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『さがす』レビュー/金原由佳さん(映画ジャーナリスト)

原田楓が父、智と暮らす文化住宅は大阪のJR新今宮駅からほど近い場所にある。新今宮駅の南正面には、現在は閉鎖されている、青いロゴでのあいりん労働公共職業安定書の看板で知られたあいりん総合センターがある。ここは日雇いの仕事を求める多くの労働者たちが集う場所だった。豊田利晃監督の『アンチェイン』では、1995年5月5日、アンチェイン梶というボクサーが殴り込みに行く場所である。

今も新今宮駅周辺には荷物を預けることのできるコインロッカーや、コインランドリーが数多く並び、わけあって身ひとつの境遇となって、日本のあちこちから、あるいは海外からやってきた人々を受け入れる宿やホテルが並んでいる。ドヤ街といれるのは日雇いの仕事を求めて集まる労働者を受け入れるヤドが多く立ち並んでいたからで、2021年の正月明けに歩いてみたけれど、あちこちのホテルの壁面に、生活保護が受けられることや、まずは身を落ち着かせることをすすめるビラが貼られていた。智が妻の公子と運営していた卓球場も、地域の子どもたちだけでなく、ふらっとひとときの娯楽を求めてやってきた労働者のおいちゃんたちを受け入れていたのかもしれない。新今宮駅の北正面には星野リゾートが2022年に開業するモダンなホテルがすでに出来上がっていて、大阪府は西成特区構想事業を立ち上げている。楓が住む文化住宅が立ち並ぶエリアにも、いつか、再開発の波が届くのか、そうでないのか、無関係ではいられないだろう。

片山慎三監督は『さがす』において、主に新今宮駅周辺エリアでのロケ撮影を行っていて、楓は縦横無尽にこのエリアを走り回る。冒頭から父、智の万引きの報を受け、スーパーマーケットまで懸命に走り、父の行方がぷっつりとわからなくなった直後は中学校の担任の蔵島みどり先生と級友の花山豊とともに、父探しのビラを新今宮駅周辺で配っている。父の名前を騙って解体工事に従事していた名無しこと山内照巳の行方を探る中で、阪堺線今池駅で見かけたと聞くと、そのままそこで撮影をしている。名無しを卓球場で発見し、逃走する彼を楓が追いかける場面では、動物園前一番街商店街から山王市場通商店街経由で、網の目のような小さな路地に追い詰めるまでを演者もカメラも疾走しながら撮っていく(撮影は池田直矢)。特に山王市場通商店街は狭く短い通りで、よくもまあ、撮影を実現させたなと興奮を隠せない。ロケ地として登場する萩之茶屋南公園(通称・三角公園)は炊き出しの場所としてメディアでよく紹介される場所で、最近では東京での路上生活者によるダンス集団「新人Hソケリッサ!」がドキュメンタリー映画『ダンシングホームレス』において、西成の三角公園夏祭りに参加する場面が印象的に使われていた。

物見遊山に来る者を拒む労働者たちの生活の場所に、昔から馴染んでいるという説得力を伴って楓はこの街に立っている。それは、単に大阪出身で大阪弁が違和感なく喋られるという表層的なものではなく、ひとえに「この機会を逃したくない」と楓役に飛びついた伊東蒼の腹の据わり方に大きい。いわばじゃりン子チエが実体を伴って現れたようなものなのだ。そもそも片山監督の作品は世界観にあえての歪さが設置されていて、演じ手の覚悟がないと成立しないようになっている。清水尋也が演じる名無しこと山内照巳は、希死念慮のある者たちとネットでコンタクトを取り、「世の中には死にたがっている人がたくさんいます」「そういう人は救済してあげないと」との論理で、自殺ほう助という名の下で人を殺める男。その人物像には世間を震撼させたいくつかの事件の犯人像の欠片を見出すことができる。このよう人物を下手に演じると作品が根底から崩壊し、その主犯として監督よりも演者の方が矢面に立つことが多い。伊東蒼と清水尋也が引き受けた覚悟が支える作品なのだ。また、『さがす』のドラマの起となる公子を演じた成嶋瞳子の感情を言葉にして伝えられないもどかしさも胸を衝く。

片山監督は父親が過去に指名手配中の犯人を市中で目撃したということも公言していて、西成エリアでのロケ撮影も踏まえているので、皮膜虚実の映画作りにおいて『さがす』はかなり「実」によった作品のように巧妙に誘導されている。ところが、ところどころ、やけに手を抜いたというか、実に雑な味付け展開があり、憤怒させられるのだ。例えば、父親が消え、一時的に保護者なしでの生活を余儀なくされる楓に、蔵島先生がいきなりシスターを連れてきて、問答言わずにそこにいれようとする場面の雑さはなんや! あんたはドキュメンタリー映画の『さとにきたらええやん』を知らんのか、誰でも受け入れるこどもの里という施設があるやろ、と大阪弁でごねてみたくなる。そもそも、『岬の兄妹』のときも、生活保護という制度のない世界観に憤る観客がいたけれど、今のところ片山監督の映画の中には頼りになる行政というものは存在しない。そしてこの映画の最大の雑味は、警察官の描き方で、何度も暴動を経験した西成警察署の要塞のような建物を知っている人からすると、この映画に出てくる警察官は、実際の警察官とはまるで違う在り方なのがわかるだろう。そうでなきゃ、あんなガードマンのようなペラペラの制服は着ていない。実際の西成警察署の正面で立っている警察官の通りがかる者を射るような視線は、映画の中では全く排除されているのだから。

とするとこの映画は、実は皮膜虚実の「虚」にぐっと傾いた作品であることがわかってくる。

手の込んだ仕組みの中で、片山監督は『岬の兄妹』に続き、人が一線を越えてしまう瞬間を観客に提示する。佐藤二朗演じる智は自問自答する。妻の公子の苦しさを今、解消するべきなのか、それとも、この苦しさに最期まで並走する覚悟が自分にあるのか。名無しこと山内はさしずめメフィストフィレスなのだ。成嶋のその人物の最後の表情では、これが彼女の望んだ最後なのか、それともそうではないのか、はっきりとは明示されない。大人たちの意思がグラグラと揺れる中、楓の強い意志だけが希望である。これは西成の土地で育まれた楓の逞しさであり、強さなのだ。

と、綺麗に終わらせたいところだが、ラストのその先の楓の未来について想像してみると、前出の雑な設定が微妙に尾を引いていることを、関西のおばさんは見逃せない。虚のドラマだからこそ思い切り煮込むことが出来る人間のえぐみを、片山監督がこの先も追い続ける限り、私のように「これは現実と違う」「この設定はなんで?」とグチグチと言い続ける観客は途切れないだろう。興奮と憤怒の感情の行き来の中で観客の正義心を翻弄することがこの人の作家性なのかもしれない。まあ、グチグチ言えなくなった片山慎三の作品を見る日がきたら、その時の日本映画界は相当窮屈な状況になっているだろうと予測する。 

映画ジャーナリスト 金原由佳
朝日新聞、福音館書店「母の友」、LEEWEB「金原由佳のエンパワーメント映画」、シニア雑誌「素敵なあの人」などに映画評を執筆。昨年、没後20年を迎えた相米慎二監督のエッセイ「相米慎二 最低な日々」(ライスプレス)と、出演者とスタッフの証言で相米イズムを検証する「相米慎二という未来」(東京ニュース通信社)の2冊の編・執筆を担当した。
公式HP http://yukakimbara.jp/profile.html