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推しを語れないストレス。ツイ廃民の愛。

君は推しがあるだろうか?

なんでもいい、映画でも俳優でも、漫画でも、小説でも、曲でも、絵でも、メーカーでも、酒でも、服のブランドでも、気になる戦国武将でもいい。

推しがあるだろうか????

そして、君はそれを語れるだろうか????


本日Twitterのつながり同士で飲み会をしたのだが、後半から推しを語る会になった。

音楽、YouTube、漫画、映画、小説などなど。メジャーじゃないけど個人的に推しているものを語り、押し付け布教しあっていた。

私はなぜか、最高に気持ちよかったのだ。

それはなぜだろうか?自らが語りすぎたためだろうか?自己満足だったためだろうか??いいや、違う。

それは己の溢れんばかりの母性を、愛を、伝えることができたからではないだろうか。

私は長年Twitterを使っており、一応発散しているつもりだった。しかし飲み会でまだまだ推しへの愛を語りきれていない、欲求不満状態であることが分かった。わかるだろうか?

愛を語る事に回数なんて関係ないのだ。

何回言っても言葉は足りないし、何回だって同じことを伝えたい。

好きだ。

大好きなんだと。

何回だって言いたい、好きなんだと。


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友達によくよくきいて分かったのは、皆、推しへのこの溢れんばかりの愛があふれて、注ぐ先がなくて、欲求不満だったことだ。

飲み会では好きな小説の話もでた。Twitterではなかなか語る事のできない好きな小説家の話をだ。

そもそもだが好きな小説家を語る場が、日常であるだろうか?いや、ないだろう。普段TwitterでYouTubeやビジネスの話をしていても、なかなか好きな小説を熱をもって語ることができない。

私たちはいつの間に、推しを語る場所失っていたのだろう。

私はTwitterをそれなりに自由に使っているつもりだが、それでもまだまだ言えていないことが多かった。無論ビジネスの秘密保持に関わることは語れないのは当然である。しかしながら、自分の好きな作品を語れないのはどういうことだろうか?

自由な発言の場なのに?

ルール無用のTwitterなのに?

それはやっぱり、Twitterが独り言の「呟き」じゃないからだろう。

私たちは自由なようで、どうしても誰かに遠慮しているようなのである。いまだに現実のルールから逃れることができない。「世間さまのタイムラインにお邪魔している」意識が強いのだ。

世間様に一方的に好きなものを語るなど、迷惑行為、無礼千万である。かろうじて語れるとしても、「どうしてもおすすめしたいから」という体をとらないとできない。

ツイ廃といわれる連中も例に漏れない。

飲み会でちょっと聞くだけで、推しが出てくるわ出てくるわ。推しを語る場所がなく、ストレスを感じていたのだろう。

なぜ私たちは好きなものを好きと語れないのか?

現実よりも自由で制約がないとされる、ツイッターでさえもだ。

普段はすまし顔でマーケティングの話をしているが、皮をはがせば中にいるのはただのオタクである。

「人の意見を聞きなさい」

「自分の話ばかりせず、聞き手にまわりなさい」

「相手のことを慮りなさい」

幼い頃から私たちは、そんな言葉を頂戴してきた。

しかしながら、それらは全てくそくらえでございますわ。

今、飲み会を経て推しへの愛を語ることができたのだが、私は達成感と、さらなる愛への自覚で胸が張り裂けそうである。人生が充実したことを感じた。

愛とは生きる場所と得たり。

プライベートの世界だと、自由な発言の場だと信じられているツイッターだが、意外とわたしたちは既存世界のルールに縛られている。せめてツイッター民くらいは、その縛りから解き放たれて欲しい。

どうせあなたの話なんて誰も聞いていないし、むしろ、愛を語ってくれた方が私やそれ以外のツイ廃にとって有益である。

というか、愛を語れないことはストレスである。

あなたの健康を害する可能性があります。

愛を表現することは、ストレスを発散し、精神衛生を改善させる効果がありあます。

万国のツイ廃民よ、その枷から解き放たれ、ぜひ愛を語ってほしい。

そうすることで、私はまた新たな愛の注ぎ先をみつけることができるし、世界は平和になりそうである。

愛の伝道師となり、すこやかにツイッターをしてほしい。

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