名は佐波吏

「男でも女でも「サファリ」って名付けたいんだ」
結婚して約一年。子供ができたと告げられた時、森西栄一は迷わず口にした。「サファリ…⁈」聞き返す妻の顔は意外と淡々としている。
「どうしても、どうしてもサファリラリーに出場したいんだ。その想いを子供の名前にもこめたいんだ」「名前だとさはりになるね。漢字はこれから考える。とにかく子供の名前はさはりにしたいんだ」
「わかった」頷く妻の顔をみて、栄一はすぐ紙に漢字を書き出し始めた。

東京五輪が終わって5年。
栄一は組織委員会の仕事を終え、念願のサファリラリーに出場すべく、金を貯め腕を磨き、現在はSCCN(スポーツカークラブオブニッサン)の嘱託社員として働く傍ら、ラリードライバーとして日本では指折りの存在になっていた。

妻は、渋谷でいくつも店を経営している中谷商事の社長が紹介してくれた。彼の遠縁のお嬢さんで東京五輪の際には体協に勤めていたという。組織委員会にいた自分ともしかしたらどこかですれ違っていたかもしれない。
4つ年下のミハルは現在、中谷社長の土地を借り、渋谷公園通りの一角にロシア料理店を経営していた。
カリンカというその店はボルシチがとても美味しく、店に入ると彼女とその妹、美人姉妹が笑顔で迎えてくれるとあって、たちまち森西の友人のラリードライバーの溜まり場となった。
彼女に胃袋だけでなく心までつかまれた栄一は、休みの日や仕込みの時間にも「掃除するよ」などと言って店に顔を出した。
真面目で誠実で情熱的な栄一。ラリーレーサーは危険な仕事のため正社員ではなく立場としては日産の嘱託の職員のため、指輪を買える資金もない。そもそもお金は全部ラリーに注ぎ込んでいるので、言葉だけのストレートなプロポーズだった。けれどそのキラキラした目を、情熱を断る理由がない。よし、私が彼の夢をとことん応援しよう。ミハルは経営も軌道に乗った20代最後の年、結婚を決めた。

「結婚式はお世話になった丹下健三さんのデザインしたカテドラル教会がいいな」
建築家である丹下健三氏は、五輪組織委員会と聖火リレー陸路踏査隊に入るきっかけをくれた人物だ。一時運転手兼付き人をしていた縁もある。
カリンカから見える代々木第一体育館もそうだが、彼のデザインは独創的で美しい。
ところが二人で教会に式を頼みに行くと「信者でないと式はできません」ピシャリと言われてしまった。
栄一は諦めない。2人で毎週末、教会に通った。日曜礼拝に半年も通っただろうか。洗礼まではしなかったが信者扱いとなり、ようやく式をしてもらえることになった。「やったね!楽しみだね!」

栄一は何かを決めた時の行動力がずば抜けていて、困難を一つ一つ取り除きながら、とことん願いを叶えるまで努力する男だった。
ミハルは決めたことは絶対に諦めないその横顔を見て、目的を達成させる苦労は心地よいと知った。
昭和42年○月。ウェディングドレスに身を包み、バージンロードを歩くミハルは、新郎の夢をとことん支えていこうと決めたのだった。

それから一年。子供ができたのだ。栄一はサファリラリー出場の夢を公言してはいたもののなかなか実現しない。そんな時の朗報だった。男でも女でも「さはり」にするとミハルに告げると、一瞬ポカンとして「そうよね、あんなにサファリに夢中なんだものね、そうなるわよね」とすんなり受け入れた。

昭和44年1月2日朝。三日前から入院していた妻から昨夜やっと生まれたと電話を受けた栄一は次の日、松葉杖をつきながら、骨折していることを忘れたかのようなスピードでやってきて新生児室に張りつき、その後ミハルの病室にやってきた。「生まれたなぁ、さはりが。かわいいなあ。君も三日間お疲れ様でした」

栄一は女の子と聞いて出生届に「森西沙波里」と書いて区役所に出しに行った。ところが「沙」という漢字が名前に使えないのだとつき返されてしまった。
そこで持ち帰り、沙を同じ画数の「佐」にして姓名判断してもらった。すると「里」は相性が悪くなり、六画の「吏」を使うことになった。

栄一から漢字を聞いてミハルは「佐波吏」と書いてみた。字面は男の子みたいだけど、ひらがなで書けば可愛いわ。よろしく、さはり。

さはりと呼ぶのに慣れた頃、同じ年に生まれた彼の親友の娘もケニヤのナクル湖から名付けたと聞いて、サファリに取り憑かれた男の考えることは同じなのね、とミハルは思った。
続く

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