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宮崎駿監督作は「つまらなくても面白い」という矛盾を成立させる

映画を観て、面白かったと感じる。エンターテインメントの良さを享受した瞬間である。

では、つまらなかったときはどうか。

金返せ、時間返せ、という気分になる。

しかしその感情を誰かと共有するとどうなるか。

「そうそう!あそこがな!よくわかんねえよな!」
「な!客を置き去りにしてるよな!」

この瞬間に楽しさが生まれる。

この楽しさを分解すると、そこにはやはり「共感」がある。

10年振りの宮崎駿監督作『君たちはどう生きるか』は、全く分からなかった。しかしその感情を、誰かと共有した瞬間楽しさが生まれる。

私がエンターテインメントに嘘をつかないのは、正直な自分でありたいとかそれがエンタメへの正しい姿勢だとかよくわからないことを抜かすインチキキラキラ野郎の戯言ではなく、誰かと共有する楽しさが消えてしまうからだ。

まずいものをおいしかったと嘘をついて、おいしいよねと言ってる人と無理やり話を合わすのは、3回のつまらなさを潜り抜けないといけない。まずい、でもおいしいと嘘をつく、その嘘の感情を誰かと共有する、計3回。

『君たちはどう生きるか』は、公開4日目で興行収入21.4億円を突破した。

この作品は、「おもしろかった」と「つまらなかった」の強い両極端ではっきりと意見が分かれている。

そうすると人は、観てみたいと感じるようになるはずだ。自分をリトマス試験紙に置き換えて、一度試してみたくなる。

それができたら、エンターテインメントとしては成功だと思う。

注目する、見る、感想を言いたくなる、この3つが実現できている作品は、どんなものでも成功だ。

ただし、あまりにも期待外れだった場合はその作品単体としては成功でも、次はない。YouTubeのサムネ詐欺も同様、最近で言えばドラマ『真犯人フラグ』のような、禁じ手すぎんだろ、ふざけんな、とみんなで言い合っている内は良いが、このプロデューサーや脚本家の次はない。信用がなくなったから。

「まずい」の共有より、「うまい」の共有の方が楽しいに決まっている。しかし、「まずい」の共有でも楽しいのが宮崎駿という人だ。

『君たちはどう生きるか』はつまらなかったが、次回作があるなら観てみたいと強く感じた。『崖の上のポニョ』より『風立ちぬ』を観たときより何倍も感じた。

「もう俺の好きなようにはやったから、次はお前らが好きそうな、ど真ん中をやってやるよ」

になるのか

「まだ全然俺のやりたいことは表現できていない、もっと自分の表現を追求する」

になるのか。

どっちへ行くのか。

つまらなかったのに、次回作が一層気になる。

宮崎駿だからだ。

私たちが宮崎駿という人物を圧倒的に好きだからだ。

この作品を受けて、「制限こそ悪」と捉えるクリエイターが増えてしまうと思う。単独出資で宣伝もせず、ちゃんとここまでヒットするんじゃないか、やっぱり余計なものはいらないんだ、と勘違いする人。

制限がいかに発想という名の翼を自由に羽ばたかせてくれるかを知らず、自分が好きなものを好きなように作るぜ!と言って何十年も芽が出ず消えていったクリエイターを、音楽メーカー勤務時代から換算すれば私は何十人も見てきた。

“自分の好きなようにやった表現を大勢の人に見てもらう”

これは、ある種クリエイターのゴールだ。

それは宮崎駿だから出来たこと。つまらなくても次回作がより気になるのも、宮崎駿だからだ。

「自分が好きなようにやった表現を大勢の人に見てもらう」ことがしたいなら、まず宮崎駿くらいのところまで行かなければならない。

そしてなにより、宮崎駿賛否両論祭りに参加するなら今だ。

今ならどっちの感情になっても、必ず誰かがいてくれる。

「エンタメはリアルタイムで見ろ」と私が良く言う意味はそこにある。漫画は完結してから一気に、ドラマは終わってから一気にという人がいるが、これは、エンターテインメントを楽しむ確率を自ら下げる行為だ。

人の関心が高い時期に見ないと、誰かと共有することができない。祭りの開催時期に行くから神輿があって屋台があって大勢の人で賑わっているのに、終わった翌日行っても誰もいない。そこには日常しかない。

それを分かっているからみんな観に行く。結果、宮崎駿の勝利だ。それくらい、私たちはあなたの創る作品に魅せられてきた、という証明である。


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