1963年11月ジェム南ベトナム大統領とケネディ米国大統領の暗殺
昭和38(1963)年11月2日,当時のベトナム共和国(南ベトナム/Cộng hòa Miền Nam Việt Nam)で反大統領軍事クーデターが発生,同国の初代大統領ゴ・ディン・ジェム(Ngô Ðình Diệm )が殺害された。
ジェム大統領は,サイゴン市に隣接する中華街(チョロン/Chợ Lớn,現在のホーチミン市5区)にある教会に隠れているところをクーデター軍により発見され,引っ張り出された上で,その場で処刑された。
本稿の写真は,平成30(2018)年の11月28日に撮影したもの。
昭和36(1961)年1月20日に就任した民主党のケネディ大統領は,アイゼンハワー政権下の1960年には500人程度に過ぎなかった南ベトナム駐留のアメリカ軍事顧問団を,1961年末には3000人超に,さらに1963年11月には1万5000人超にまで増強させていた。
合わせて1962年2月8日には「南ベトナム軍事援助司令部」を設立し,爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や,戦車などの戦闘車両や重火器などの装備を南ベトナム送るなどして,ベトナムへの軍事介入を階段を降りるように増強していった。
その大義は,アメリカとその傀儡である南ベトナム政府から南ベトナム人民の「解放」を掲げ,南ベトナム国内でゲリラやテロなどを行なっていた南ベトナム解放民族戦線(Mặt trận Dân tộc Giải phóng miền Nam Việt Nam,いわゆるベトコン)を制圧し,南ベトナムの共産化を防ぎ,その平和を守ることにあった。
さらに,ケネディ大統領は,ジャングルに潜むベトコンを”燻り”出すため,1961年11月30日,南ベトナム国内における枯葉剤使用計画を承認し,現在にまで残る悲劇の最初の爪痕を残した。
ジェム大統領はカトリック教徒。
当初は同じカトリック教徒のケネディ大統領の信頼を得ていた。
しかし,上記のような米国による南ベトナム国内でのアメリカ軍蹂躙を承認したこと,さらには思想信条に基づく仏教弾圧などを行ったため,国内での支持を失い,南ベトナム国内は混乱した。これをジェム大統領の責任と判断した一方当事者のケネディ大統領は,ジェム大統領を見捨てる決断をする(クーデターを指示したとも黙認したとも言われる。)。
こうして,南ベトナムのジェム大統領は昭和38(1963)年11月2日に暗殺され,何の因果か,ケネディ大統領はその20日後の同月22日に暗殺される。
ジェム大統領とケネディ大統領の死は,結果的に,さらなる南ベトナムの混乱と,それに伴うアメリカ軍の介入拡大化を招き,泥沼のベトナム戦争へと歴史が動いたが,その因果関係は未だ証明されていない。
東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。