の時とちゃんとした(?)執事やっている時のギャップも好きです。
ハーシェル男爵を逃がそうとした執事とかね。あのリアムさんと数合撃ち合える相当な実力者なのが透けて見えました。Op.2の話になるけど、バスカヴィル男爵も、あのリアムさんと燭台で数合やり合えるって相当では?って茶化されてましたっけ笑
グローヴァー公爵も、息子を盾に使う卑劣な人物ではありましたが、息子の思わぬ行動に動揺している様子に、今わの際に少しは己の行いを悔いたのだろうか、とも考えてしまいました。

・竹内さん
私の中で、エヴァン君を演じられたらまじで心が死にそうになることが容易に予見できる俳優さんランキングにずっと名を連ねてましたし、やっぱりばっちりそうでしたねほんとにもう!!!(褒め言葉)
犯行声明曲の「ホワイトリー殺したこいつを捕らえろ!」のどすのきいたお声、一瞬竹内さんだと分からなくなるほどの迫力ですごく好きです。
あと、火事のあと「街の火が消えているぞ!」って快哉を叫んだ時の歓びに胸が熱くなりました。うん、君はどうか幸せになってください・・・

・木村さん
キム一家のお父様がめちゃくちゃ好きです。最初はテンプレのように労働者を見下しながらも、火消しに必死になる市民を見て最初におずおずとバケツを渡し、それが受け取られた後は速やかにバケツリレーに参加してくシーン、あれほんっとうに胸熱だった。
そのあとの貴族と市民の対立が団結に変わっていくところ、両者が手を握った後に「この者らに続いて~」と号令かけるの、かっこよくて震えました。
橋落ちの後の演説がお父様なのも嬉しかった。きっとこのお父さんなら、娘たちの身分差ある交流も温かく見守ってくれるに違いないと信じられるほどに。

・高間さん
今更挙げるまでもない気もしますが、やっぱりルイスソロのときのダンスが一番印象深いです。
ルイス本人はあの程度の振りで内心を押さえつけているけれど、その歌の中に荒れ狂う想いがいかほどのものだったか。高間さんのダンスあって、より名場面になったことと思います。
人間ってあんなダイナミックに動けるんだ…というか、ルイスがああいうダイナミックな動きをする感情を胸のうちに持っているんだっていうのが分かりやすく見えて。
あと華鈴さん少女のお父さんをやってるときも、娘大好きが全面的に溢れていて素敵でした。

・柴野さん
貴族としてのたたずまいもそうですし、グレッグソンとの日替わりも可愛くて好きでした!
あとバックコーラスの指揮もなさっていたとのこと。あのばちっと嵌ったかっこいいコーラスも大好きです。ありがとうございます。

・中村さん
舞台の中央で、躊躇いながらも市民と手を握る。作品のテーマとなる部分を担ってくれてありがとうございます。
直前の火に焼かれるシーン、照明と相まって、何とか火を消し去ろうとのたうち回る動きもすごかった。

・山下さん
先程木村さんのところで触れた、初めて貴族からバケツを受取るところ。それをちょっとためらいながらも受け取る演技がめちゃくちゃ好きです。
その直前に、貴族がバケツを使いこなせるか見ものだぜっていう揶揄丸出しの台詞が、それがまた「今までそうだったよね」感が強いから余計に。

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更に、忘れてはならない、モリミュの音楽を担ってくださっている境田さん、林さん、ただすけさん。
あなた方の曲と演奏がなければ、私はぜったいここまでモリミュにハマっていません。もうこれだけは断言する。
あまりにも聞きすぎて、境田さんかただすけさんのピアノ+林さんのヴァイオリンじゃないと、耳が違和感を訴えるレベルになっていると思います、率直に言えば。苦笑
特に林さん、演奏で雄弁にシャーロック陣営の心を語ってくれるのみならず、裏シャロとして演技のトレースをしたり(今回で言えば、2幕冒頭で一緒にジョン君に頭を下げてるシーンは胸熱だった)、日替わりにも参加してくださったり、何度も言及されてるOp.4でのピチカート+振付をやっていただいたり、ヴァイオリンによるエンターテインメントの可能性を拡げて下さったと本気で思っています。

そして、西森さん。この素晴らしいモリミュという作品の設計図を描き、組み上げて下さったこと、本当にありがとうございます。
西森さんの演出企図を全部受け止めきれている自信は全くないけれど、できるだけ多くを受け止め、噛みしめて、味わい尽くせる観客でありたいとまで思わせてくれる舞台は、なかなかないと思います。
大真面目に、今後モリミュの続編が決まってないとしても、西森さんとただすけさんがタッグを組まれる作品だったら見に行きたいと思うほどに。

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ここまで熱弁振るうほどに熱中したモリミュに関し、今心残りがあるとすれば……
・なぜモリミュという作品をもっと早くから知らなかったのか。Op.1も2も現地で見たかった
・Op.3本当に大阪遠征すればよかった(東京3公演観劇。それでも当時の私としては3回もいくのはすごい話だった)
というどうしようにもないたられば話ばっかりですので笑
盛大にロスってはいるけれど、ネガティブではない。なんか不思議な感覚です。

本当に、本当にありがとうございました。願わくば、この座組でOp.6が見られる日が来たらんことを。

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