明治日本が獲得した租界と治外法権
”租界”という響き
9都市にあった日本租界
「租界」という東洋的妖艶な響きに,当の日本人でさえも胸が騒つく。
上海がその代表であるが,当の日本も,既に明治の御世に,自らは「居留地」と呼ぶ西洋式の「租界」を,清王朝9都市に開いていた。
租界<租借地<割譲地
租界に類似した概念に割譲地(イギリスによる香港島及び九龍,日本による台湾など)と租借地(イギリスによる香港新界,日本による大連・旅順,フランスによる広州湾など)がある。
例えば香港島の割譲は,同島をイギリスの完全な領土とする(当然,返還不要)もので,清国はその主権を失い,国家三権(立法,行政及び司法)はイギリスに帰属する。
例えば香港新界の租借は,英清間の展拓香港界址専条に基づき1898年7月1日から99年という非常識な期間を借り受けるというもので,期限到来時には返還する義務を負うが,地代の支払いは事実上不要とする。主権は清国に残すものの,三権はイギリスに帰属し,軍隊を駐兵させることも可能であり,実態は割譲と変わらない。
ちなみに,1997(平成9)年7月1日,「香港」が中華人民共和国に返還されているが,これは99年間租借された新界について,その期間が満了したことに基づく。他方で割譲された香港島や九龍については,イギリス領土なので返還する必要はないが,中華人民共和国政府との交渉の結果,「一国二制度」を条件に租借地(新界)と合わせて返還に応じたという経緯がある。今日日,中共によって「一国二制度」の約束が反故にされ,大陸との同化が進められている香港の現状に,イギリスが憤激している理由はここにある。
以上に対し,租界の基本的な法的性質は,土地の賃貸借契約であり地代を支払う関係にある。正面からの駐兵権はないが,国家三権(立法,行政,司法)のうち,警察権やインフラ整備など行政権の一部が移譲されていることに特徴がある。
他方,このあくまで清国である租界(居留地)に住む外国人(日本人)の生命財産の安全を,”野蛮”な清国(中華民国)官憲から保護するための権益こそが,かつて日本史で習った治外法権(領事裁判権)というもの。その実質的な意味は,国家三権のうち司法権の一部を清国から奪うことにある。
日清戦争が契機
1895日清講和条約/下関条約
明治の日本が「租界」という形で大陸に進出した端緒は,日清戦争の勝利である。
明治28(1895)年4月17日,初めての対外戦争に勝利した日本は清国との間で日清講和条約(いわゆる下関条約)を締結する。
同条約は,朝鮮の清国からの独立(1条),台湾や遼東半島の割譲(2条)などが一般的に知られている。しかし,台湾は清国が”化外の地”としかみていない”島”,遼東半島に至ってはロシアを中心とする三国の干渉により返還を強いられた。日本の中国本土への進出という視点からは,その第6条にこそ意味がある。
第6条2項1号は,それまで外国に閉ざされていた沙市,重慶,蘇州及び杭州の4都市及びその港(海港又は河川港)の解放を規定している。
上海,厦門,天津,漢口及び福州については,アロー戦争(1856年〜)を既にイギリスが開市・開港させていたが,沙市,重慶,蘇州及び杭州を清国に開かせたのは,明治の日本。
日清通商航海条約
上記下関条約(日清講和条約)第6条1項では,日清間で新たな「通商航海条約」を締結することが,合意されていた。
日清間では,1871年9月13日(明治4年7月29日)に変則的ながらも対等な日清修好条規が締結されていたが,日清開戦により失効していた。
この日清修好条規に代わるものとして,下関条約から1年3ヶ月後の明治29(1896)年7月21日に調印,同年10月20日に批准されたのが,日清通商航海条約である。
もっとも,日清通商航海条約の内容については,既に下関条約第6条1項において「現に清国と欧州各国との間に存在する諸条約章程をもって,該日清両国間諸条約の基礎となすべし」と規律されていた。要するにイギリスなどと同様の”不平等条約”であることが予め決められていた。
日清戦争における日本の勝利は,両国の関係を,日清修好条規(明治四年)時の”平等”から,”上下”のものに転じさせた。その典型が,租界を担保する治外法権(領事裁判権)である。
治外法権(領事裁判権)の法的根拠
清国が日本に認めた治外法権(領事裁判権)
幕末・明治初期の日本も甘受を余儀なくされた領事裁判権(治外法権)は,清国からみれば「不平等」ではあるが,非近代国にして価値観を共有しえない彼国との通商(貿易)する上で,それを担う自国民の人権を保護するためには必須な権益である。
日本が清国に認めさせたそれは,日清通商航海条約の第20条から第24条に規定されている。
領事裁判権(≒治外法権)の中身
日清通商航海条約第20条は「領事裁判権(治外法権)」に関する総則的な規定。清国に居留する日本人に対する裁判は,清国政府ではなく,在清国の日本領事が行うというもの。ただ,刑事事件と民事事件とで,若干規律が異なる。
領事裁判権(治外法権)の典型として,刑事事件に関する準拠法と裁判管轄について規定したのが第22条。例えば,清国内で”犯罪”を犯した日本人については,日本の刑法に基づいて,日本の領事官が裁判を行うことになっている。これに対し,日本人に対して”犯罪”を犯した清国人については,清国の”刑法”が適用され,清国官憲により裁かれる。
民事事件については第21条が規定している。清国人を原告とし,清国在留日本人を被告とする民事訴訟については,日本領事が裁判権を有する。逆に,清国在留日本人を原告とし,清国人を被告とする民事訴訟は,清国官憲に裁判権がある。
このように,少なくとも原告となる日本人については,清国の”法律”が適用されるという意味で,完全な治外法権ではない。日本人を被告あるいは被告人とする裁判に限り,日本の領事に裁判権が認められているという意味で,この権益を「領事裁判権」と称するのが,定義としては相応しい。
当時の清国は,欧米が考える法治国家とは,あまりに駆け離れた極東の異空間(現在もか)。近代化した欧米からすれば,凌遅刑(生きてる人間の肉体を少しずつ切り落として殺す処刑方法)まであり,しかも西太后あたりが恣意的に裁くような国に,自国民を貿易に送り出すことができない。自国民を保護し,通商を促進するためにも,治外法権(領事裁判権)を認めさせることは必須。この現実を,アジア側からみれば「不平等」に映るだけ。
清国と同類と見做されていた日本は,近代化を無理にも急ぎ,明治27年(1984)年7月16日,イギリスとの間で日英通商航海条約を締結,これに他の欧米諸国も続き,治外法権(領事裁判権)の撤廃を達成した。
これに対し,清国存命中には実現できず,後継の中国民国において治外法権が撤廃されたが,それも第二次大戦中の昭和18(1943)年まで待たなければならなかった。
”租界”の法的根拠
裏表の領事裁判権と租界
領事裁判権(≒治外法権)に基づいて邦人の人権が保護されてこその,租界(居留地)である。
日本は,早くも明治時代に,沙市,重慶,蘇州及び杭州の4都市と,上海,厦門,天津,漢口及び福州の5都市の合計9都市に租界を獲得している。
以下,租界設置に至る経緯とその法的根拠を述べるが,前4都市と後5都市を分けたのには意味がある。
日本が開かせた沙市,重慶,蘇州及び杭州
沙市,重慶,蘇州及び杭州の4都市における租界の設置は,日清講和条約(下関条約)第6条2項1号に根拠がある。
同号の本文に基づき,沙市,重慶,蘇州及び杭州の4都市及びその港(海港及び河川港)が日本のために開かれた。これらの4都市港は,イギリスなどが既に開市・開港させていた上海や天津と違って,日本がオリジナルに清国に開市・開港させたもの。
そして,同号の但書が,新たに開かれた沙市,重慶,蘇州及び杭州に,日本人居留地(租界)を設置する法的根拠となった。同号の但書は,日本が開かせた沙市,重慶,蘇州及び杭州について,「現に清国の開市場開港場」と「同一の特典及び便益を享有すべき」としている。「現に清国の開市場開港場」が上海,厦門,天津,漢口及び福州などイギリスが既に開かせていたところ。つまりこの但書は,日本が開いた沙市,重慶,蘇州及び杭州の4都市港に対し,イギリスによる上海,厦門,天津,漢口及び福州など「現に清国の開市場開港場」と「同一の特典及び便益を享有すべき」としているのである。そして,上海や天津などにおいて既にイギリス等に付与されていた特典や便益の典型が,居留地(租界)を置く権利。
要するに,日清講和条約第6条2項1号但書こそが,日本が清国に対し,沙市,重慶,蘇州及び杭州に租界(居留地)の開設を請求する法的根拠となった。
イギリスが開かせた上海,厦門,天津,漢口及び福州
これに対し,上海,厦門,天津,漢口及び福州など「現に清国の開市場開港場」において,日本が租界の設置を清国に要求しうる法的根拠となるのが,最恵国待遇という清国との約束事。
最恵国待遇とは,簡単に言えば,相手国(清国)が他国(英米など)に認めた権益を自国(日本)に対しても付与するよう要求できる権利のこと。
下掲の日清講和条約第6条1項3文は,日清間で新たな通商航海条約が締結までの暫定的な最恵国待遇を定めている。予定どおり締結された日清通商航海条約の同条約第25条2項(下掲)において,清国が日本に認めた最恵国待遇が規定されている。
「租界」に関する最恵国待遇の具体的機能は,イギリスなどが上海,厦門,天津,漢口及び福州において既に獲得していた特権,免除及び利益,つまり租界を設置する権利を,日本にも認めさせるもの。
他方,イギリスなども,当然,清国に対し最恵国待遇を認めさせていた。
そのため,イギリスやフランスなど欧米列強は,清国との条約で既に獲得していた最恵国待遇に基づいて,新興日本が獲得した沙市,重慶,蘇州及び杭州の4都市に租界(居留地)を設置する権利を自らにも要求,実際,日本に続いてこれらの地に租界を開くことになる。
8都市に置かれた日本専管租界
総論
このように,明治の日本は,日清講和条約及び日清通商航海条約に基づいて,租界を開く潜在的権利を獲得した。
続いて日本は,これを顕在化させるための,総則的な取極めを清国との間にした。
それが,日清通商航海条約の批准の前日,明治29(1896)年10月19日に調印された清国新開市場に日本専管居留地設置其の他に関する議定書である。
その第1条には,日清講和条約に基づく新開通商市港場(沙市,重慶,蘇州及び杭州)に,日本が占有する居留地(専管租界)を置くことが定められている。それだけでなく,居留地(租界)の警察,インフラ整備などの行政権が,日本領事の専属とされている点が大きい。近代国家の三権のうち,司法権(治外法権/領事裁判権)だけでなく,租界においては行政権も一部ではあるが外国(日本)に移譲されていた。
第3条では,イギリスによる既開通商市港場(上海,厦門,天津,漢口及び福州など)についても,日本が請求した地に,日本のための専管租界を置くことが規定されている。後述するが,専管租界の候補地には上海も含まれていた。
明治日本は,この総則的な清国新開市場に日本専管居留地設置其の他に関する議定書と並行して,租界(居留地)ごとに,その具体的な地理的範囲や移譲された「行政権」の具体的内容について,清国との間で取極めを行い,実際に租界を開設,運営していった。
杭州租界
最初に日清間で取極めがなされた租界は,浙江省の杭州。
上海からも近く,観光地で有名な西湖がある。
杭州租界に関する具体的な日清間の取極は,以下のもので,本稿に関する主な規定を抜粋する。割譲地や租借地ではないので,借地料(地価)の金額が重要な交渉事項だった。加えて追加取極書で,警察権を含めた行政権の具体的な内容が規定されている,
・明治29(1896)年9月27日付け杭州日本居留地取極書
・明治30年5月13日付け杭州日本居留地追加取極書
・同日付け杭州居留地内道路築造費等償弁に関する往柬(日本から)
・同日付け風俗治安の取締に関する往柬(日本から)
・同日付け大街路取締に関する往柬(日本から)
・同日付け取極書実施に関する往柬(日本から)
蘇州租界
江蘇省蘇州府。
杭州よりも上海に近い太湖のほとり。
李香蘭主演の映画「支那の夜」(昭和15/1940年6月公開)の劇中歌「蘇州夜曲」は,その当時の雰囲気を伝える。杭州租界に関する具体的な日清間の取極は,以下のもの。
・明治30(1897)年3月5日付け蘇州日本居留地取極書
・同月3日付け蘇州居留地内地税に関する往柬(日本から)
沙市租界
荊州府の沙市。
明治31年8月18日付け沙市日本居留地章程
重慶租界
四川省の重慶府。
後の昭和12(1937)年11月20日,南京を追われた中華民国(蒋介石政権)国民党軍が本拠地とする,遥か内陸の四川省重慶にも日本は租界を開いた。チベットを水源とする揚子江(長江)は,重慶も流域とし,漢口(武漢),南京,上海を経て東シナ海まで達した。
明治34(1901)年9月24日付け重慶日本専管居留地取極書
漢口租界
漢口すなわち武漢。
令和のパンデミック震源地にも日本の租界があった。
重慶同様,内陸ではあるが,東シナ海から揚子江を延びており,河川港がある。
アロー戦争後,1858(安政四)年6月13日から同月27日の間に清国は,ロシア,アメリカ,イギリス,フランスの順で天津条約を締結,これにより漢口を開市・開港した。1861年(万永二年/文久元年),まずイギリスが租界を開き,日清戦争での清国の敗北後,他の欧米列強がゾロゾロと続いた。日露戦争直後から日本居留民が急増し,租界が拡張される。
上海と天津に次ぐ人数の日本人が居留したのが漢口の日本専管租界。
・明治31(1898)年7月16日付け漢口日本居留地取極書
・明治40(1907)年2月9日付け漢口日本拡張居留地取極書
天津租界
天津は清国の首都北京の港町という位置付けのため,1860年以降,イギリスをはじめに,フランス,ドイツ,ロシア,イタリア,ベルギー,オーストリア=ハンガリーが租界を置いていた。日本も名を連ねる。
大正13(1924)年,クーデターで紫禁城から追放された清王朝ラストエンペラー愛新覚羅溥儀が逃げ込み,庇護を受けたのも,ここ天津の日本専管租界。
・明治31(1898)年8月29日付け天津日本居留地取極書
・同日付け天津日本居留地取極書附属議定書
・同年11月4日付け天津日本居留地取極書続約
・同日付け天津日本居留地取極書続約附属議定書
・明治36(1903)年4月24日付け天津日本居留地拡張取極書
下地図は,明治36(1903)年4月24日に日清間で締結された天津日本居留地拡張取極書を踏まえたもの。そのため,地図には他の租界にはない「日本軍兵営」をみることができる。これは,義和団事件鎮圧後の明治34(1901)年9月7日,日本を含む11カ国と清国との間で結ばれた北京議定書第9条(下掲)に基づいて,日本に天津での駐兵権が認められていたから。
この天津に駐兵を認められた日本軍が,「海光寺跡」に司令部と部隊を置いた清国駐屯軍(清王朝消滅後の支那駐屯軍)である。ちなみに,支那駐屯軍は,遥か後年の昭和12(1937)年7月7日に発生した盧溝橋事件の日本側当事者であり,大東亜戦争への遠因となった部隊である。
福州租界
福建省北部の福州。
台湾海峡を渡ると台湾の台北。
その地理的な理由からか,昭和18年7月1日当時,福州租界に居留していた日本人は合計2,077人,うち内地人349人,朝鮮人0人,台湾人1,728人と,対岸の台湾からの居留民が圧倒的だった(下掲の写真参照)。
・明治32(1899)年4月28日付け福州日本専管居留地取極書
・同日付け福州日本帝国専管居留地別約書
厦門租界
福建省南部の厦門。
台湾海峡を渡ると台湾の台南。
福州同様,その地理的な理由からか,昭和18年7月1日,厦門に居留していた日本人は合計7,652人,うち内地人203人,朝鮮人41人,台湾人7,408人と,対岸の台湾からの居留民がさらに圧倒的だった(福州租界で掲載した写真参照)。
なお,厦門沖に浮かぶ鼓浪嶼(コロンス島)には共同租界もあった。
・明治32(1899)年10月25日付け厦門日本専管居留地取極書
・同日付け別約
・明治33年1月25日付け厦門日本専管居留地追加取極書
特別な上海租界
上海租界の特殊性
やはり「租界」といえば上海。
上海の租界は,1845(弘化二)年のイギリス租界に始まる。1848年にアメリカ,1849年にフランスが続いた。
1863(文久三)年9月,イギリス租界はアメリカ租界を併合,ここを他の列強を含め共同で管理する共同租界とした。共同租界における警察を含む行政は,工部局(Board of Works)が執行した。観光地で有名な外灘(わいたん)は,主にイギリスが創り上げた共同租界にあり,後に日本もこの共同租界に加わることになる。
他方,フランスのみは,共同租界へ参加せず,唯一自分だけの租界(専管租界)を維持した。こうして,上海には,英米らの共同租界とフランスの専管租界が併存するに至った。
文久二年五月六日(1862年6月3日),幕府の貿易試験船千歳丸にて高杉晋作や五代友厚らが降り立ったのは,正にこの頃の上海。その僅か30年後の日本は,二人が絶望した清国側ではなく,英米仏側にあったのは,やはり奇跡としか言いようがない。
上海日本租界の経緯
上海での租界設置は,やや曲折した。
前出の明治29(1896)年10月19日付け清国新開市場に日本専管居留地設置其の他に関する議定書,その第3条2項を根拠として,日本は,天津や厦門などと同様,上海に対しても「専管租界」を設置する権利を得ていた。
ところが,日本は上海には「専管租界」を置くことはせず,「共同租界」を構成する一国となる道を選んだ。共同租界を造ったイギリスからの横槍があったとも,明治の日本には維持コストの面で分不相応だったとも言われるが,真相は不明である。兎にも角にも,イギリスが造った「共同租界」への参加であったため,清国との間で取極書などを取り交わすことはなかった。
日本人の多くは共同租界内の虹口区周辺に居留し,日本人街を形成した。これが映画でも描かれる”日本租界”であるが,あくまで「共同租界」の一区画である。
Wikipediaから引用した下図は,ベージュ色部分が共同租界,ワイン色部分がフランス専管租界を示している。
租界の駐兵権〜上海海軍特別陸戦隊
「租界」においては,日本にも治外法権(領事裁判権)や警察権(行政権)が認められていたが,主権は清国(中華民国)にあり,あくまで外国である。そのため,日本の軍隊を駐屯させる権利までは認められていない。この点が,割譲地や租借地との大きな違い。
ただし,天津に限っては,義和団事件後の明治34(1901)年9月7日に北京議定書という,「租界」とは別の法的根拠に基づいて清国駐屯軍(支那駐屯軍)が置かれていたことは前にも触れた。
天津を除く上海などの租界においては,もしも有事には,港湾に停泊する軍艦の海軍兵が陸上兵器をもって居留日本人の生命及び財産を護る役目を担った。これが海軍陸戦隊だが,常設軍ではなかった。
しかし,上海は,中華民国の首都南京に近く,しかも欧米列強が上海租界の治安維持を日本に丸投げしていたこともあって,必然的に,中国人民の対日感情が悪化し,しばしば両軍の衝突が起こることになる。
最初は,昭和6(1931)年9月18日,遙か北方で起きた満洲事変が上海にも飛び火し,上海共同租界内で日本人僧侶が中国人に殺害される事件などが起きた。これが引き金となり,昭和7(1932)年1月28日から同年3月3日にかけて,上海共同租界で日中両軍が衝突する事件が起きた(第一次上海事変)。当時の海軍陸戦隊は900人程度の兵力。
第一次上海事変を受け,日本は,居留外国人保護のためにも軍備増強の必要を実感。昭和7(1932)年10月1日,海軍特別陸戦隊令(昭和7年10月1日内令第299号)を制定した。目的は陸戦隊の常設化と拡充。同令により上海に設置されたのが上海海軍特別陸戦隊。共同租界内の”日本租界”たる虹口区に本部を置き,兵力は約2500人。なお,海軍特別陸戦隊の設置について,中華民国の承認を明文にしたものは見当たらない。
盧溝橋事件→大山大尉事件→第二次上海事変→大東亜戦争
5年後の昭和12年(1837)年7月7日,北京の盧溝橋から始まった日中両軍の衝突(盧溝橋事件)が,翌8月になって再び上海に飛び火してくる。
上海も緊迫していた最中,上海海軍特別陸戦隊の大山勇夫中尉が殺害される事件が起きる。
ところで,盧溝橋事件以降の記録については,当の陸軍ではなく,海軍の軍令部が,しかも未だ勝敗決せぬ戦時中(昭和17年から編纂作業),更に虚飾不要の機密扱いで,「戦史」として編纂していた。これが「大東亜戦争海軍戦史本紀」で,右からも左からも客観性に耐えうる資料。
以下に引用する大東亜戦争海軍戦史本紀の「第六編 事態の拡大及び之に対する措置/第一章 大山大尉事件の突発/第一節 事件の突発及び海軍の応急措置」が,大山大尉事件(事件後に進級)に関して記している。
この事件を機に上海は日中一触即発の状態となった。
海軍の陸戦隊が増強されたが,他方で南京の蒋介石軍も増軍,案の定,昭和12(1937)年8月13日,両軍の衝突が起きる。今回の上海も北京(盧溝橋事件)と同じく中国民国側の攻撃で始まった。
以下,大東亜戦争海軍戦史本紀の「第八編 緒戦期における中・南支作戦/第一章 上海における日支開戦/第ニ節 上海作戦の展開/第一項 支那軍の挑戦」を引用する。
支那事変が日中戦争そして大東亜戦争へと拡大していく分岐点に立たされていたのは,意外に陸軍ではなく,海軍だった。
ただ,当時の上海海軍特別陸戦隊(漢口特別陸戦隊を含む。)の戦力は,約2500名足らず。後に陸軍の応援が上海に到着,共同租界以外を占領下に置く。陸軍は,上海から中華民国の首都南京へと攻め上がり,昭和12(1937)年12月13日,南京を陥落させた。南京を逃れた中華民国の蒋介石は,遥か内陸の重慶に拠点を移す。
租界の日本人(含む台湾人・朝鮮人)
昭和12年7月1日時点の揚子江流域租界在留邦人員数
盧溝橋事件すなわち支那事変前,昭和12(1937)年7月1日時点における揚子江流域の租界の在留邦人員数は,以下のとおり(福州及び厦門は前述のとおり)。
写真の表は大東亜戦争海軍戦史本紀から。
なお,租界以外(宜昌や長沙や南京)にも邦人は居留していた。他方で,上海には朝鮮人が多かった。
戦火拡大に伴う租界からの引揚
それまで「不拡大方針」を貫いていた日本軍であったが,北京・天津など河北地方において昭和12(1937)年7月28日から攻勢に転ずるにあたり,中国内の租界に居留する日本人の引揚が開始された。
重慶,沙市,漢口からの引揚の状況については,大東亜戦争海軍戦史本紀の「第五編 全支作戦展開前に於ける第三艦隊の行動/第三章 居留民引揚の掩護/第一節 漢口上流居留民の引揚」がよく伝えている。
租界と治外法権の撤廃へ
首都南京を追われた蒋介石と国民党軍は,四川省の重慶に拠点を移す。
”敵”の拠点となり,結局日本軍も屈服させることができなかった重慶にも日本の専管租界があった。しかし,蒋介石が重慶に逃れて来る前には,既に海軍の作戦により居留日本人(35人程度だが)は重慶を離れ,上海まで逃れていた。
後の昭和15(1940)年3月30日,上海,漢口,天津など,日本租界があり,かつ日本軍が占領した主要都市の殆どを版図とする中華民国南京政府(汪兆銘政権)が成立する。
英米の支援を受けていた重慶の中華民国(重慶蒋介石政府)は,昭和16(1941)年12月9日,日本に宣戦布告する。反対に,日本は,昭和20(1945)年に戦争が終わるまで,「中華民国」に対して宣戦布告することはなかった。逆に,中華民国(南京汪兆銘政府)は,昭和18(1943)年1月9日,アメリカとイギリスに対し宣戦布告している。
中華民国自らが近代化に励み,不平等条約撤廃に対する国民的な炎が燃え上がったわけではないが,中華民国内の汪兆銘(南京)と蒋介石(重慶)との「正統性」争いと,これを援ける戦争当事国たる日本と英米との思惑とが”加油”となって,この時代まで残っていた「租界」と「治外法権」の撤廃が実現されることになった。
それは,戦後を待たず昭和18(1943)年1月であるが,時系列からみても撤廃の実態から評価しても,日本が主導する形で行われたものとも言い得るものでもある(下掲の拙稿「日本が先行した租界と治外法権の撤廃」に続く。)。
東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。