見出し画像

ウパメカノがキャリアを語る

ウパメカノは決して大言壮語をするタイプではなく、インタビューに応えることは滅多にない。

今回、ウパメカノが『キッカー』のインタビューに答え、ライプツィヒでの4年半、指導を受けた監督、母親からのアドバイス、バイエルンへの移籍などについて語っている。

ウパメカノのコメント

― 今季限りでライプツィヒを離れ、来季はバイエルンに移籍する。あなたにとって、ライプツィヒは小さすぎた?
「いいや、違う。少なくとも僕にとっては、さらなる成長のためにクラブを変えるんだ。家族や代理人とたくさん話し合った結果、新シーズンに向けてバイエルンに移籍することが、自分にとってもキャリアにとっても最良の決断だと感じた」

― ナーゲルスマン監督も一緒にミュンヘンに行く。それによって、バイエルンでのスタートはずっと楽になる?
「2月に移籍を決めた時には予測できなかったことだ。だけど、彼のプレー哲学やスタイルを知っているので、もちろんいいことだとは思う。それでも、他の選手と同じように、僕もゼロからのスタートだ」

― この2年間、ナーゲルスマン監督の下で何を学んだ?あなたの成長において、ナーゲルスマン監督はどんな意味を持っている?
「彼と一緒に仕事をするのは楽しいよ。彼はゲームを理解していて、何が必要なのかを正確に把握している。彼の下で、僕は大きく成長した。特に、戦術面で彼は僕を大いに助けてくれた。たくさんのビデオを見て、自分がどこを改善できるかを教えてもらった。このような意欲と専門知識を持った監督が傍にいることは重要なことだ。僕は彼を褒めることしかできないし、彼と一緒に仕事を続けられるのは幸運なことだと思う」

― ライプツィヒでの4年半の間に決定的な出来事があったが、何が心に残っている?
「4年半というのは長い時間だけど、すべてが急速に発展したので、僕にとってはずっとずっと短く感じられる。その間のことを考えると、ポジティブな考えしか浮かばない。僕たちがこれまでに達成したことは素晴らしいことだ。しかし、それは僕たちチームだけではなく、クラブの多くのスタッフも原動力となっている。僕たちはブンデスリーガに足跡を残し、チャンピオンズリーグでは準決勝に進出し、毎シーズン上位でプレーしてきた。これはどれも偶然の産物ではない。1つの試合を選ぶとしたら、2017年のチャンピオンズリーグ初戦のモナコ戦だろうか。あれは本当に鳥肌ものだった」
(※2017年9月13日:CLGS第1節ライプツィヒ1-1モナコ戦)

― あなたにとってライプツィヒでのスタートはそれほど素晴らしいものではなかった(2017年1月にザルツブルクから移籍)。ライプツィヒ移籍後2試合目となった16/17季のブンデス第20節ハンブルガーSV戦(●0-3:H)では、ラルフ・ハーゼンヒュットル監督(当時)がわずか前半31分であなたに交代を命じた。ショックだった?
「あれは確かに難しい瞬間だったけど、ショックというよりはむしろ勉強になった。当時、僕はまだ18歳で、違う国の新しいリーグに来て、今の僕とは比べ物にならないほど未熟だった。あの試合では多くの失敗をしたと思っていたけど、それを長々と引きずる必要はないとも思っていた。僕はいつもポジティブに考え、少年時代から強いメンタリティを持っていた」

― フランス北西部のエヴルーで、アスファルトの上のサッカーケージで仲間とほぼ毎日遊んでいた頃のこと?
「そのとおり。審判もいないし、独自のルールもあったし、厳しい戦いだったよ。転倒して膝が血だらけになっても、起き上がって戦い続けた。それが今でも役に立っている。サッカーケージの中で生き残った人は、人生のいろいろなことで生き残れるんだ(笑)」

― ハーゼンヒュットル監督は、最初のエピソードにもかかわらず、あなたを支えてくれた。彼はあなたにとってどのような存在だった?
「彼は僕を助け、励ましてくれたので、非常に重要だった。彼が僕のような若い選手に自信を持たせるのは簡単ではなかった。でも、彼は僕の味方であり、励ましてくれたので、彼には感謝している。でも、僕はこの信頼が正当なものであることも示した」

― チームメイトのフォシュベリは、あなたのことを“誰も対戦したくない野獣”と言っている。適切な表現?
「(笑)素晴らしい褒め言葉だね。エミル(フォシュベリ)のような人が僕のことをそんな風に言ってくれるのは、僕にとって大きな意味がある。彼はライプツィヒのレジェンドであり、ブンデス2部の頃から在籍している。彼はクラブの発展に貢献してきた」

― それはあなたにも言えることだ。コロナの影響でファンに別れを告げられないのは辛い?
「とても悲しいね。特にライプツィヒでは、このようなことに慣れていない。なぜなら、僕たちとファンはとても親密で、実際に家族のようなものだからだ。ここからの数試合では、彼らのためにアクセルを踏み続け、目標を達成したいと思っている。少なくとも、スタジアムに来られない方には、テレビの前で喜んでもらいたい」

― ライプツィヒには常にフランス語を話すチームメイトが多く在籍しているね。ナビ・ケイタ(現リヴァプール)、コナテ、ムキエレ、ハイダラなどだ。それはあなたにとってどのように役に立った?
「先ほど説明したように、僕たちは家族であり、家族であれば誰もがお互いに話しをする。しかし、同じ母国語を話す選手がチームにいる場合は、もちろん違いがある。単純に、自分の意見をよりよく表現できるし、お互いの理解も深まる。それはチームメイトだけでなく、ババ(※チームマネージャーのババカル・エンディアイェ)にも言えることで、彼とは何度も会話をして、とても助けられている。とはいえ、ここ数年でドイツ語はかなり上手くなったよ」

― ナビ・ケイタは、ライプツィヒの選手で初めてビッグクラブに移籍した。しかし、彼はリヴァプールでは決して幸せではなかった。これは、バイエルンでプレーすることが思った以上に難しいかもしれないという警告かな?
「ナビ(ケイタ)は素晴らしい選手だ。聞くところによると、これまで彼にはいろいろなことが起こっていて、あまりうまくいっていないようだ。彼が再びフィットして健康になれば、リヴァプールを助けてくれるだろう。僕としては、そのことを心配していない。今のところは、ライプツィヒでできるだけ成功したシーズンを過ごしたいと思っている」

― これまで対戦した中で一番良かった選手、一番嫌だった相手は誰?
「対戦したことのある良いストライカーはたくさんいる。ロベルト・レヴァンドフスキは本当にトップクラスだし、アーリン・ホーランも非常に強い。しかし、次の再会を前にして眠れない夜を過ごすほど、多くの問題を引き起こしたと言えるような相手はいないよ」

― 試合や対戦相手に対して、どのような準備をする?事前に相手を研究するの?それともすべてを受け入れる?
「ライプツィヒではよく準備してくれていて、情報やビデオ付きのマッチプランを常に受け取っている。また、ディフェンダーが相手のストライカーの長所や特徴を示すシーンを入手できるアプリもある。もちろん、それらは見ているよ。でも、ブンデスリーガに数年いると、ほとんどのストライカーとそのプレースタイルはよくわかっているよ」

― あなたのキャリアの始まりに目を向けると、それはレッドブルのサッカー哲学に典型的なものだった。2015年の春、ラルフ・ラングニックが16歳のあなたにザルツブルクへの移籍を説得していた時に、母親のソファの隣に座っていたことを今でも覚えている?
「そうだね、昨日のことのように覚えているよ。ラルフ・ラングニックはまるで科学者のように、他の人には見えない多くのシナリオや展開を事前に見通すことができる。彼がどうしても僕を獲得したいと思って訪ねてきたことは、僕のキャリアにとって最も重要な瞬間だった。その後、家族も僕も、簡単なステップではないけれど、自分のキャリアの鍵になるかもしれないと思うようになった」

― 当時、バイエルンに行くこともできたが、母親が拒否した。あなたの母親はザルツブルクとリーフェリング(ザルツブルクのセカンドチーム)への移籍を希望した。
「確かに、母親は子供の面倒をよく見るものだよね(笑)。16歳の頃は、自分の立場がわからないものだ。バイエルンから誘われた時は、とても魅力的で、眠れない夜を過ごした。僕は最短距離でトップを目指したかったけど、母はこう言った。『まず経験を積んでから、大きなことをしなさい』とね」

― 振り返ってみると、母の言ったことは正しかった?
「当時はなかなか受け入れられなかったけど、今になってみれば母の言うことに完全に同意するよ。僕のこれまでの道のりは正しいものだった。リーフェリング、ザルツブルク、ライプツィヒで経験を積み、徐々に高いレベルで自分を主張できたことが功を奏したのだと思う」

― 当時、あなたは220万ユーロでヴァランシエンヌからザルツブルクに移籍したが、今度は移籍金4250万ユーロでバイエルンに移籍することになった。この金額は気になる?
「まったく気にならない。僕は自分の成長に興味がある」

― 最初に述べたように、あなたの成長はエヴルーで始まった。その時代があったからこそ、今の自分があるのではないかな?
「家を建てるときには、良い基礎が必要だ。そうすれば、他の階の上にもう1つの階を築くことができる。僕はあのサッカーケージの中で基礎を築いた。そこには他にも自分よりも優れた選手がたくさんいたし、彼らは絶対に成功すると確信していた。しかし、彼らが成功しなかったのは、トップに立つために必要な勇気、意志、自分に対するタフネスを持っていなかったからだ。才能だけを頼りにしている人は、なかなか成功しない」

― アスファルトの上のサッカーケージで遊んでいた時代が土台で、16歳でリーフェリングに加入した時が2階部分。最初の頃はイエローカードをもらうことが多く、4試合目となったバッカーインスブルック戦では2枚目のイエローカードで退場処分を受けた。まず、デュエルのコントロールやルールを守ることを学ぶ必要があった?
「そうだね(笑)。ケージの中でファウルを取られたら、それに応じて反撃しなければならなかった。ケージの中では何も我慢できない。このモットーを持ってリーフェリングに行ったんだけど、最初のうちは反則をしないようにするのが難しかった。しかし、多くのイエローカードを受けた後、ある時点で気づいたんだ。『このままではいけない、もっと分別を持たなければならない』とね」

― コロナで寂しさを感じることはある?
「コロナは、世界中の誰にとっても疲れる挑戦だ。そして、多くの人が本当にひどい状態にあることもよくわかっている。僕たちサッカー選手は、厳しい条件のもとで仕事をさせてもらっている。僕にとって一番大切なのは、家族、母、5人の兄弟姉妹だ。彼らに会うと、力と勇気が湧いてきて、それから安心感と笑顔が生まれる。パンデミックのせいで生活が変わってしまったので、最初はそれを受け入れるのに苦労した。しかし、この時期に家族に会えないことよりも悪いことがあると言わなければならない。それよりも、みんなが健康でいることの方が大切だ。WhatsAppやSkypeでみんなに会えるので、何もしないよりはマシだと思うよ」

― 昨年9月5日に行われたUEFAネーションズリーグのスウェーデン戦でフランスA代表デビューを果たしましたけど、11月と3月の代表戦は怪我で欠場した。夏のEURO行きのチケットのことは心配している?
「いいえ。コンディションが良くて最高のパフォーマンスを発揮できれば、自信を持ってプレーできると思う。EUROに出場するかどうかは別問題だ。僕のポジションには、何年も前から活躍している経験豊富な選手がいる。ルーキーである僕は、まだ自分自身を証明しなければならない」

― ライプツィヒで最も恋しくなるものは何?
「例えば、ここライプツィヒの素晴らしい人々だね。ライプツィヒの人々は皆、とてもフレンドリーで、心が広く、僕に敬意を持って接してくれた。否定的な記憶はない。ここでプレーし、成長することを許されたことにとても感謝している」

参照:5月3日、kicker

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?