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常識のない喫茶店

いつどんな情報から予約しようと思ったのかも思い出せないくらい前に図書館で予約した本がまわってきた。表紙もタイトルも良さそう。

最初の数ページ読んで、不快な感情が強くなり中断しようかと思ったが、まだまだ電車を降りるのには時間もあったので読み続けた。読み続けていくうちに、これがエッセイであることと、著者の人となりのようなものも見え隠れして、中盤は悪くなかった。ただ、結局最後は読み飛ばした。終盤も大して展開は変わらず、引き続き喫茶店の客の好き嫌いが面白おかしく書かれるにすぎなかったから。
高校の部室での会話みたいな内容だった。妙にあだ名づけに長けた友人がいて、爆笑していたあの頃の会話。周囲の人は全て好きか嫌いに分類されて、あだ名とあるあるエピソードがその区分をより色濃く強め、実際よりも誇張された好きと嫌いの世界が出来上がっていく。
何故そうするか。安心だから。好きを強めて連帯感を感じる。嫌いを強めて、思いっきり弾き飛ばす。全ての人に好かれることを諦めるために、自分から先に嫌いになる。こうすることで、傷つきを減らしているのではないかと思う。

でも、より成熟した人との繋がりには、そんな誇張は要らない。好きも嫌いもはっきりした区分はないし、そもそもそんなジャッジすらしない。
そっちの方が穏やかだ。
本当は筆者は、これこそを求めているのではないかなと思えた。人と生きていくことは、とても、むつかしい。


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