見出し画像

【ネタバレあり】『さがす』レビュー/小峰健二さん(新聞記者)

※本記事にはネタバレを含みます※

 なにもない空間に向けて、ひとりハンマーを振り続ける男に、カメラがゆっくりとしたズームで近寄っていく。なにかの練習でもしているのか。思い詰めたような男の動きからは、異様な意思が感じ取れる。

 そのようなショットで始まる映画『さがす』に、誰もが胸騒ぎを覚えることだろう。そして、その男が物語の早々に行方をくらますことで、事態はいっそう深刻になるかに思えるのだ。

 生命力を剝き出しにする貧しき兄妹を描いた『岬の兄妹』(2018年)で監督デビューした片山慎三の新作。冒頭で登場人物の性質や境遇、関係性を簡潔に示していく手際は見事と言うほかない。だから観客は、「お父ちゃんな、指名手配犯を見たんや。捕まえて警察につきだしたら300万やで」と言い残して消えた男=原田智(佐藤二朗)がどうやら、のっぴきならない事件に巻き込まれているだろうと、余計な説明もなく理解できるのだ。そして、その父をさがす中学生の娘=楓(伊東蒼)の視点に同化し、大阪の下町からフェリーで渡る島までと続く「冒険」に伴走することになる。

 口は達者でも顔に幼さが残る楓がまず頼ったのは学校や警察だ。ただ、大人たちはまったく役に立たない。だから自分の足を使う。すると、父の名前を使って日雇い現場で働く若い男(清水尋也)に行き当たる。それは世間を騒がす指名手配中の「連続殺人犯」だった。

 なぜ殺人犯は父の名前を使っているのか。なぜ父の服を着ているのか。楓が、この線をたぐることで、物語がより加速する。しかし、一筋縄にはいかない。再び遭遇した殺人犯の足どりを追い、楓は父の居場所を突き止めるのだが、「あれは私のお父ちゃんや」と叫んだ途端に、物語が「3カ月前」に飛ぶからだ。視点も殺人犯のものに変わる。そしてしばらくすると、今度は「13カ月前」。視点は父のものとなる。

 観客は、はたと立ち止まらざるを得ない。いったい誰が誰をさがしているのか、と。事件に巻き込まれたかもしれぬ父を、娘がさがす物語ではなかったのか、と。

 娘から殺人犯、そして父へと視点が変わることで、観客は説話のエアポケットに入れられ、宙吊りにさせられるのだ。ただ、その停滞にもどかしさは感じない。先に謎かけのように示された場面が、別の者の視点に置き換わることで答え合わせができるのだから。

 言うなれば、登場人物による「化かし合い」のゲーム。それがこの映画の肝であることに私たちは徐々に気づき始めるだろう。父は娘に黙って、殺人犯の手を借りて重い病を抱えた妻の「自死」に関与していた。殺人犯は自身の性癖と金への欲望を隠しながら原田智を連続殺人へと巻き込んでいた。自殺志願者の女(森田望智)も、自殺幇助の対価を偽りの紙幣でごまかしたのだった。そしてーー。その「化かし合い」に、冒頭から娘の視点とともに推移を見守っていた私たちも巻き込まれていることを思い知らされる。

 同時に大人たちが、自分の都合で欲望を満たしていることも、手に取るように分かってくる。確かに、自殺志願や貧困や介護といった重い問題もあるだろう。ただ、死体を前に性欲を処理する殺人犯の醜悪な顔はどうか。もっともらしい妻への愛情(のようなもの)に突き動かされて別人をあやめつつも、札束を抱えればよだれを垂らさんばかりの原田智の表情はどうか。

 かたや、子どもはそこに決まって不在だった。母が死へと至る回想の場面では、楓はいつも遠景に追いやられていたではないか。重大な決断を要するとき、決定権は子どもになどないと言わんばかりに。

 しかし、時制が現在に戻る映画の終盤で事態はひっくり返る。大人たちが作り上げた「事件」を年端もいかぬ楓が見破ったかのように示される。

 事件の真相を父子で初めて共有する場面が美しい。かつて家族で親しんだ卓球のラリーをしながら、娘はそれとなく殺人に関与していないか尋ねていく。父は球を打ち返しては、自身の罪を娘が悟っていることを確信していく。互いに少し泣いて、笑いながら。

 大人たちの身勝手なゲームに置いてきぼりを食った娘の言葉が象徴的だ。「忘れたらあかんで、私のことも、お母ちゃんのこともぜんぶ」。そして顔をくしゃくしゃにして、「やっと見つけた。うちの勝ちやな」と言う。

 気づくとボールはないのに、二人は空間に向かってラケットを振り続けている。ひとりハンマーを振っていた父の孤独に寄り添うように、娘は父の動きに無言で同調するのだ。

 このラストは、娘がいつの間にか父と対等な場所、つまり「大人」の位置に上がってきたと示しているようにも思える。自分の都合ばかりで動く大人を頼らず、自らの足で立ち、動いた冒険で、より強く、よりたくましくなったからだろう。

 師匠のポン・ジュノ監督による『パラサイト 半地下の家族』(19年)ばりのどんでん返しでみせるサスペンスとしての出来が素晴らしい。佐藤二朗らキャストの芝居も物語に説得力を与え、外国人労働者や市井の人々の息づかいをさりげなく差し込む片山の演出手腕にも舌を巻く。手持ちカメラやスローモーションの映像が多く、もっとシンプルでよかったとも思うが、芸術性と娯楽性が絶妙に混じり合うあんばいも新人離れしていると思う。

 いや、なにより『さがす』は、楓=伊東蒼が少女から大人へと変貌する成長譚として観客を熱くする、たぐいまれな作品なのだ。

小峰健二 新聞記者
1981年生まれ。大学・大学院で映画史などを学び、2007年に朝日新聞社に入る。札幌、富山、名古屋での10年間に及ぶ事件担当を経て、16年より東京本社で文化担当。映画やテレビドラマを中心に、小説や音楽などカルチャー全般のインタビュー記事やコラムを執筆している。