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いのちを思う

「そんなこと考える人はいないよ! 」時に言われる。 でも、そんなことのあれこれを考えてしまうのはどうしようもない。 ふと、立ち止まって「なぜだろう? 」と思う。 幼いころ、身近にいた人の影響、もっと言えば幾世代も前の人の思いが螺旋渦巻文様(DNA)に書き込まれているのかもしれない。

暮らしを思うのと、いのちを思うのは違う。 暮らしがあって命があるわけではなく、命があってこそ、日々の暮らしがあるわけだ。 命あっての物種だもの。 暮らしに追われている中で、いのちの終わりが見えた時、初めて人は考えるのかもしれない。 いのちのことを。

普通いのちというと、個人の生存期間、息をしている期間を指す。 医学が目指すのもここで一日でも一秒でも長くしようと懸命の努力がなされる。
いのちにはもう一つ別の側面もある。 生物を連続させていくもとになる力のことだ。 30億年も途切れずに続いているいのちをどうとらえるか。 生きる力、知恵するからだもそんないのちの原動力なのだ。 どうしたって探ってみたくなる(笑)切羽詰まった時が来てからでなく、今。

「死を前にしてじたばたしたくない」確かに! それはあきらめでもあり、覚悟でもあり、「しゃあないな~」と思えることでもある。 かたい言葉で言えば、死生観を持つこと、普段から死について思ってみることではないか。
自分本来のいのちが全う出来ればそれでいい! と思えることではないか。

日常で時々死を思ってみることが、死が射程距離に入った時を支えてくれる。自分らしく生きることにまなざしが向いた時、死は牙をむくものでなく、穏やかな終着駅となる、そんな気がする。いつだっていのちは死と隣り合わせだもの。 太古の海の潮騒を聞きながらの瞑想DVDを作成準備中。寝ながらでもいい、 いのちの連続に想いを馳せる時を持ってみよう!

《なくてもいいおまけ》
「いつか死ぬのならー(死・断章)」訳詩 小久保美保子
 若いころ口ずさんでいたシャンソン。 「いつか死ぬのなら私は選ぶ  若く美しいはたちのころ  二十歳のころ」治療を終えて地元に帰ってきたとき、私は67歳。 くちずさめないよ~(笑)よ~し、訳詩するしかない!
フランス語と格闘して、シャンソンの先生のピアノ伴奏で歌った。 今思えば、病のことを忘れこの歌に没頭したのは、迫っていたかもしれない死と手を結び、心静かになっていく日々だったのかもしれない。
アカペラの詠唱ですが、 気が向けば聴いてみてください。



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