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横崎警察署事件簿④長い坂

 横崎警察署の四階のデスクで脇田刑事は書類の作成に四苦八苦していた。
 管轄内で二か月前から起きているバイクの窃盗事件の捜査で一日中、足を棒にして歩き通しだったのに署に戻ればデスク仕事である。
 捜査は足でかせぐ、というがこれほど聞き込みをしているのに犯人逮捕につながる重要な情報を得られないのは犯行の時間帯が深夜であるためだった。
 更に中々抜け目のない犯人で防犯カメラのない民家やアパートに停められたバイクが被害にあっている事も捜査を難しくしていた。

 そんなお疲れの脇田にとなりのデスクに座っている白石刑事が容赦なくはっぱをかける。
「おい、頑張れよ。そうでないと定時に帰れない」
「先輩、時間になったら先に帰ってください」
「そういう訳にはいかない。俺たちは仲間なんだから」
「・・」
 何もしないで口だけ動かしている仲間はいらないのだが、そう言ってやりたいのを押さえながら書類とにらめっこをしていると
「脇田、ちょっと会議室に来てくれ」と課長代理に呼ばれた。

 なんだろう、怒られる事したか? と脇田はこの一週間を思い返した。すると思い当たるふしがあり過ぎて絶句した。
 仕方なく神妙な面持ちで課長代理に付きしたがって会議室に入ると見知らぬ男性が二人テーブルに着いていた。
「となりの管轄の中央警察署の方たちだ」課長代理は言った。

「あの、これはどういう事で?」
「実はお訊きしたい事がありまして・・」二人のうちの一人が話し出した。
「元木京子という女性をご存じですか?」
「元木?」
「二十年前は脇田京子という名前でした」
「あっ」
「知っているのですね」
「母です。二十年前に両親は離婚しました。それで何か?」
「実は・・元木京子さんは昨夜、お亡くなりに・・」
「え?」
 脇田が言葉を失うと会議室は静まり返った、そして長い静寂を破ったのは席を立とうとする中央警察署の刑事たちの衣のれる音だった。
「・・では我々はこれで」
「何ですか?」
「え?」
「亡くなった事を知らせる為だけにお二人が来られる事はまず無いでしょう。彼女の死に不審な点があって関係者に話を訊いているのではないでしょうか」
「そうですが、脇田刑事も辛いでしょうから後日改めて」
「大丈夫です。もう調べてご存じかもしれませんが両親の離婚の原因はあの人に父以外の好きな男性ができたからです。ですから二十年前、私が十一歳の時にあの人が家を出てからは一度も会っていません。薄情かもしれませんが驚きこそすれ悲しいという気持ちは無いのです」
「そうですか」
「不審な点はなんですか? あっ、すみません」
「肉親としての感情は無いが刑事として興味がわきましたか」
「すみません、管轄外だから刑事といえども訊いてはいけませんでした」
 二人の刑事は顔を見合わせるとここだけの話ですが、と前置きして話始めた。

「昨夜十一時過ぎに彼女は横崎二丁目の自宅アパートにタクシーを呼びました」
「横崎二丁目ってこの警察署のすぐそばじゃないですか」
「ええ」
「そんな近くに住んでいたなんて・・」
 中央署の刑事は苦笑した。
「それで五丁目にある横崎総合病院に行って欲しいと運転手には頼んでそうです。あそこが夜間診療をやっているのを知っていたのでしょう」
「なるほど」
「ところがタクシーが病院に着くまでのわずか十分の間に容態は急変しました。病院の救急外来に車が着いた時には意識は朦朧もうろうとしていたようです」

 医師たちの処置もむなしく元木京子は亡くなった。

「それで病院の医師に尋ねたところ彼女は朦朧とした状態で『会社の階段で転んだ』と言っていたそうです。我々もその証言を元に事故という線で捜査し始めたのですが・・」
「おかしい点があったのですね」
「ええ、彼女の勤務先の社屋は平屋建てで階段は入口にあるわずか三段の階段でした」
「それは妙ですね」
「ええ、幸運にも会社には防犯カメラが設置してあったので調べてみたところ夕方の五時二十分に退社する元木京子さんが映っていました。転倒はしていませんでした」
「その後の足取りは分かっているのですか?」
「彼女はバイクで通勤していたのでバイクで横崎二丁目のアパートに戻ったのが三十分後の五時五十分でした。時間的にみても寄り道をしたとは思えません。その後、夜十一時にタクシーを呼ぶまではアパートの敷地を出た形跡はありませんでした。アパートの隣に建つマンションの防犯カメラで確認済みです」
「彼女のアパートの部屋は何階でしたか?」
「二階です」
「ではアパートの階段から落ちたのでは」
「我々もそう考えていますが肝心のアパートの階段が建物の死角になって防犯カメラに映っていません。しかも亡くなった本人はウソをついている」
「そうですね、何故ウソをついたのか・・」
「ええ、そこなんです。私たちもそれで捜査しているのです」

 二人の刑事は帰って行った。

 自分のデスクに戻った脇田は途中だった書類の続きをしようとしたが、どうにも集中できない。
 気付けば手は止まり代わりにせわしなく脳みそが動いているのだ。

 何故あんなウソをついたのか

 その様子を見た横の白石刑事が訊いてきた。
「おい、どうした、変だぞ。課長代理に呼ばれていたが何があった?」
「駄目ですよ」
「何がだ」
「言っちゃダメなんです」
「なんて水臭い事を言うんだ、俺たちは仲間だぞ」
 都合のいい時だけ仲間になんだから、と思い聞き過ごそうとしても
「相談にのるぞ、俺たちは仲間なんだから」としつこいのだ。
 脇田はため息をついた。
「絶対、内緒にして下さい」彼はそう前置きすると話だした。

 しゃれっ気のない頑丈だけが取り柄の壁掛け時計は四時十五分を指していた。
 白石に一部始終を話した脇田はデスクの上を手早く片づけた。

「おい、どうした」
「気になって仕事にならないから行ってみます」
「おい、調べようなんて考えてないよな。分かっていると思うが管轄外だぞ」
「ちょっとアパートに行ってみるだけです。目と鼻の先ですから」
「やめとけ、課長代理ににらまれるから」
「お先に失礼します」
「仲間である俺の言う事がきけないのか、おい」

 調べなければ

 何かに突き動かされるように部屋を出ていく脇田には、いつもおどけた口調の白石が珍しく真剣なのに気付く余裕はなかった。

 警察署を出た脇田は通いなれた官舎への道とは真逆の方向に歩き出した。途中、三度ほど角を曲がったがその後はなだらかな長い上り坂となった。

 上り坂に息を切らせながら昔の事が思い出された。

 小学生のころ彼には中々、友達が出来なかった。
 明るく活発だった彼は新学期を迎えると新しいクラスにもすぐになじんで友達も出来た。 
 でもその友達が徐々に離れていくのだ。

 やがてそれが母のせいだと気づくのに時間はかからなかった。

 学校では学期ごとに授業参観がありその後には懇談会がある。そこでの母の発言が保護者の間で噂になっていた。

 『何故、出席簿は男児の後に女児がくるのでしょうか、男女平等の今の時代にそぐわないのではないかしら』
 『ランドセルは男児が黒、女児が赤と決めるのはいかがなものでしょう、男性は黒を女性は赤を好むものだという既成概念にとらわれずに個々の好きな色を選ぶのがいいのではないかしら』

 今だったら受け入れられ浮く事もなかっただろう。
 だが当時の母は噂になった。

 脇田くんのお母さんはめんどくさい

 そして敬遠された。
 それでも母は必ず懇談会に出席した。
 子供の脇田はそれがイヤである日、もう授業参観に来ないでほしいと懇願すると母は目を赤くして言った。

「私は間違ったことは言っていないわ」

 次の懇談会、母は出席しなかった。

 脇田の息は切れ額にはうっすらと汗がにじんだ。やがて坂を上りきるとそのアパートはあった。

 署を出てから十五分、直線距離だと七、八百メートルといったところだろう。
 アパートは腰の高さほどのフェンスで周りを囲まれ入り口は坂に面した一か所のみだった。敷地内には自転車兼バイク置き場そして駐車スペースも設けられている。

 彼は坂をはさんで真向いに建っているマンションの防犯カメラを険しい顔で見つめた。

 アパートの入り口、自転車置き場、駐車場これらは全て映っているだろうが、肝心の階段はアパートの向こう側で完全に死角になっていた。
 中央署の刑事たちの言った通りだ。

 まいったな、彼は途方にくれた。

 防犯カメラが絶望的なら警察手帳を提示して周辺をしらみつぶしに聞き込みをしてもいいのだが、管轄外の事案だからそれは出来ない。
 自分がお手上げ状態な事に気付くと熱に浮かされたように高ぶっていた気持ちは落ち着きを取り戻した。

 帰るか、そもそも俺には何の関係もない事じゃないか

 そう思った時だった。
「あの、何か用ですか?」
 背後から声を掛けられ振り向くとレジ袋を持った初老の女性がいぶかし気に彼を見上げていた。

「あの・・」
「もしかして刑事さん? 京子さんの件で来たのね」
 警察手帳の提示を求められなくて脇田はほっとした。
「このアパートの住人の方ですか?」
「アパートの大家です。一階の端の部屋に住んでいるわ。もともと京子さんとは同じ水彩画教室に通っていた友達で」
「ああ、それで」
「何が?」
「少し職場から遠いですよね、何故このアパートにしたのか疑問に思っていました」
「もう一緒に教室に行けなくなってしまった」
 女性はそう言うと肩を落とした。
「昨晩、何か物音を聞きませんでしたか?」
「お昼に来た刑事さんも同じ事を訊いていたわ。でも私、歳のせいか耳が遠くなってしまって」
「そうですか」
「ただ・・」彼女は少し眉間にしわを寄せた。
「何ですか? どんな些細な事でもいいのです、教えて下さい」
「二週間くらい前に夜中にここに停めて置いたバイクが盗まれたの。それで新しいバイクを買って」
 大家は駐輪場に停めてある真新しいバイクを見つめた。
 脇田は首をかしげながら言った。
「確か盗難届は出ていませんでしたよね」
「ええ、私も警察に届けを出したらって言ったんだけど横崎署に知り合いがいるから迷惑かけたくないって京子さん届けを出さなかったのよ」
 彼女はため息をついてアパートを見つめた。
「京子さん、このアパートの階段で事故にったの?」
 脇田は捜査情報をもらす訳にいかず黙っていた。
「もしこのアパートの階段から落ちたなら悲しいわ・・こんな事になるならあの時、一階の部屋に入っていれば・・」
「どういう事です?」
「最初は一階の部屋が空いていたの。それで京子さんに勧めたら彼女も乗り気で見に来たんだけど急に二階の部屋がいいって言いだして。わざわざ二階の部屋が空くのを待って入居したのよ」
「そうでしたか。他に思い出した事はありませんか?」
 大家は首を振った。
 脇田は礼を言うとアパートを後にした。

 帰りは逆に長い下り道となった。
 上りとは違い勝手に足が前に出そうになるのを少しブレーキをかけるようにしてゆっくりと彼は歩いていたが頭はフル回転していた。

 何かあった。気付かなければいけない事が、なんだ?

 何かがチラチラと見え隠れして事件のあらましが明らかになろうとしているのにつかむ事が出来ない。
 いつしか脇田は足を止め眉間に深いしわを寄せていたが、ふっと眉根から力が抜けた。

「ああ、そうか」

 彼はきびすを返すと坂を再び上りアパートの向かいに建つマンションに飛び込んだ。そして管理人室の小さなガラス窓に警察手帳を提示して言った。

「こんばんは、横崎警察署の脇田と申します。防犯カメラを見せてもらいたいのですが」

 翌日。
「脇田、お手柄だったな」
「ありがとうございます」
 違う課の年配の刑事が警察署の廊下ですれ違いざまに話しかけて来た。
「それにしても盗難届の出ていないバイクの情報をよく手にいれたな」
「はい、たまたまでした」
「いや、地道な捜査が実を結んだのだろう、良かったな」
「はい」
 脇田は恐縮して直立不動で答えた。
 それを横で見ていた白石刑事が小声でぼやく。
「なんだよ、俺に対する態度と全然違うじゃないか」

 昨日、脇田は二週間前に起きた元木京子のバイクの盗難をマンションの防犯カメラの映像で確認した。
 そこに映っていた犯人の顔には見覚えがあった。
 何回も逮捕歴のある男だったからだ。
 早速、今朝から任意で事情聴取をしたところ二か月前からの一連のバイクの窃盗事件への関与を認めたのだ。

 脇田はデスクにつくと書類の作成にとりかかった。壁掛け時計の時刻は五時を回っている、急いでいた。
 すると隣のイスであくびをかみ殺していた白石が言った。
「おい、何をしている?」
「書類を作らないと」
「そんなの明日にしろ」
「でも今日作らないと」
「なら俺がやってやる」
「え?」
「あそこに行くつもりだろ。もう行け」
「・・先輩、やっぱり分かっていたんですね。だから俺に首を突っ込むなって言ったんですね」
「ああ、ほら、行け」
「でも・・」
「遠慮するな、俺達は仲間だろ」
「・・」

 脇田は深く頭を下げると足早に部屋を出た。

 昨日と同じだがアパートへの上り坂はやはり長かった。
 右手には途中で買った小ぶりな花束を持っている。
 彼はため息をついた。
 数時間前まで彼の中にあった手柄を立てた喜びは跡形もなく消え去り、今は自分の至らなさにへこんでいた。

 駄目だな俺は、何も分かっていなかった。
 先輩の事も、あの人の事も・・

 彼が真相に気付いたのは大家の言葉だった。

『私も警察に届けを出したらって言ったんだけど横崎署に知り合いがいるから迷惑かけたくないって京子さん届けを出さなかったのよ』

 アパートの階段から落ちた元木京子は病院に着くころには容態が急変していた。混濁こんだくする意識の中で彼女は思ったのだ。

 このまま死んだら息子に迷惑をかけてしまう

 アパートは横崎警察署の管轄だ。彼女が死ねば横崎警察署の刑事達は事故か、事件か捜査しなければならない。
 彼女は息子に迷惑をかけまいと会社の階段で転んだとウソをついた。
 結果、管轄は中央警察署となった。

 彼は坂を上りながら二十年前の事を思い出していた。
 離婚すると言い出した京子に驚いた彼女の実母、脇田にとっては祖母が家を訪ねて来た。
 祖母は言った。「離婚なんて、子供だっているのよ。やり直す事は出来ないの?」
 母は無言で頭を振った。
「離婚してどうするの? 相手の男性と再婚するつもりなの?」
「彼にも家庭があるの。子供の為に奥さんとは離婚しないって彼は言っているわ。だから再婚は無いわ」
「じゃあ、何で京子だけが離婚しなくちゃいけないの? おかしいでしょう」
「だって出来なくなっちゃったの」
「何が出来ないの?」
「彼の事を好きになったら夫の前で妻の顔が出来なくなっちゃったの」

 脇田の母は一週間後に家を出た。

 彼は右手の花束を見つめた。
 好きだった花を知らなかったので仕方なくただ白い花で見繕みつくろった。
 彼が母について覚えている事は極端に少ない。
 十一歳までは家族だったのだからもっと思い出があってもいい筈だが、自分達を捨てた彼女に対する仕返しとして思い出を捨ててしまったのかもしれない。

 そして子供のころは理解できなくて許せなかった母と今、脇田は対峙していた。

 自分の気持ちに正直でありたいと家族を捨てたあの人、
 正直すぎて器用に生きられなかったあの人が最期さいごに俺の為に懸命についたウソ、
 でもそのウソに周りは混乱をきたしている。
 どうしても浮いてしまう、その不器用な人生を想った。

 気付けばアパートに着いていた。
 彼は階段下に花束を手向けると手を合わせた。
 そして階段を上り始めた。
 長い坂道を上がって来たばかりで更に、である。
 息はあがっていたがゆっくりと上っていく。

 見なければならない物があった。

 彼女が二階にこだわった理由。
 見当はついていた。
 でも彼女が毎日、見ていた物と同じ物が見たかった。

 やがて体が泣き言を言いそうになったところで、それは見えた。

 山からじわりと降りて来る夕闇にあらがうようにあかりをともし浮かび上がる横崎警察署。

 ふいに無かったはずの感情がこみ上げる。
 心が泣き言を言って警察署の灯りがぼやけて見えた。

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