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電話ガチャン事件その2。

そういえば、父からも電話をガチャンと切られたことがありました。

母の電話ガチャンも「事件」でしたが、父のはそれを上回るすごい「事件」でした。わたしにとっては、かなり衝撃的な。

初めて勤めた会社を辞めたのち、1年近くアメリカで過ごしたことがあります。事後承諾にならぬよう、父には会社を辞めたい旨を相談し、その後はしばらくアメリカに行きたいことと、その理由を説明したところ。

父は「まるで相談しているように話しているが、すでに会社を辞めることも、アメリカに行くことも決まっているんだろ。辞めるのも行くのもアヤの勝手だが、旅費は一切出さないから、それで行けるもんなら行けばいい」と、わたしのココロ内を見透かしてそう言うのでした。

受けるかたちでわたしは「1年間渡米する旅費と生活費は、すでに自分で貯めました。お父さんからの援助をあてにはしていません」と、応えつつ少しドヤ顔になっていたかもしれません。

父は絶句したのち「おぉ、そうか、行きたいなら行けばいい!」と、少し声を荒げ、話しが終わってしまいました。



わたしは典型的なジャジャ馬的末っ子で、いつも事後報告ばかりで鉄砲玉でしたから、今回ばかりは事前に相談をして、父の応援(お金ではなく心の)を受けて行きたい思っていたのです。が、わたしの浅はかな目論見どおりにはいかないものです。

父が見透かしてたように、わたしはすでに会社に辞表を出していましたし、アメリカで通う語学学校も、さらにはホームステイ先もほぼ決まっている状況だったのです。あとは、父や母から明るく「行ってらっしゃい」を言ってもらえたら、大手を振って夢のアメリカ生活に飛び込んでいける、そう思っていたのです。



それから4か月後、東京のアパートを引き払い、いったん実家に戻ってからアメリカに出発することになりました。出発当日、義兄の運転で母やまだ学齢前の甥や姪が成田まで送ってくれることになっていました。父は玄関にさえ見送りに来ず、探せば大浴場の天井を掃除していました。なにもいまのいま、天井掃除などしなくてもいいのに。

「お父さん、行ってくるね。着いたら電話するね。手紙も書くから」

父は脚立の上で振り向きもせず、背中を向けたままひと言だけ「おぅ」と言いました。心配のあまり、声も出なかったと聞いたのは、ずいぶん時間が経ってからのことです。

ロサンゼルス経由サンフランシスコ行き。バークレーのホームステイ先に到着するのは翌日の予定でした。

が!
遅延によりロサンゼルス泊になることに。ろくに英語も話せないのに、どうやってホテルまでたどり着いたのでしょうか。初日からすごい冒険したものです。自分の意志ではないけれども(笑)。

それでも這う這うの体でホテルにチェックインし、ひと息ついたとき「あ、家に電話をしなきゃ」と思い立ち、フロントに電話をしました。1986年のことで、インターネットもスマホもない時代です。国際電話のかけ方だけは、出発前にしっかり覚えておいたのです。

I'd like to make a collect call to Japan.

OK! と明るい声で対応され、電話が切れました。
待つこと数分、ドアがノックされ、開けてみるとコカコーラを持った女性が立っていました。

?!?!?!

どういうわけか、コカコーラがルームサービスで運ばれてきました。いくらわたしの発音が悪いからといって、どこをどう聞き間違えたら「I'd like to make a collect call to Japan.」がコカコーラのルームサービスになるというのでしょう(笑)。

わたしは筆談で日本にコレクトコールをかけたい旨を伝え、やっと電話をすることができました。交換手が「アメリカからコレクトコールが入っています。お受けしますか?」と聞いています。

ドキドキドキキ。
どうやら出たのは父のようです。つないでくれ、と父が応えるや否や、わたしが「お父さん、あのね、いまロサンゼルスのホテルなの。飛行機が遅れて、、、」と矢継ぎ早に話すと、

おぅ、分かった。無事についてよかった。気をつけてやれよ。じゃあ、忙しいから切るぞ。ガチャン。

え?お父さん!?!?
まだ無事についてないんだけどーー
あのね、あのね、あのぉーーーーー
ツーツーツーツーツー

母のガチャンも強烈でしたが、父のガチャンはそれの遥か上をいっていました。似たもの夫婦だったのですね。おかげで逞しく育ちました。
ツーツーツーツーツー

そんなこんな。
わたしのアメリカ生活は、飛行機遅延によるホテル泊のちコカコーラのルームサービス、そして父の電話ガチャンでスタートしたのでした。
ツーツーツーツーツー(笑)

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